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Mar 19, 2015

◯ ショートノベルズ 診察室

ハンナとジュテーム?

Text by Hiroko Hosaka & Illustration by Yurie

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星野さんの部屋は、まことさんの気配で満ちている。 星野さんの部屋にあるものは、色調や大きさがバラバラなのに、なんとなく全体でまとまっている。星野さんとまことさんの色でまとまっている。居間は大通り に面していて、大きな窓からは目線よりも心持ち下の方に車が走っているのが見える。部屋はバンクーバーの初夏の若い光に満ちている。私はその暖かな光の中 でまどろんでいた。ツーシーターの大きなソファーの上に横になり、小さな女の子の髪の陽だまりの匂いを嗅いでいた。ハンナが寝返りをうち、私の胸に顔をう ずめた。ぐっすりと眠っているハンナの身体は熱く、私は少し汗ばんでいた。もうすぐ、まことさんがハンナを迎えにくる。

星野さんとは、私がアルバイトをしているいとこのバーで会った。そのバーは、もともと、それほど混まない店で、その日も暇だった。テーブル席にカッ プルが一組、カウンターに一人で飲んでいる男性客がいるきりだった。その男性客が星野さんだ。私はすぐにやることがなくなり、いとこにモヒートを作って 貰って、いつでもサーブ出来るようにカウンターに座った。星野さんから3席ほど離れて座り、飛行機の中などで読むときに使う小さなライトをつけて本を広げ た。モヒートの緑が底に鮮やかに沈んだグラスに小さな光が反射した。

やがてテーブルのカップルが帰り、客は星野さんだけになった。星野さんは本を読むでもなく、携帯をいじるでもなく、ただぼんやりとしていた。いとこ は明日の仕込みをはじめていた。大量のキャベツを千切りにするリズミカルな音が、ジャズの悲しい旋律を少し和らげていた。星野さんは実はお酒を飲めないの か、目の前に置かれたジャックダニエルが全然減っていなかった。それどころか、氷が溶けて量が増えていた。カップルのテーブルを片付けてカウンターに戻っ た私の音で星野さんがこちらを見た。そして、私が読んでいる本を見て、小さく、「あっ」と言った。

私はマイケル・オンダーチェの「アニルの亡霊」を読んでいた。スリランカを舞台にした話だ。法医学者のアニルは、ジュネーブの人権機構から派遣さ れ、内戦の絶えないスリランカへ行く。掘り起こされた白骨死体を検死するためだ。 組織的な大量殺人が行われれいると各地の人権保護団体から訴えが出ていた。15年ぶりに故郷へ戻り、サロンをまとってアニルは懐かしい街を歩く。アジアの 暑く湿った空気が立ちのぼってくる。

「まことが……別れた妻が好きな本です」と星野さんは現在形で言った。「イングリッシュ・ペイシェントの原作者の本ですよね。一緒に映画を観まし た」星野さんの別れた奥さんは、映画の中で、頭にターバンを巻いた美しいキップが壊れかかった教会の高い天井近くの壁画をハンナに見せてあげるシーンが気 に入り、オンダーチェの本をいろいろ探して読んだのだそうだ。

「まことは本なんて読まないんです。なのに、マイケル・オンダーチェの本だけは気に入って」星野さんは続けた。「写真とか音楽とか映画が好きなんで す。僕は旅行と小説。まことは僕の好きなものになんか見向きもしなかった。なんで、僕と結婚したのかな? ってずっと思ってた」それから、氷の溶けたグラ スを持ち上げ、カウンターの上のぼんやりした光を覗いた。口はつけなかった。私は写真にも音楽にも映画にも旅行にも興味はないなと思った。本も暇つぶしに 読んでいただけだ。私は何に興味があるのだろう? 自分の子宮にさえ興味がない。私はいとこに言って、モヒートをもう一杯作って貰った。

のんびりと目覚めた。部屋の中が暗い。まだ夜なのかとぼんやりと思い、もう一度眠りに入ろうとしてハタと思い出した。顔をそーっと左に向けると、も ちろん、そこには星野さんがいた。ぐっすりと眠っているようだ。部屋を見渡してみると、細く光が差し込んでいるところがある。しっかりと降ろされたブライ ンドが少し曲がっていて、その奥の窓から光が入り込んでいるようだ。朝なのだ。

私は星野さんを起こさないように、ゆっくりとベッドから這い出した。床に無造作に脱ぎ捨ててある下着を細い光を頼りに拾い集め、素早く身につけた。 白い薄手の長袖のTシャツは ベッドの端に、 抹茶色のコットンのロングスカートは部屋の入口のドアノブに引っ掛かっていた。白のTシャツの上に重ねて着ていた臙脂色の襟なしのシャツが見つからない。 顔を上げると、暗闇に慣れてきたのか、部屋の隅にスタンド式のコート掛けがあるのが目についた。そこにぶら下がっているものがある。近くへ行き、シャツを ヒョイと取った。そして悲鳴を上げそうになった。実際には声も出ず、あわあわとへたりこんだ。私は無言のままシャツの下から現れたものを見ていた。白骨死 体だった。

白骨死体が直立でたっていられるはずはなく、しばらくして、それは等身大の骨格標本だと理解できた。改めてあたりを見渡してみると、壁にはいろいろ なポスターが貼ってある。素っ裸の男性の全身にツボのポイントが描いてあるのや、リフレクソロジーのカラフルな足の裏、ハルハ河の荒野で将校に皮を剥がさ れてしまった山本みたいに、筋肉が剥き出しになった男。その下の机の上には、背骨と骨盤だけの骨格標本がのっていた。手の平くらいの大きな耳もある。他に も何に使うのかよく分からない器具が雑多に置いてあった。車のバッテリーが上がってしまった時に使う、大きなピンチみたいなものに興味があったが手には取 らなかった。私は白骨死体に一晩引っ掛かっていたシャツを着ると、細くドアを開けて外に出た。

ベッドルームの外は大きな空間で、右手に窓のあるキッチン、左側は居間だった。ベッドルームとは対称的に窓からの光を遮るものはなく、初夏の若い光 に満ちていた。キッチンは名前の無い裏道に面しているのだろう。窓に桜の木の葉が掛かっていて涼しい影をシンクに落としていた。シンクの前には、高さが腰 くらいまである長方形の大きめの木のテーブルが置いてある。手作りなのか、細い4本の脚の太さがなんとなくにしか合っていない。椅子はない。昨日の夜、何 か飲むかと聴かれて用意されたマグカップとお茶の缶が、結局使われないままテーブルの上に置きっぱなしになっていた。私は、ガス台の上に出ていた小鍋に水 道水を入れ、湯を沸かした。お茶の葉を入れるポットが見当たらないので、悪いとは思ったがシンクの上の戸棚をパタパタと開けた。いろいろな色や大きさの違 うお皿やコップが適度に整理されて並んでいる。数がなんとなく2人分だった。旅行好きの星野さんが、まことさんとあちこち旅する中で買い揃えたものだと、 なんとなく分かった。透明な急須があったので、それを使わせてもらうことにした。お茶は日本茶だった。

お湯が沸ける間に、居間のほうを探検した。壁という壁が本棚で埋め尽くされていた。大きな窓の下のほうは壁になっていたが、そこも本棚だった。どの 本棚も下から2番目だけ棚の高さが低く、そこの段には本はなくて、やはり、統一性のないいろいろな額にいろいろな写真が入って飾られていた。どこか外国の 街角みたいな写真が多い。はにかんだほほ笑みの肌の浅黒い少女、鳥籠に入った2羽の虹色のインコ、誰かの家のテレビに映る演説中のフィデル・カストロ。虹 色のインコの奥にぼやけた星野さんが写っていた。ノートか何かを見ている。旅のことを考えている星野さんと、あちこち勝手に動いて写真を撮るまことさん。 写真には、写っていないカメラマンが、まことさんが含まれていた。

それ以外の棚は、日本語の小説の文庫と英語の医学書みたいなのがぎっしりと並んでいた。合間にある雑誌、写真集、DVD 、CDなどが隙間に見え る。本棚がCDのところから息をしていた。医学書みたいなのは骨や筋肉に関連するのが大部分を占めていた。一冊、日本語のがあった。百科事典みたいに大き なそれを手に取ってみる。身体の部位の名前が細かく載っている。小鍋のお湯が沸騰しだしたので、本を持ってキッチンのテーブルへ戻った。透明な急須にお 茶っ葉を入れ、お湯を注いだ。お湯が薄い若葉色になった。

テーブルの上に百科事典を広げ、骨格のページをさがした。左の鎖骨、 肩甲骨、第二肋骨、胸骨、第三肋骨、胸骨、 鎖骨、 胸骨、背中側に回って腰椎、腸骨、仙骨、右大転子、右大腿骨、左の大腿骨、左の大転子、仙骨、腸骨、 腰椎と指でなぞってみる。そして、納得した。星野さんは鍼師かカイロプラクターか何かで、それも、ひどい職業病にかかっているのだと。相手が数時間前に出 会ったばかりの20歳以上も年下の若い女だったとしても、その張りのある白い肌や柔らかな脂肪よりも、その奥にある骨に魅了されてしまうのだろうと。星野 さんには私の骨盤の歪みが分かってしまい、治したくて治したくてたまらなくなってしまったにちがいない。

昨夜、星野さんはゆっくりと丁寧に、  私のそれらの骨をなぞっていった。特に腰椎、腸骨、仙骨あたりは念入りに何度も何度も。突然、機械的にうつ伏せにさせられた時には、星野さんは少し変わっ た趣味があるのかもしれないとひやっとしたが、もの静かであまり主張する感じのない印象の彼が、骨を触っている時には、静かではあるが、深く暖かな自信に 満ちあふれていて、私はその大きな感じに安心した。骨盤の奥のほうに守られた子宮がドクドクと波打った。そこにまだ子宮があると分かった。随分と時間はか かったが、星野さんがなんとか骨盤を通過し、骨ではない何かのことを考え始めてしばらくした頃、私の中をゆっくりと高く長い波が通っていった。

ガチャっと音がして、ベッドルームから星野さんがぬーっと顔を出した。私がキッチンにいるのを確認すると、ほっとしたような、気まずいような顔をし た。けれど、テーブルの上に百科事典が開かれているのに目をとめると、テクテクと私のほうに歩いてきた。そして、昨夜のあの大きな感じを瞬時に取戻し、事 典の図を指しながら女性の骨盤について丁寧に説明してくれた。星野さんによると、私の骨盤は美しいハート型をなしており、上下にも前後にも左右にも、完璧 なバランスを保っているそうだ。20年あまりカイロプラクターをしているが、これほどまでに完璧な骨盤を見たことはないとまで言った。それはまるで、心を 病んだ美しい人のようだと私は思った。完璧な外壁に覆われた私の子宮には筋腫があちこちに出来ており、全摘術をしなければ、取り残した筋腫が数年後にまた 大きくなるだろうと言われていた。

女の子は、おぎゃーと叫んだ時には、卵巣の中に原始卵胞を約200万個抱えている。原始卵胞は生理のはじまる頃までに約170万個から180万個が 自然消滅し、生殖年齢(今の私の年齢だ)の頃には約20~30万個となる。その後も減少は刻々と進み、生理があるたびに約千個が減っていく。原始卵胞とは つまり、卵子のもととなるものだ。この数は、母親のお腹の中にいる時に既に決まっている。精子と異なり生成されることはない。自然消滅もせず、卵子にも なっていない原始卵胞は、卵巣の中で保有者とともに歳を重ねる。卵胞が歳を重ねると妊娠しにくくなる。なくなってしまえば、妊娠することはない。血液中の アンチミューラリアンホルモン(AMH)の値を調べると、原始卵胞のおおよその残数を知ることが出来る。私の子宮の中にはどれだけの卵胞があるのだろう?  子宮を全摘出してしまえば、それがすべて消えてしまう。

子宮のことは、星野さんには言わなかった。私は星野さんに骨盤を触って欲しくて、彼の家にたびたび遊びに行った。私がわざわざリクエストなどしなく ても、星野さんは骨盤のところにくると決まって長居をした。そして、ボクシングで優勝した息子のチャンピオンベルトを撫でるみたいに、 腰のあたりを誇らしげになぞってくれた。そうされるたびに子宮がドクドクと波打った。私はふんわりと暖かい気持ちになり、そのまま眠ってしまうこともあっ た。

ある日、その柔らかな眠りの中で夢を見た。私はクリニックの分娩台のようなものに座っていた。不妊治療を専門にしている友達の叔父さんをたぶらか し、定期的に排卵誘発剤を打って貰っていた。叔父さんは今、超音波画像を見ながら採卵専用の針で私の卵胞を刺していた。卵巣から卵細胞を吸引しているの だ。これまでに吸引し冷凍保存された卵子は、彼の後ろの壁の奥にある培養室に保管されている。排卵の誘発と採卵を、半年もの間、繰り返し行っていた。私の AMH値はみるみる下がっていった。採卵が出来るのはあともう一回だけだろうと、先ほど、分娩台のようなものによじ登る私に叔父さんは言った。

「さあ終わったよ」と叔父さんが言った。つむっていた目をあけると、そこにいたのは叔父さんではなく星野さんだった。星野さんは糊のきいた清潔そう な白衣を着ていた。私ににっこりとほほ笑みかけると、手の中の小さな瓶を持って培養室に消えた。私はすばやく下着をつけて、星野さんの後を追った。星野さ んはちょうど、牧場の巨大な牛乳瓶みたいなものの中に、私の卵子を保管するところだった。

牛乳瓶にふたをすると、別の牛乳瓶を出してきてふたをあけた。白く冷たい煙がほわっと立ち上がった。イフリートが出てくるアラビアの壺みたいだ。一 つ一つ丁寧に確かめながら、私の名前の書かれた小さな瓶を取り出す。星野さんはかわいらしい赤いハート型の箱を用意していて、その中に小さな瓶をきれいに 並べた。ハート型の箱がいっぱいになると、それを私に差し出した。私は箱を受け取ると、星野さんにお礼を言い、培養室のドアを開けた。白く冷たい煙が私と 赤い箱を包んだ。

煙が消えると、そこはどこか村落のようなところだった。目の前に山が聳え、緑が鬱蒼と茂っていた。遠くに河の流れる水音がした。一軒、日本の農家の ような平屋の家があり、縁側で若い女の人が泣いていた。「どうしたの?」と聴くと、子供が出来ないから家を追い出されると泣いている。私はハート型の箱を あけて、私の卵子を彼女にあげた。若い女の人は喜んで、そして私を家にあげてくれた。昼ご飯にしないといけない時間だと。彼女が縁側のふすまをあけると、 白く冷たい煙が私と赤い箱を包んだ。

煙が消えると、そこはどこかヨーロッパみたいな石畳の坂道だった。ギラギラした太陽の下に青い海が広がっている。海に向かって伸びたくねくねの坂を 上がっていくと、小さなレストランがあった。店先にきれいな男の人が2人座っている。手をつなぎ、見つめあっている。私が横を通り過ぎようとすると、2人 揃って顔を上げ、私に笑いかけた。そして、言った。「僕達、結婚できることになったんです」私はおめでとうと言った。少し年上のほうの人が続けて言った。 「子供が欲しくて。でも、女の人とは愛しあえないんです」私は卵子の入った小さな瓶を2本上げた。きれいな男の人達は喜んで、私にご飯をご馳走したいと 言った。開け放たれたレストランのドアをくぐると、 白く冷たい煙が私と赤い箱を包んだ。

煙が消えると、 そこはどこかアジアの市場だった。むんとした暑い空気の先にたくさんの野菜が並べられていた。細い通路を歩いた。スッキリしたお茶の葉の匂いが漂ってき た。その先からカラフルな香辛料の香りがした。缶に入った何種類もの葉っぱの間でピンク色の猫が泣いていた。「どうしたの?」と聴くと、なぜか分からない が子猫が生まれないと泣いている。ふと気配を感じて足元を見ると、私の飼い猫が座っていた。小さな赤いハート型の箱をくわえている。深い赤が、猫の毛の長 いふわふわとした真っ黒な身体に似合っていた。黒猫は器用に箱のふたをあけ、中から小さな瓶を取り出すと泣いている猫の前に置いた。ピンクの猫はきょとん とした様子でしばらく小さな瓶を見ていた。やがて、瓶をコロコロと転がしてじゃれはじめた。ひっくり返った猫のお腹のところはそこだけ毛がなかった。

私と黒猫が歩き出すと、ふっと空気に湿った匂いがした。そして、雨が降り出した。人々が私達の横を足早に通り過ぎた。目の端にカラフルなサロンが 映った。アニルの亡霊が歩いていた。私はその様子をじっと見ていた。アニルが振り向いて私を見た。その亡霊はアニルではなくまことさんだった。私はまこと さんにも卵子をあげようと赤い箱を開けた。すると、白く冷たい煙が私と黒猫を包んだ。

顔を何かに踏んづけられて目が覚めた。昨日、自分のアパートから連れてきた黒猫だった。私はほとんど星野さんの家にいるようになっていたので、とう とう猫も連れてきたのだ。星野さんは仕事へ出かけたようで、部屋の中は私と猫だけだった。私は腕を伸ばして私の顔の横に座っている猫を撫でると、ベッドか ら起き上がった。下半身にぬるっとしたものを感じた。掛け布団をのけると、シーツに2ドルコインくらいの赤いシミが出来ていた。誘発剤を使い過ぎているた め、予期せぬ時に生理になるのだと思った。私はため息をついてベッドマットからシーツをはがした。瞳孔を大きくした黒猫がじゃれついてきた。

バスルームで汚れたシーツと下着を洗ってしまうと、キッチンへ行ってお湯を沸かした。棚からお茶缶を出し、お茶っ葉を透明な急須に入れた。お茶が出 るまで、缶を眺めた。スリランカのお茶のようだった。缶には猫の絵が印刷されている。ピンクの猫だった。黒猫が行儀悪くテーブルの上に乗ってきて、お茶の 匂いを嗅いだ。急須からお茶を注ぐと、 白い煙が私と猫を包んだ。 あたりが一瞬、アジアの市場のむんとした空気になった。

私は黒猫を撫でながらゆっくりとお茶を飲んだ。そして、気がついた。ベッドのシミは最後の卵だったのだと。不妊治療専門の叔父さんが言っていたでは ないか。 採卵が出来るのはあともう一回だけだろうと。私はそれを流してしまったのだ。私の子宮の中には、もう原始卵胞はないのだ。

その時、電話のベルが鳴った。アパートの入口に誰かが来た時のブザーの音だった。 星野さんはたまにお昼を食べに仕事場から帰ってくることがある。今日は鍵を忘れたのだろうか? と思いながらプッシュフォンの6を押して入口を開けた。し ばらくすると部屋をノックする音がする。「星野さん、鍵を忘れたの?」と言いながらドアを開けると女の人が立っていた。まことさんだった。

私はまことさんを街で見かけたことがあった。私はそれまでまことさんに会ったことはない。写真を見たこともない。星野さんの部屋には、まことさんが 残していった荷物がたくさんあったが、星野さんなりに整理してあり、まことさんの写真は人の目につくところには置かれていない。でも、私には、その女の人 がまことさんだと分かった。それは、彼女が星野さんにそっくりだったからだ。顔が似ているとか、そういうことではない。出している雰囲気が同じだったの だ。星野さんの双子の妹みたいだった。

その女の人はスーパーで買い物をしていた。野菜を物色していた。彼女が手に取る野菜は安くて新鮮なものばかりだった。セール品の山の中から、形は悪 くても張りがあって、瑞々しいものを探し出してはカゴに入れていた。彼女の手に触れると野菜が生き返るみたいに見えた。手品を見ているみたいだった。星野 さんが野菜を買うのが下手で値段も覚えられないのと対象的なのに、女の人からは星野さんと同じ気配が流れていた。

今、目の前に、その時の女の人が立っていた。ただ、顔が真っ青で、亡霊みたいだった。黒猫がやって来て、まことさんの脚にまあるい小さな頭をぐりぐ り押しつけてじゃれた。それに気がついて、まことさんの顔色に一瞬、赤みがさした。私は、「どうぞ」と言って、まことさんを部屋に招き入れた。

居間のソファーにまことさんを座らせると、キッチンの棚を開けて色鮮やかな赤いマグカップを手に取り、 ちょうど入れたばかりだったスリランカのお茶を注いだ。まことさんがこのアパートに住んでいた頃、いつもこの赤いマグカップを使っていたのではないかと 思っていた。久しぶりの出番にカップが喜んでいるみたいだった。まことさんにお茶を入れたカップを渡すと、虚ろな目でしばらく眺めていた。そして、無言で 飲んだ。まことさんがいることでマグカップも部屋も完成したパズルみたいに見えた。部屋の気配が濃くなった。私達は、黙ったまま並んでソファーに座ってい た。居間の窓から西日が指し始め、キッチンのテーブルの不揃いな4本の脚を照らした。光はやがて、私とまことさんの影に変わり、キッチンに前衛的な絵を描 いた。

鍵のガチャガチャいう音が聴こえ、星野さんが帰ってきた。ドアを開け薄暗い部屋のソファーに座る2人を見て、「うわあ!」と言った。そして、うち一 人がまことさんだと分かると鍵を床に落とした。 そのまま、鍵も拾わず、ドアも閉めず、 星野さんは 無言で固まっていた。まことさんは空になった赤いマグカップを腿の上に乗せ、両手でそっと包んだ状態で眠っていた。私はキッチンの前衛的な絵がどんどん薄 くなるのをぼんやり眺めていた。黒猫だけが私達の間を動き回っていた。その姿を闇に隠し、板の床にカシャカシャと爪の音を響かせていた。やがて、星野さん が男らしく第一声を放った。「2人とも大丈夫?」この状況で半ば放心した状態の中で星野さんが言ったこのセリフは、星野さんの今後の(星野さんが生きてい くためのと言ってもいいかもしれない)一貫した 態度を象徴するものだったのだと、私は後で知ることになった。

星野さんはドアを閉めると部屋の電気をつけ、ソファーのほうへやって来た。居間の低いテーブル越しに床に腰を下ろし、もう一度言った。「2人とも大 丈夫?」急に明るくなったので、まことさんは目を覚ました。私は星野さんに「この人、まことさんよね?」と目で言ってキッチンに猫のご飯を用意しに立っ た。星野さんがまことさんに聴いていた。「電話で話せないことでもあったの?」まことさんと星野さんは、私が星野さんのアパートに来るようになる前はよく 会っていたようだった。嫌いで別れたわけじゃないからと星野さんは言っていた。私が来るようになってからは会うことはなくなり、代わりになのか元からなの か、まことさんはよく電話をしてきた。今日あったこととか、面白いニュースのこととか、他愛もない話をし、せいぜい10分ほどで電話は切られた。掛けてく るのもまことさん、切るのもまことさんだった。

少し眠ったのが良かったのか、まことさんの顔色は少し良くなっていた。手の中のマグカップを星野さんに渡し、空いた手をお腹にあてた。そして、言っ た。「6ヶ月だって。今日知った」私は猫のご飯を持ったまま、まことさんのところへ行き、しげしげとお腹のあたりを眺めた。つられて星野さんもジロジロと 見た。まことさんが細いので気がつかなかったが、言われてみると、お腹が少し出ていた。星野さんが言った。「妊娠してることに気がつかない人って本当にい るんだ」その言いぶりで、私は本来、相手が星野さんかもしれないと疑うのが筋だということと、相手は星野さんではないらしいということを同時に思った。

もう少し劇的に驚かれることを覚悟していたのか、感心している私と星野さんを見て、まことさんは拍子抜けした表情になった。さっきまでの亡霊みたい な感じがサーッと引いていった。そして、気持ちが悪くなることも、酸っぱいものが食べたくなることもなく、年齢的に、単に生理が終わったんだろうと思って いたと説明してくれた。でも、万が一ということもあると思いドラッグストアでリトマス試験紙みたいなあれ(まことさんは妊娠検査薬のことをそう表現した) を買って調べたら陽性が出たのでびっくりして病院へ行ったのだそうだ。まことさんは星野さんと同い年だ。「あーあ、とうとう、終わったのかって思ってた。 喜ぶどころか、気づかなかった上に、あーあって思って過ごしてた」と疲れたように笑った。

私は猫にご飯をあげにキッチンに戻った。お湯を沸かし、お茶を入れなおした。その間、星野さんとまことさんは黙っていた。ご飯を食べ終えた黒猫がト イレに入るのを見ながら「あの猫、僕と同じだ。ご飯食べたらすぐにトイレに行く。燃費悪そう」と星野さんが言って、まことさんがまた少し笑った。今度は楽 しそうに。私がお茶を持って居間のソファーに座ると、まことさんは話を続けた。

「終わったんじゃなかったってことがとにかく嬉しかった。でも、先生が高齢出産の危険性を事細かく説明し始めて、ああ、そうか、産むのかって思っ て。死ぬかもしれないのかって思って。その場合、赤ちゃんって死体から自力で出て来て生きるんだなーって感動した。でも、産んだら育てたいと思った。そし たら、死ぬのも育てるのも怖くなった。この年齢で不注意に妊娠して、挙句に半年も気がつかなかったことを医者に笑われている気がしてきて、もういいです!  って怒って出てきちゃった。私、最近、すごく怒りっぽいの」そう言って、左の手首をひらひらさせた。薄手の長袖のシャツから病院の受付で付けて貰うプラ スティックの腕輪みたいなのが揺れた。急患に行ったということは、相当同様していたか、或いは実は具合が良くないのかもしれない。

「年齢が関係するのは妊娠するかどうかのほうで、難産かどうかは、骨盤の形なんじゃないのか?」 と骨盤フェチの星野さんが言った。 ちょっと間を置いて「若い人でもお産は命がけだよ」とやさしく言った。同意するように黒猫がニャーと鳴いた。私は言った。「明日、もう一度、一緒に病院へ 行きましょう」そして、まことさんの返事を待たずに、星野さんにおにぎりを作ってくれるようお願いした。星野さんが、「そうだね、お腹が空いたね」と言い ながら立ち上がった。星野さんがご飯を炊き始めると、私は不妊治療を専門にしている友達の叔父さんに電話をした。事情を説明し、まことさんを診てくれるよ うにお願いした。叔父さんは「その代わりという言い方は良くないと思う。でも、君も治療が必要だよ。分かってるね?」と言った。

まことさんと星野さんと私は、黙って星野さんが作ってくれたおにぎりを食べた。星野さんはお味噌汁も作ってくれた。おにぎりは、梅干しと昨日の残り のきんぴらと2種類あった。お味噌汁にはわかめとえのきが入っていた。まことさんは朝から何も食べていなかったらしく、おにぎりを3つも食べた。星野さん に話せたからか、ショックからは立ち直っているようだった。食べ終わり、そろそろ帰るというまことさんを、泊まっていくようにと私は執拗に引き止めた。星 野さんもそのほうがいいと言った。まことさんは随分と迷った後に「今日だけそうさせて貰う、ありがとう」と言った。

私は、置きっぱなしになっていたまことさんのTシャツに私の洗ったばかりの薄手のスエットパンツを用意すると、お風呂場に行ってバスタブにぬるめに お湯をはり、シーソルトを入れた。まことさんがお風呂に入っている間に、半ば物置化しているセカンドベッドルームを物色し、寝袋を2つ引っ張り出してきて 寝室のベッドの横に敷いた。ベッドのシーツは今日取り替えたところだったので、枕カバーだけ替えた。自分でもなんでこんなことをしているのか分からなかっ た。星野さんはしばらく黙って私の様子を見ていたが、そのまま何も言わずにお皿を洗いに行った。

星野さんが前に言っていた。別居したばかりの頃、星野さんが弱々しく掛けてくる電話にまことさんは必ず出てくれたと。男のくせにバカみたいに泣い て、帰ってきてと言うのが分かっているのに、それが夜中であっても、何時でも何度でも電話に出てくれたと。帰ってくるとは言わないが、辛抱強く星野さんの 話を聴いてくれたと。星野さんは続けて言った。「自分は少しずつ元気になり、離婚届を出す決心がついた。僕が弁護士を探して手続きをした。申請書が提出さ れ、いよいよ、受理されるのを待つばかりになった。毎日、郵便受けを開けるのが嫌だった。カナダは離婚に時間がかかる。僕とまことのように、子供もなく、 財産をめぐる争いも何もなく、ただ離婚したいだけなのだというケースでも半年以上かかる。待つ間、ふいに怖くなる時が何度もあった。あの日もそうだった。 道を歩いていて、ふと、ものすごく怖くなった。軽いパニック状態になり、どうしよう、どうしようとあわあわする中で、大丈夫、僕一人でやってることじゃな い。まことと一緒にやってるんだ。一人じゃない、大丈夫。と思い落ち着いた」それから、少し間を置いて言った。「同時にそんな風に思ってしまう自分に愕然 とした」

私達はその夜、川の字になって寝た。まことさんがベッドに、そのすぐ下の床に私と黒猫、その横の骨格標本のすぐ近くに星野さんが寝た。私は寝つけず 天井を見ていた。開け放ってある居間へのドア越しに聴こえる車の音を聴いていた。その音に混じって何か聴こえた気がした。耳をすませていると、また聴こえ た。とんとん。2、3秒して、今度はもう少し大きく。とんとんとん。

誰かが玄関のドアを叩いているみたいだった。どうしようかと思っていると、やはり寝つけずにいたのか、星野さんが寝袋から出て居間に行った。私も寝 袋から出た。携帯を見ると、実はまだ9時だった。長い夜だという気がしていたが、星野さんが帰って、おにぎりを食べて、お風呂に入って、そしてすぐに寝て しまったのだ。ベッドのほうを見ると、まことさんが上半身を起こそうとしていた。玄関のほうから星野さんが誰かと話している声が聴こえてきた。まことさん に「見てくるね」と言って私も居間に行った。星野さんがアパートのマネージャーさんと話していた。そして、なんと、星野さんはピンク色の猫を抱いていた。

マネージャーさんによると、近所の公園のマーケットに行ったところ、珍しく野良猫がおり、かわいいので頭を撫でていたら、なついて家までついて来て しまったということだった。自分は少しだがアレルギーがあるので(と言ってクシャミをした)飼えずに困っていたところ、昨日、私が猫を連れて帰ったのを見 たのを思い出したというわけのようだ。気がつくと、黒猫が足元にいた。星野さんがピンクの猫を床に降ろしてみると、両者は遠目に互いを見やっていたが、や がて、何ごともなかったように好き勝手に動き出した。その様子を見て、マネージャーさんはよろしくねと言って帰って行った。クシャミの音がアパートの廊下 に響いた。

私はキッチンの戸棚の中を物色した。そして、灰色の陶器の小さなお皿を見つけて、黒猫の赤いのの横に置いた。まことさんがいつの間にかいて「黒と 赤、ピンクにグレー、よく似合ってるね」と褒めてくれた。少しだけご飯を入れてあげると、猫はクンクン嗅いでからおいしそうに食べた。黒猫は特に文句を言 わなかった。ピンクの猫は食べ終わると、毛づくろいを始めた。後ろ足を舐めた時に、毛のないお腹が見えた。真っ直ぐに線が入っていた。私は猫の耳をチェッ クした。右耳にタトゥーが入っていた。1S1HM。黒猫にも同じ場所にAWT6と入っている。黒猫はシェルターから貰った猫だ。シェルターでは逃げてし まった時などの身元確認用に、猫の耳にタトゥーを入れるのだ。ピンクの猫はシェルターか、もしくは貰い主のところから逃げたのだろう。お腹にまだ毛が生え ていないから、避妊手術をして間もないのだろう。私達は、明日、シェルターに連絡を入れようと相談した。でも、この猫はずっとこの部屋にいることになると 私は思った。星野さんが言った。「僕はこの間までこの部屋に一人だったのに。一気に人数が増えたなあ」まことさんは黙っていた。

翌朝、私はまことさんと病院へ行くと言い、星野さんは仕事の空き時間にシェルターへ行くと言った。病院から星野さんの部屋に戻るとピンクの猫がい た。キッチンのテーブルの上にサインした契約書やさまざまな説明書、何枚かの動物病院の名刺が置いてあった。星野さんは手続きをして猫を正式に貰って来て くれたのだ。

診察が終わると、まことさんは自分の家に帰って行った。診察の結果は良好だった。叔父さんはまことさんのホームドクターに手紙を書いてくれた。今後 はホームドクターのところで検診を受け、指定された病院で出産することになるが、何かあれば叔父さんのところに連絡が入るよう手配してくれた。まことさん にも、不安なことがあったらいつでも電話するようにと、名刺の裏にプライベートの携帯電話の番号を書いて渡した。そして、君もねという目で私を見た。病院 を出た時、私はまことさんに、一緒に星野さんのところへ行こうと言った。しばらく泊まったほうがいいと言った。まことさんは即答で断った。とてもきっぱり と。けれど、それは頑張って断っているような感じだった。それ以上誘ってくれるなと目が言っていた。私はしばらく考えてから「それでは、ちょくちょく遊び に来てください」と言った。 まことさんはホッとしたような、不安なような顔で「ありがとう。そうさせて貰う」と言った。

約束通り、まことさんはそれからちょくちょく遊びに来るようになった。私だけがいる夕方の早めの時間や、週末の昼間によくやってきた。泊まっていく ことは決してしなかった。その代わりに、時折、ピンクの猫を連れて帰った。ピンクの猫はまことさんによくなついていた。 まことさんのお腹が大きくなるように、 猫もまるくなっていった。ピンクの猫はまことさんがテクテクと名づけた。歩く感じがテクテクしているというのが理由だった。確かに、ご飯のときなど、黒猫 は猫らしくニャーニャー言いながら私の足にまとわりつくが、テクテクはゆっくりと真っ直ぐにテクテクと歩いてきた。

黒猫とテクテクが、星野さんの部屋で自分の定位置を決めていったように、星野さんとまことさんと私にも定位置が出来ていった。キッチンのテーブルに 寄りかかってお茶を飲むとき、居間のソファーに座るとき、それぞれがそれぞれの定位置についた。私はある日、 もともとの定位置が上手に崩されていることに気がついた。星野さんの定位置だったところにまことさんがいて、 私の定位置だったところに星野さんがいた。私は新たなところにいた。星野さんだと思った。思い返してみると、星野さんがお箸やお茶の湯呑を置いて、椅子取 りゲームみたいに皆なをその位置につかせた。私は思った。まことさんが来るようになる前に私がいた位置は、2人がこの部屋で暮らしていた頃、まことさんの 位置だったのではないかと。そこへ星野さんが入る。そうすることで、まことさんも私も新しい定位置につく。それを星野さんが意識してやっているのか、無意 識にやっているのかは分からなかった。

星野さんは離婚の理由を話してくれたことはない。きっと、星野さんにも分からないのだろう。別れたいと言い出したのはまことさんだったらしい。けれ ど、きっと、まことさんにも、なぜ自分が出て行かなくてはいけないのか分からなかったのだろう。 2人は双子の兄妹が離れられないけれど結婚は出来ないような、そういう感じなのかもしれない。近くにい過ぎると壊れてしまうのかもしれない。だから、壊し 合わないように、直接に触れ合えないような何かが必要だったのだ。きっと。

或いは、私はただ、バカなだけなのかもしれない。別れたものの仲の良い2人は適度な距離で関係を保っていたのだ。それが、星野さんが離婚届を出した り、若い恋人を作ったりしだして、まことさんは急に不安になったのかもしれない。寂しさを紛らわすために誰かと寝て、そうしたら妊娠して、それで星野さん の生活を掻き回すために現れたのかもしれない。そう感じるのがまっとうなのかもしれない。或いは、と私は思った。或いは私はただ、赤ちゃんに触りたいだけ なのかもしれない。

私は、どんどんと、まことさんのいる生活に馴染んでいった。それが当たり前のようになった。星野さんは相変わらず私の骨盤を優しく愛撫し、黒猫とテ クテクは日だまりで一緒に丸くなって眠っていた。テクテクはまるまると太り、黒猫よりも大きくなった。まことさんのお腹も日に日に大きくなった。呼応する かのように私の筋腫も大きくなった。

私達は星野さんの部屋でひと夏を過ごした。居間の大きな窓の外の街路樹がオレンジ色になり、毎日、しとしとと静かな雨が降る頃、まことさんは小さな ボストンバッグを一つ持って病院へ行った。婦人科系を専門とする大きな病院だった。叔父さんが手配してくれていたのだ。その日も、柔らかな雨が降ってい た。星野さんが車を出してくれて、3人で病院へ行った。まことさんの手続きを終わらせると、星野さんにまことさんをお願いし、私は病室を出た。そして、叔 父さんに教えられていた別の階へ行った。子宮を全摘出するためだった。

目を覚ますと、病院の大部屋のベッドの上だった。真っ赤な目をした星野さんがいた。目覚めた私を見て、怒ったような顔で笑いながら言った。「秘密は よくないね」間を置いて「でも、よく頑張った。お陰で、君の子宮と、僕は楽しい夏を過ごせたよ。ありがとう」と続けた。私は星野さんのこういうトンチンカ ンなところが好きだと思った。そういえば、まことさんの妊娠を知った時も、変な感想を言っていたことを思い出した。「まことさんは?」と聴くと星野さんは また怒ったような顔をして口ごもった。

数日して私は退院した。しばらく病院にいた赤ちゃんと星野さんと3人で星野さんの部屋に帰った。退院の日、まことさんの病室へ行った。まことさんの ベッドの横に小さなベッドがあり、赤ちゃんが寝ていた。まことさんは私を見ると、目にたくさん涙をため、掛け布団からゆっくりと手を出して手招きした。近 づくと、赤ちゃんのほうに向いて「ハンナ」と言った。「鼻がちょっと上向いてる。あなたのに似てる」

私の鼻は高くはないが白く小さくて、小鼻の先のほうがこじんまりと上を向いている。親戚中どこを探しても誰も持っていない鼻だった。寝ているハンナ の鼻をジロジロ見てみると、確かにそれが遺伝していた。星野さんもジロジロとハンナと私の鼻を見比べ、感心したように頷いた。まことさんの鼻は高く、スッ としている。私がまことさんに向き直ると「ね!」と自信満々に言った。それは、子宮をなくした私への慰めとか、そういうものではたぶん全くなく、ただ、ま ことさんがトンチンカンなだけだと思える楽しそうな笑顔だった。星野さんと私はハンナを抱きかかえ毛布にくるんだ。明日また来ると言って病室を出た。まこ とさんは、ハンナをよろしくねとは言わなかった。代わりに「私は死なないわよ」と言って笑った。

3年後、まことさんは死んだ。一度も、自分の家に帰ることも星野さんの部屋へ来ることも出来なかった。それでも、まことさんは元気になってきている ように見えた。産後の回復に3年かかり、やっと、今日退院だという日の朝、様態が急変し、そのまま亡くなった。私はハンナと家でまことさんを待っていた。 私が星野さんに出会った頃と同じ初夏の若い光が部屋に満ちていた。鍵のガチャガチャいう音が聴こえ、ドアが開いた。昼寝からパッと目覚め、寝ぼけているハ ンナを抱いて駆け寄った。そこにはまことさんはいなかった。真っ赤な目をした星野さんと、星野さん以上に真っ赤な目をしたサカイさんがぼんやりと立ってい た。

まことさんの最後の言葉は「三つ子の魂、百まで」だったそうだ。そばにいたサカイさんが聴いたそうだ。サカイさんは、まことさんが入院していた病院 で看護師をしていた。まことさんの担当ではなかったが、日本語が話せるので、休憩の時などに話すうちに仲良くなったということだった。サカイさんはカナダ 生まれだが、お父さんが香港の人で、お母さんは日本人だった。宇宙の宇と書いてサカイ。中国語読みはウー。苗字でなくて下の名前だと初めて会った時に説明 してくれた。姓はローだそうだ。ロー・ウー。 映画監督か俳優みたいでクールだと、私は思った。 30代半ばくらいの面白い感じの人。 離婚後に若い恋人を作る。そんなところまで、まことさんと星野さんは似ているなと私は感心した。

まことさんの最後の言葉をサカイさんが教えてくれた時、星野さんが言った。「執念深いな」それは星野さんらしくトンチンカンで、とても暖かい言葉 だった。ちらっとサカイさんを見ると、大きく頷いていた。まことさんは病院のベッドの上で、必死にハンナを育てた。たくさん触って、たくさん抱きしめた。 サカイさんや星野さんや私を大切に思っている様子を惜しげなく見せた。病院のご飯をおいしそうに食べ、お医者さんや看護師さんに感謝し、周りの入院患者の 人々と楽しくおしゃべりした。誰かが退院する時には笑顔で見送り、誰かが死ぬとおいおい泣いた。窓の外の空を見て、木の葉の色の移り変わりを愛でた。そし て、ハンナの写真をたくさん撮った。カメラが重くて持ち上げられず、膝の上に置いたり、枕元に置いたりして撮り続けた。ハンナの最初の言葉は「ハンナわ らって」だった。

 

 

カーテン越しの柔らかな光で目が覚めた。 顔をそーっと左に向けると、もちろん、そこには星野さんがいた。ぐっすりと眠っているようだ。私は星野さんを起こさないように、ゆっくりとベッドから這い 出した。床に無造作に脱ぎ捨ててある下着を拾い集め、素早く身につけた。パジャマの上には猫が寝ていたので、引出しからTシャツを出して着た。 ベッドルームを出て廊下の突き当たりへ行って窓を開ける。遠くに広がる緑の墓地のまことさんのお墓のあたりをしばらく眺めた。昨夜、誰かが窓辺に置きっぱ なしにした飲み残しの紅茶の入ったマグカップを持って階下に降りた。

キッチンで朝食を用意していると、サカイさんのガールフレンドが階段を降りてきた。中国系のこの人のお陰で、私達の食生活は中国方面への飛躍的な広 がりを見せた。今日の夕飯はお祝いだから、皆なで外食することになっている。もちろん、中華だ。予約は彼女がしてくれた。彼女が戸棚からまことさんの赤い マグカップを取り出し、その中にウーロン茶の葉を直に入れ、沸いたばかりのヤカンのお湯をたっぷりと注いだ。勝手気ままな感じで、彼女は好きなように自分 の位置を決めた。サカイさんも星野さんも何もしなくて良かった。私は彼女といると、窓が開け放された気持ちがする。涼しい風が入ってくる。風に乗ってウー ロン茶の香ばしい香りがした。

やがて、星野さんが起きてきた。それからサカイさん。最後に昨日は家に帰ってきていたハンナ。今日はハンナの大学の卒業式だ。ハンナは今日、州立大 学の映画学科を卒業する。これだけ医療関係に従事する人が住む家で育ちながら(サカイさんのガールフレンドは、サカイさんがまことさんが死んだ後に移った 病院の外科医だ)、ハンナはカメラが好きだった。まことさんのカメラを使って、小さな頃からいろいろなものを撮っていた。星野さんの骨格標本とか、猫と か。その様子を眺めながら、星野さんとサカイさんは「三つ子の魂、百まで」と言っては笑った。

ハンナは今朝もカメラを持って、さっきからキッチンの皆なを撮っていた。誰もかれも、起き抜けのぼさぼさの頭で、分厚いレンズのメガネをかけていた り、すっぴんだったりしながら、ハンナに「わらって、わらって」と言われていた。星野さんはメガネをひょいと頭にのせて新聞を読む老眼な姿を撮られてい る。人間を撮り尽くすと足元の3匹の猫達を撮り出した。3匹ともまだまだ元気だった。黒猫とテクテクと、そして、テクテクの産んだ猫だ。まことさんがハン ナを産んだ後、星野さんと私とハンナが星野さんの部屋に帰った日、テクテクが子猫を一匹産んだのだ。雄の黒猫だった。ペロペロと子猫を舐めているテクテク を呆然と眺めた後、星野さんは私を見て言った。「どうやって?」私はどうやったかを知っていると思って、私の黒猫を見た。彼女は 素知らぬ顔をした。私はただ肩をすくめて言った。「愛かな?」星野さんが「ジュテーム?」と、なぜかフランス語で言った。黒い子猫の名前は、ジュテーム? になった。ハンナの双子の弟として大事に育てられた。

大学は、ジュテーム?みたいな真っ黒いコートを着た卒業生で溢れていた。来賓の挨拶があり、学長の挨拶があり、卒業生の一人一人が丁寧に名前を呼ば れ、順番に壇上へ上がって行った。あちこちで親達が涙ぐんでいる。やがて、ハンナの番になった。「ハンナ・ロー!!」名前を呼ばれて壇上に上がったハンナ が、コートの下に隠し持っていたカメラを私達に向けた。

 

 

私はその時の写真をまことさんが撮った、奥にぼやけた星野さんが写っている2羽の虹色のインコの写真の横に飾った。星野さんの部屋の本棚にあった写 真だ。どちらの写真にも、写っていないカメラマンが含まれていた。まことさんとハンナが含まれていた。「三つ子の魂、百まで」と声に出して言って、私は 笑った。

 


 

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Hiroko Hosaka / ライター、朗読者、指圧師見習い

会社員をするかたわら、短編小説など執筆。詩や絵本、小説の朗読も 行う。現在、ポエムドロイズオンリーのメンバーとして詩の朗読をしている。タオ指圧を勉強中で、ドネイションベースで指圧を行っている。興味のあるかたは 本人まで問い合わせください。タオ指圧は気の流れを良くし、自らの身体の力で治っていくことを目的とした指圧。bpnf1219@gmail.com

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Yurie  / イラストレーター

ポートレートを描くときはお客様とその対象との関係性、背景にあるストーリーをヒアリングしてか ら描いています。そうすることでお客様の目を通して感じることができ、お客様が愛するように対象をとらえることができるからです。イラストでしか表現でき ない空気感を大切に描き続けています。
☆ポートレートのお問い合わせはyuriehoyoyon@gmail.comまで。”Cradle Our Spirit!”を見て、と書き添えて下さい。

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HosakaHiroko

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小説書き、朗読者、指圧師見習い 短編小説を地道に執筆。詩や絵本、小説の朗読を行う。マラソンなど延々とする感じのことを好む。最近、家の猫が2匹になり、猫のことばかり考える日々を過ごす。 田之上尚子 / 挿画家 ペンと水彩で、物語の世界を描く。絵本・エッセイ挿絵・ポスターイラスト等手がけたり、年に2、3回画廊やギャラリー、病院内で個展を開催。 音楽も好きで、長野県松本発バンド『有機幻燈』に所属し、パンデイロなどの、鳴物も勉強中。
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