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Mar 4, 2019

絵描きの視点

熊谷 守一

Photo & Text by Fumio Kansaku

何年前で、そしてどれくらい通ったのかも今となっては遠い過去のお話しですが、熊谷守一美術館に一年間ほどクロッキーに通っていました。毎週、金曜日の夜であったと思いますが、その前はアルテトネヤマで、これも毎週一回で、何年ぐらい通ったかは詳しく覚えていません。3年ぐらいは通っていたのではないかと思います。

熊谷 守一

熊谷美術館に通い出したのは、アルテトネヤマすぐあとだったかも詳しく覚えておりませんが、やはり毎週金曜日に1年ぐらいは通っていたと思います。場所は、かなり鉄道もバスも不便で行きづらかったのを覚えています。この場所は、池袋より電車に乗って一つ先の椎名町にありました。何回かは池袋から徒歩で行ったこともありましたが、さすがにそのときはかなり遠いなあというのが正直な感想で、行き方も今となっては覚えているかどうかも怪しくなっています。池袋の西口だったのは確実におぼえております。

その美術館には喫茶室があって、何回かそこでお茶や食事をした記憶もあります。だいたいクロッキーが夜の7時くらいから始まったので、早く着いた日にはその喫茶室で何回か食事をしたりお茶をした覚えがありました。そして娘の榧さんの作品が展示してあり、彼女はオヤジ(熊谷守一)の後を継いだなのだなあとそのときは思ったものでした。

そして、一回だけ、教室のみんなと熊谷守一美術館の展示室で展覧会をした記憶もあります。ほとんどクロッキーに出席していなかった美術館近所の文化学院卒業の友だちも、一緒に出品したのを覚えています。会費は安価で確か1000円くらいでなかったかと思います。

外人の男性モデルを描いたのも熊谷美術館で、ペニスもやたらでかくて、態度が悠々としていたのは良く覚えております。日本の男性モデルはボデービルター上がりが多くてやたらと肉体を誇示する癖が強い気がしました。ついでにバレリーナの体も何人か見ておりますが、とても一般女性の体とは思えないほど貧弱だったのを覚えております。

熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 – 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられていましたが、作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近したと言われています。彼自身は良い家の出身であるにもかかわらず、極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続けいつしか「画壇の仙人」と呼ばれるようになりました。跡地に個人美術館を建てるほどなのでけして金銭的には困っていたということはなかったようです。

写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイルを確立しました。この独特のスタイルが私のお気に入りでも有り、こんな絵を描きたいと思ったものでした。

熊谷守一は機械紡績を営む事業家で地主の父熊谷孫六郎と母タイの三男(7人兄弟の末っ子)として岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)に生まれました。子供時代から絵を描くことは好きであったようです。父親の孫六郎は学も財もない中から製糸業で成功し、岐阜県議会議員となり、1885年(明治18年)には同議長を務め、人口不足のため市政が布されなかった岐阜の将来のため有力者に働きかけて市制実施運動を興し、近隣町村を合併して人口を増やし、私財を投じるなどして市制を実現し、1889年に初代岐阜市長に就任、1892年には衆議院議員に選出され、岐阜の名士となった人物でした。

12歳ころより水彩画を描きはじめ、絵描きになりたいことを父に告げたところ、「慶応義塾に一学期真面目に通ったら、好きなことをしてもよい」と言われたため、1897年(明治30年)に慶應義塾普通科に編入し、1学期間だけ通って中退しています。

簡単に守一の履歴を紐解くと、1900年(明治33年)、東京美術学校に入学。同級生に青木繁、山下新太郎らがいました。この頃、山梨県や東北地方を巡るスケッチ旅行をしました。

1905年(明治38年)から1906年(明治39年)にかけて樺太調査隊に参加しスケッチを行いました。

1909年(明治42年)自画像『蝋燭』は、闇の中から世界を見つめる若き画家の不安を描き、第三回文展で入賞しました。

1913年(大正2年)頃、実家へ戻り林業などの日雇い労働の職につく。この時期作品は大変少なく「馬」他3点のみとなっています。

1915年(大正4年)再び上京。第2回二科展に「女」出展。後に軍の圧力で二科展が解散されるまで毎年作品を出品しました。

1922年(大正11年)、42歳で大江秀子(1898-1984)と結婚しました。秀子は和歌山県日置郡南部町の生まれ。大江家は近在きっての豪商で、山林地主でした。彼女は再婚で大正9年に原愛造と結婚しています。

5人の子供(黄、陽、萬、榧、茜)に恵まれましたが、絵が描けず貧乏が続いたため、熊谷は「妻からは何べんも『絵を描いてください』と言われ、(中略)周りの人からもいろいろ責め立てられた」と後に述べています。当時は日々の食事にも事欠くありさまで、次男の陽が肺炎に罹ったときも医者にみせることができず死なせてしまったほどでした。陽の亡骸を熊谷は絵に描いています(『陽の死んだ日』1928年(昭和3年))。熊谷は描いた後で、これでは人間ではない、鬼だと気づき愕然としたというエピソードがあります。

1929年(昭和4年)二科技塾開設に際し参加。後進の指導に当たった。1932年(昭和7年)後々池袋モンパルナスと称される地域の近くに80坪に満たない土地を借り、家を建てる。1938年(昭和13年)同じ二科会会員の浜田葆光のつよい薦めで墨絵(日本画(毛筆画))を描き、この年に浜田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる。熊谷守一の最初の個展は、意外にも墨絵(日本画(毛筆画))でありました。

1947年(昭和22年) 二紀会創立に参加したが、1951年(昭和26年) 二紀会を退会しています。そして無所属作家となりました。

1956年(昭和31年)76歳を迎えたある日、軽い脳卒中で倒れました。以降、長い時間立っていると眩暈がすると写生旅行を断念し遠出を控えることとなりました。晩年20年間は、30坪もない鬱蒼とした自宅の庭で、自然観察を楽しむ日々を送っています。また、庭についても自身が「50坪足らずの庭」と言葉を残しているが実際はずっと狭かったようです。

1967年(昭和42年)87歳 「これ以上人が来てくれては困る」文化勲章の内示を辞退しましたた。また1972(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退したようです。 

1974年 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立されました。1977年(昭和52年)8月1日、老衰と肺炎のため97歳で没。墓所は多磨霊園。

1985年に次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設し、館長となる(2007年に豊島区に寄贈し区立の美術館となっています)。

子煩悩で大変に子供をかわいがったそうです。自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残しています。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもし、摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されています。熊谷は、昭和46年6月14日~7月12日まで連載された日本経済新聞社の私の履歴書において(現在は『へたも絵のうち』と題され平凡社ライブラリーより文庫化されている)

「二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういっていました。」「結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことにはなりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。」と言っている、と語っています。

晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごしました。熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもちました。晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっています。(現在庭は残っていない。線と面で区切られた小さな4号サイズの板には 作品を見るものに【昆虫の目】を持たせてくれます。面と線だけで構成された独特な画風による作品は、現在も高い評価を得ています。

(掲載画像はHome Page アート・アーカイブ探求より抜粋)

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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