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Feb 2, 2019

絵描きの視点

フェルナン・レジエ

Photo & Text by Fumio Kansaku

レジェは師匠の村井先生に似ていると文科学院の学生だったころあたりまえのように思ったものでしたが、今回よく観察してみると全然似ていません。あれ、これって何でなんだろうと考え込んでしまいました。むしろ初期の岡本太郎の作品「痛ましき腕」や、岡本太郎の作品に似ている気すら感じてしまいます。フランスに留学したからそんな風になってしまうのだろうかと思ったりしてしまいます。岡本太郎と村井正誠は似ているかというと、作風も作品もまるで似ていません。色使いは多少似てる気はしますが、もしかしたら、三者共通するのかもしれません。

フェルナン・レジェ(Fernand Léger, 1881年2月4日-1955年8月17日)は、20世紀前半に活動したフランスの画家ということなっています。初期の頃は、ピカソ、ブラックらとともにキュビズム(立体派)の画家と見なされましたが、後にキュビスムの作風から離れ、彼独特の太い輪郭線と単純なフォルム、明快な色彩を特色とする独自の様式を築くこととなります。村井正誠も出発は具象絵画でした。岡本太郎も「痛ましき腕」の二科会出品作品でした。丁度、具象と抽象画の間といったらよいでしょうか。レジェは絵画以外にも版画、陶器、舞台装置、映画など幅広い分野において作品を残しています。彼独特の画風になるまで、いろいろと試していました。

レジェは、フランス、ノルマンデー地方の内陸部に位置するオルヌ県アルジャンタンに畜産農家の息子として生まれました。1897年からカーンの建築家のスタジオで修業した後、1900年にパリに出ました。以後、主にパリと南仏で制作することになります。パリでは建築製図工の仕事をしながら、装飾美術学校やアカデミー・ジュリアンに通いました。当時のレジェは印象派風の風景画、人物画などを描いており、独自の作風を求めて模索中でした。

前回一寸触れましたが、1907年にパリのサロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展はレジェに大きな影響を与えました。この頃からレジェは当時の前衛美術運動であったキュビスム(立体派)に参加します。「自然を円錐、円筒、球として捉える」というセザンヌの言葉はレジェの画風にも影響し、「森の裸体」(1909年-1910年)などの初期作品では人物が円筒形に還元されている。このことから、当時の彼の作風は「キュビスム(cubism,立体主義)」をもじって「チュビスム(”T”ubism,土管屋)」と揶揄されたこともあったようです。

世間においては、メキシコの壁画運動があったりしてレジェもそれなりに影響を受けて、大きな絵を描いたりしていたようです。色々勉強したことがそう言う道に進ませたのかも解りません。

レジェは1908年からパリ、モンパルナスの共同住宅兼アトリエ「ラ・リュッシュ」(蜂の巣)に住みつき、そこに住んでいたマルク・シャガールらの画家と知り合いました。「ラ・リュッシュ」は当時の若い画家たちのたまり場となっており、アメディオ・モジリアーニ、シャイム・スティーンらの画家も出入りしていた。日本にもありましたね。池袋の椎名町でしたっけ。有名な芸術家が集まっていた町は。レジェは1910年には当時の有力な画商カーンワイラーに認められ、1912年にカーンワイラー画廊で初の個展を開催、1913年には同画廊と専属契約を結んでいる。

同じ頃、ジャック・ビョン、フランシス・ピカビア、ジャン・メッアンジェらが参加していたセクシオン・ドール(黄金分割)という前衛画家グループに加わり、1912年にボエシー画廊で開催されたセクシオン・ドールのグループ展にも参加しています。ジャック・ヴィヨンらのアトリエがあった場所の地名をとって「ピュトー・グループ」とも呼ばれるこのグループは、キュビスムが軽視していた色彩を復活させるなど、キュビスムの運動をより発展させようとしたものでしたが、長続きせずに終わりました。

レジェはこうした当時の前衛的な美術運動に参加しつつ、キュビスムとも抽象絵画とも異なった独自の様式を確立していきます。レジェは1914年から1917年ま第一次世界大戦に従軍しています。彼は大戦中に見た大砲などの兵器の機能的美に魅せられたといい、また、兵役期間の休暇中にチャプリンの映画を見たこともその後の彼の作風に影響したといいます。独自の様式を確立して以後のレジェの作品には、人物とともに機械をモチーフとした作品が目立つようになりました。レジェにとっては自然の風景よりも現代に生きる人間や現代の機械文明が主たる関心の対象であったようです。

1920年、建築家のル・コルビュジエと知り合い、以後、ル・コルビュジエの設計した建築の壁画を担当することが多くなりました。この頃からレジェは壁画、舞台美術などにも活動の場を広げていくことになります。舞台装置の分野では、1923年にダリウス・ミョーのバレエ「世界の創造」初演時の舞台美術を担当しました。また、1924年には実験的な映画「バレエ・メカニック」(音楽:ジョージ・アンタイル)を制作したりしています。1940年には第二次世界大戦の戦火を避けて渡米し、1945年に帰国するまではアメリカで活動していました。

大戦後は壁画、ステンドグラス、舞台装置、陶器、版画、書物の挿絵など幅広い総作活動を行いました。陶器の制作は1949年、南仏アンティーブ近郊の山間の村ビオットで始めたもので、同地にはレジェ没後の1960年、フェルナンデ・レジェ美術館が建てられました。開館式には画家仲間のピカソ、ブラック、シャガールのほか、当時のフランス文化相・アンドレ・マルローも列席したということです。1952年、当時71歳のレジェは、弟子でロシア出身の画家であるナディアと再婚。再婚を機にセーヌ・エ・オワーズ県(現在のエソンヌ県)のジフ=シュル=イヴェットに転居し、1955年に同地で没しています。

《フェルナン・レジェ著 オブジェと色彩のユートピア キュビズムからフランス人民戦線まで より抜粋》

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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