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Dec 31, 2018

絵描きの視点

ポール・セザンヌ

Photo & Text by Fumio Kansaku

kansaku

ポール・セザンヌについては、個人的にははっきり言って未だによくわからないというのが正直なところです。青が基調な絵なのですが、上手な絵だなあと思ったことは一回も無く、この原稿を書くに当たり、もう一度本を買い読んで見ましたが未だによくわかりません。なので訳のわからなさが文章に出てしまっているかもしれませんが最初にお断りしておきます。

ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 – 1906年10月23日は、フランスの画家。当初はクロード・モネやルノワールらとともに印象派グループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求しました。ポスト印象派の画家として紹介されることが多いけれども、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及されています。

彼は、生前はほとんど著名とは言えず、晩年そして死後に有名となりました。セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことでした。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、彼の死後、1907年にサロンでドートンヌで行われた回顧展で後の世代に影響を及ぼすこととなったわけですが、ちなみにこの展覧会に訪れたのは後に有名となったパブロ・ピカソ、ブラック、レジェ、マチスなどのそうそうたるメンバーでありました。

彼は、南フランスのプロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれました。中等学校で下級生だった文豪エミール・ゾラと親友となりました。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていましたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出ることになりました。パリで、後の印象派を形作るピサロやモネ、ルノワールらと親交を持ったのですが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多かったため、サロンに応募しても、落選を続けました。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めることとなりました。この頃、ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展しましたが、やはり厳しい批評が多かったようです。

1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移し、印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになりました。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、やはり、公に認められることはなかったようです。とはいうものの、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていったようでした。そうしたことから、セザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった訳ですが、晩年までエクスで制作を続けていました。そこに、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れたりするようになります。その一人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られています。

パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていたようです。セザンヌは、村八分なっていたゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭ったそうです。その翌日、申し訳なかったのかゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っています。もう一人の少年バティスタン・バイユ(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めました。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有していました。彼は、1906年、制作中に発病した肺炎で死亡しました。

それではポール・セザンヌの言葉を少々ひもといて見ましょう。それぞれいちいち説明はいたしませんが、奥深い言葉であるのは間違いありません。

「自然に線は存在しない」

「私はユダヤの偉大な指導者、モーゼのように約束の土地に入れるのでしょうか?わずかに進歩しましたが、なぜこんなに遅々として骨が折れるのでしょう。芸術とは、ほんとうに聖職者のように、それに全身全霊を捧げる純粋な人々を求めるものなのでしょうか?」

「モネは、ひとえに眼にほかならない。しかし、何という眼だろう」

「私は毎日進歩しつつある。私の本領はこれだけだ」

「自分の強さを実感している人は、謙虚になる」

「眼前のものに深く入ること。そしてできうる限り論理的な自己表現を、忍耐強く行うことです」

「いつでも大空が、自然の果てしないものが私を引きつけ、喜びをもってながめる機会を私に与えてくれる」

「偽の絵描きは、この木、この犬を見ない。木というもの、犬というものを見るだけだ。同じものは何ひとつないのに」

「自然を円筒形と球形と円錐形によって扱いなさい。自然は平面よりも深さにおいて存在します。そのため、赤と黄で示される光の震動の中に空気を感じさせる青系統を入れる必要性があるのです」

「芸術は、われわれに自然が永遠であることを味わわせなければならない」

「デッサンと色彩とは区別することはできぬもので、彩色をほどこすにつれてデッサンになり、色彩が調和していくにつれてデッサンは正確になる。色彩が豊富になる時、形も充実する」

「生命の1分が過ぎていく!それを在るがままに描き、それをなすためにはあらゆるものを忘れよ!そのものになりきれ…実際に見るもののイメージを与えよ」

「自然に基づいて絵画を描くことは、対称を写生することではない。自分の感動を現実化することである」

「感情が伴わない作品は、芸術ではない」

〈画像出典先:Montagne Sainte-Victoireウィキメディアファイルより〉
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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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