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Dec 3, 2018

絵描きの視点

フェルメール

Photo & Text by Fumio Kansaku

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フェルメールはバロック期の同じオランダのレンブラント、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵画を代表する画家の1人といわれています。レンブラントと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表作家でもありました。

諸説はありますが彼は1632年~1675年。43年の命でした。フェルメール(Vermeer)の通称で広く知られており、本名ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフトと言いました。画家としての特徴は映像のような写実的な手法と綿密な空間構成そして光による巧みな質感表現を特徴としていて、音楽家のバッハと同じように生涯を故郷のデルフトで過ごしました。

さて、西洋絵画の歴史がルネサンスを経過するうちに筆のタッチをほぼ完全に消すようになりました。ご存じのように油絵には筆のタッチを表面に出す方法と、全く見せない方法があります。どちらかと言うと私は筆のタッチを見せる方でしたので、フェルメールの絵は対象外ではありました。でも、『真珠の耳飾りの少女』などの絵は素敵な絵だと思って見ておりました。

なぜ、タッチを消していったかと言いますと、1370年にネーデルラントに生まれたファン・エイク兄弟が、亜麻仁油(リンシード・オイル)によって透明性をもつ絵の具の重ね塗り(グレース)を数十回もくりかえしていたのが最初といわれています。兄弟合作のヘントの聖ヨハネ聖堂の祭壇画、弟ヤンの肖像画の作品が有名で、代表作には『アルノルフィニ夫妻の肖像』1434年があります。

一般にファン=アイク兄弟は油絵技法の発明したと言われていますが、実際には兄弟の登場以前からフランドルでは油絵が描かれており、兄弟がその技法を完全なものにしたと言われています。油絵の技法とは、顔料を亜麻仁油(リンシードオイル)で溶かし、何重にも塗り重ねができ、微妙な色のニュアンスをだすことができて、写実的な表現に適していると言われています。

この技法はフランドル地方ではじまり、イタリアに伝えられました。イタリアでは中世以来、フレスコ画やテンペラ画が作られていましたが、15世紀以降は油絵が描かれるようになり、ルネサンス以後の絵画の主流となったということです。これはイタリア=ルネサンスがアルプス以北に影響を与えただけでなく、その逆もあったことの例とも言われています。

油彩画(オイル・ペインティング)は、顔料を植物性の油にまぜた絵の具を作って、それを薄める溶剤にワニスをまぜてたくみに皮膜をつくり、それで光沢を出せるようにしたものです。これで格段の色調や濃淡が表現できるようになり、不透明な描法から透明な描法までいかようにも工夫できるようになったわけです。一言でいえば、光と面が同時に描けるようになったのです。

陽光の眩しい乾いたイタリアと異なって、北方のネーデルラントはもっと光がほしかったのでしょう。もっと光がほしいけれど、その光はギラギラしたものにはなってほしくはなかったので、湿潤な気候からいっても微妙な光で仕上げたかったのだと思います。それが「低地」という意味をもつネーデルラントの地域の本質なのでした。これによって西洋美術は完全に筆のタッチを消して、明暗表現の冒険に、つまりは「光の絵画」の冒険に船出できたと言って良いと思います。

また、ついでにいえば、レンブラントはフェルメールより27歳ほどの年上の同じオランダ人ですが、このレンブラントの時代年齢は日本でいえば本武にほぼ近いのです。武蔵は周知のように画号を二天といって気韻神妙な絵を描いて、やはり筆を剣と見立ててその切っ先を紙に残響させることをもって志しとしたものでした。筆の跡が死んでいると、自分がやられたような気分になるといって、何度も描きなおしたようです。洋の東西で、筆を残すか筆を消すかは、少なくともルネサンスからバロックの時代までは、まるで美意識が拮抗するかのように、まったく対照的だったのです。

レンブラントやフェルメールの時代は、ネーデルラント=オランダが長きにわたったスペインの属領としての性格をどのように脱したかということが、大きな政治社会的なトポスの条件になります。宗教のちがいも重要です。当時のネーデルラントとは、その後のオランダとベルギーの両方をさしていました。1462年生まれのヒエロニムス・ボッシュだって、あんなに怪物や魔物を描いたのだから勝手な画想だと思いたくなりますが、ボッシュにも実はフェリペ2世を筆頭とするコレクターがいました。誰も時代のトポスから自由であったわけではないのです。だから1528年にボッシュと同じ地方に生まれたピーテル・ブリューゲルも、そのボッシュの忠実な模倣から入って、しだいに当時の社会風俗の月暦の行事性や村落の生活性に惹かれていったというわけでした。

冬は雪に埋もれるボッシュやブリューゲルの北国の日々を除いて、かれらの絵を見るわけにはいきません。津軽のねぶたの屋台は、暗くて寒い冬だから、逆に、ああして明るくて強烈になったのです。こういう地域のトポスの事情が次の時代のレンブラントを、その次のフェルメールを語るにあたっての前段の事情になっていくからです。レンブラントに肖像画を注文したのは自警団ですし、フェルメールの絵を買ったのはパン屋さんや印刷屋さんだったのです。フェルメール自身もさまざまな市民としての副業をもっていました。そのうえでかれらは北方の「光の秘密」の絵画化にとりくんだのです。

そこには鏡を用いたパルミジャニーノからボローニャ派のアンニバレ・カラッチまで、単色が多彩を発揮することを告げたエル・グレコから魔術的な色班を駆使したディエゴ・ベラスケスまで、さまざまな実験があったのですけれど、いまそれらの劇的な飛躍を一人に代表させれば、これはなんといってもカラヴァッジョの奔放きわまりない無頼ともいうべき活動に集約できると思います。カラヴァッジョはまるでスポットライトを当てたかのように画中の人物を浮き上がらせ、逆に部屋の奥に広がる闇を一挙に深くしました。このカラヴァッジョの大胆な表現が次の時代の一人のラ・トゥールと一人のレンブラントをつくったのです。

そのラ・トゥールを後世、「夜の画家」とよぶようになったわけですが、レンブラントについては、もはや言うまでもないのですが、カラヴァッジョはレンブラントによって「明暗対象法」(クレール・オブスキュール)になりました。レンブラントはライデンに育ってアムステルダムに死んだ画家です。ライデンは中世以来の大学都市で、カルヴィニズムの砦です。そこは、レンブラントに『聖書を読む画家の母』(1631)という絵があるのですが、まさにあの絵にあらわれたような宗教性の高い町で、かつライデン大学に代表される「知識の町」でもあったわけです。

レンブラントが『夜警』(1642)に代表されるような「集団肖像画」を考案して、いわば絵画を劇場的な照明世界に仕立てたのに対して、フェルメールは生活照明の一隅を描いたのです。このレンブラントの劇場照明性とフェルメールの生活照明性のちがいは決定的でした。フェルメールがカメラ・オブスキュラをどのように使っていたかというと、部屋のなかに小型のカメラ・オブスキュラを設置して、カンバスの要所要所にピンを立て、そこに糸を括って引っ張って近法の線をつくりだしていた。日本の大工さんの墨引きのように、その糸に色を添えてそれをカンバスに落としていたでしょう。

フェルメールなどのオランダの巨匠たちは、細部への優れた観察力で知られていました。すでに研究者たちが何度も指摘したように、フェルメールのいくつかの絵にはピンの穴がまだいくつも残っています。しかし、フェルメールは遠近法のためにカメラ・オブスクラこの装置を使うことの利点は、結ばれた像の遠近感(パースペクティブ)が正しいため、リアリズムに富んだ絵が描けることにあったようです。遠近の正しい透視画を描くには、ほかにも糸を格子状に編んだ網を通して風景を見て、格子を書いた紙の上に各格子の中の光景を転写するという方法もありました。カメラ・オブスクラやそういった手法は、美術における遠近法・透視画法の確立に大きな役割を果たしました。

その後も誰もそんなことをしなかった方法によって、フェルメールは光の点を最小にぼかしていったのです。瞠目すべきなのはその「光の点綴画法」(ポワンティエ)です。この方法はドラクロワと印象派の連中がフェルメールのポワンティエに気がつくまではまったく無視されていたものでした。どのようにフェルメールが光の点をぼかしながらレオナルド以来のキアロスクーロを一変してしまったかは、実物をつぶさに見るか、拡大図版に注目してみるしかありませんが。

言葉ではとうてい説明できません。フェルメールはあらかたの油彩を描きおえたあと、光の諧調をあびている部分のことごとくに微妙にサイズを変えた無数の光の点を打っているのです。これはふつうのカラー写真をいくら見ていてもわかりません。加えてここには、まずヨハネス・ケプラーの望遠鏡理論が、ついでライデン大学にいた若きクリスチャン・ホイヘンスの光学理論の多大な影響が入りこんでいます。土星の輪を発見したホイヘンス、光の波動説を確立したホイヘンス、振子時計を発明したホイヘンスです。ホイヘンスの影響については、フェルメールが残念なことに僅か43歳で死んでいるので、30代後半くらいに影響が重なったと推理できるのですが、そのあたりのことはいまのところはまだ実証されていません。ですが影響があったと思われます。

フェルメールは想像する以上に科学技術に関心を寄せていたと思います。そのひとつのあらわれが『天文学者』(1668)と『地理学者』(1669)に結実しています。どうやら同じモデルによって描き分けられたとおぼしいこの2枚の絵は、フェルメールが科学者の実験精神に強く憧れていただろうということをよく象徴しています。おそらくフェルメールは当時のデルフトに沸騰していた窯業技術から光学技術までを、運河技術から測地技術までを、かなりの好奇心で眺めていたはずで、そのいっさいをなんとか集約して「光の絵画」にとりこもうとしていたはずなのです。少なくとも窯業に関しては、フェルメールがたいていの絵に描きこんだ有名なタイルがそれを十分に証しています。あれはデルフト特産のタイルなのです。

また測地技術については、これまたフェルメールが絵の中の壁にかかった地図への愛着として描き出されているといえるでしょう。あとは、どのように光学的な事件を絵の中に描きこんだかということです。『信仰の寓意』(1674)の天井から吊り下げられたガラス玉に映った部屋の写像も、そのひとつです。

『真珠の耳飾りの少女』(1665)の眼の光のことでしょうが、それもひとつです。あの眼の光はあきらかにソフトフォーカスに描かれているのですが、それはカメラ・オブスキュラの単眼レンズがもたらす効果をそのままフェルメールが描いたことを証します。フェルメールはまさに「光学の驚異」に忠実だったということです。

 

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Fumio Kansaku

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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