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Apr 1, 2019

絵描きの視点

ジョアン・ミロ
Photo & Text by Fumio Kansaku

今日はジョアン・ミロ、又はホワン・ミロなどと言われている画家のお話ですが、その前に、1978年にフランスとスペインに行ったお話しを一寸したいと思います。

だいぶ前の話になりますが、1978年の暮れに、ジャルパックでフランス1ヶ月の旅にでかけ、フランスとスペインを旅行してきました。まず、パリのドゴール空港で、乗務員その他スタッフのストライキで、そのままパスポート審査もなく素通りできたことでした。日本では国鉄のストライキなどで電車が止まる事がありましたが、空港は初めてのことでした。それもパスポート審査なしとは。

フランスではモンマルトルに宿を取り、最初の15日間はパリからほとんど出ることはありませんでしたが、毎日パリの町を彷徨っていました。とにかく色々なところに行きました。1番傑作だったのはルーヴル美術館の前まで行って、又来ればいいやと入らなかったことでした。というのも出来るだけフランスもパリの町を深く味わいたかったいうのが主な理由だったからです。

丁度、ピカソが亡くなっていて、遺族が税金対策のためだと思いますがフランス政府に大量にピカソの作品を寄付してたので、その展覧会をしていたので見に行きましたが、どこでやったかは覚えておりません。ある日、パリ郊外ののみの市にでかけたとき、丁度、向こう岸で信号待ちしていた女優の岸恵子さんとばったり遭遇しました。こちらはとにかく旅行者丸出しの、メガネをかけて首からカメラをかけていたといういでたちで、ちょっと気まづいところもあって声をかけることが出来ませんでした。そうでなかったら声をかけていたかもしれません。

また、他の日に、オルセー美術館(印象派美術館)にでかけたとき、モネの作品に心をうたれ、絵の前に釘付けとなりしばらく動くことも出来ずにいたものでした。印象派がこんなにも心打たれるとは思いもしませんでした。かと思うと、近代美術館で見た、ゴッホの青と黄色がこんなにもパリの空気と合っているのだと今更ながら感心したのと、ゴッホってこんなにカラフルだったんだと新しい発見をしました。

唯一遠出したのが、ル・ヴァーヴルの港町でした。いきなり列車の中でパスポートを集め出したので、どうしたのかと思い、乗務員に聞くとそのまま行くと列車ごとイギリス行きのヘリに乗せられるということなので、乗り換えてフランスに引き返したのがル・ヴァーヴルの港町だったのでした。行き先は何処でも良かったのですが、とりあえずそこに降りてみようということになったわけでした。今思うとそのままイギリスに行ってしまっても良かったなあと、あとあと思ったものでした。ル・ヴァーヴルは港町らしく、お店のウィンドーには洒落た長靴が展示してあり、もし慌ただしくなければお店に入って買い物をしたいところでした。

丁度ヨーロッパ旅行も中間点を迎え、一旦宿を出ることで、駅に荷物を預け、ユーレイルパスを使い、列車で丸1日かけて向かったのがスペインでした。マドリード、アルハンブラ、トレド、セゴビア、バルセロナのコースでスペインを回りました。最初と最後のマドリード、バルセロナは覚えていますが、どんなコースで回ったかは良く覚えておりません。昼間はフランスでしたが寝てからはスペインというコースで、フランスのセーヌ川が列車の傍らをずっと走って行ました。

まず向かったのはマドリードで何人かに話しかけられ、要約すると私はハポンが大好きで親近感を持っていて日本人大好きだという話でした。又どこであったかも良く覚えておりませんが、ピカソの生家にも行きました。そこは美術館になっていて子供の頃のピカソの絵を中心に展示されており、天才はやっぱり子供の頃から見事なもんだと感心したものでした。トレドとセゴビアでは、山の中にポツリと城壁に囲まれた町で、駅から少し歩いてから町に到着するというものでした。トレドでは門番の兵隊がピストルを携帯していて、ぎょろりと私を見たときには生きた心地がしませんでした。本当に怖かった一瞬です。

アルハンブラではジプシーのお店でウィンドーを見て美味しそうだったので買ったのは良かったけれど、お菓子の油が体に合わなかったようで、アルハンブラ宮殿に着いたらトイレが近くなり何回もトイレを探し回り、見学どころの騒ぎではありませんでした。

バルセロナではガウディのサグラダ・ファミリア教会や、グエル公園などを見学し、サグラダ・ファミリア教会では女学生の一行に、そのとき開催地中だった空手家と間違えたらしくて何人もの女学生と順番にハグをしたのがよい思い出です。さらにバルセロナではジョン・ミロ財団美術館に入り作品を見に行きました。とにかくタピスリーの作品が立派で印象に残っています。スペインでは毎日快晴だったのに、フランスに戻ると雪景色となっていました。そして帰国前の日にフランスに着き、その日の晩、夕食の後ですが、ツアーで一緒だったご夫婦に誘われて雪降る中、ノートルダム寺院のクリスマスミサに行って来ました。屋根が高くて寺院全体に響き渡るオルガンのあまりの音響のすばらしさに度肝を抜かれ、日本に帰ってからノートルダム寺院のライブのCDを探して買ったほどでした。

ではここからジョアン・ミロ(ジュアン・ミロー・イ・ファラー)1893年4月20日 – 1983年12月25日)は、カタルーニャ地方の出身。父はゴシック地区の時計の金細工職人で、ミクラル・ミロ・アドジーリアスで母はドラーズ・フェーラです。かつてスペインではカステーリャ語以外の言語は公的には禁止されていたので(フランコ体制下)、カスティーリャ語式の読みでホアン・ミロと書かれることもしばしばありました。現在ではカタルーニャ語の原音を尊重して「ジョアン・ミロ」または「ジュアン・ミロ」と表記するのが通例となっています。

ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されていますが、ミロの描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり、20世紀美術に独自の地位を築いています。ちなみに、ガウディ、ダリもカタルーニャの出身です。ミロは1911年、18歳の時、鬱病と腸チフスを患い、療養のためカタルーニャのモンロッチという村に滞在しました。このモンロッチの村の環境がミロの芸術に大きな影響を与えたようです。

ミロはこの頃から画家を目ざすようになり、翌1912年、バルセロナの美術学校に入学しました。1919年にはパリに出て、この頃からモンロッチとパリを往復しつつ制作するようになります。パリではピカソら芸術家とも知り合い、また、シュルレアリスム運動の主唱者であるアンドレ・ブルトンとも出会います。ミロの作風は同じシュルレアリストでもベルギーのルネ・マグリットやダリらの古典的・写実的描写法とは全く異なる自由奔放なものであるが、ブルトンはこうしたミロの絵画こそが真のシュルレアリスムであるとして共鳴し、ミロはシュルレアリストのグループに迎え入れられることとなったわけです。

ミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリではアメリカの作家のアーネスト・ヘミングウェイやヘンリー・ミラーなどとも交流がありました。1930年代からミロはバルセロナ、パリ、マショルカ島(スペイン領)のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。1944年からは陶器や彫刻の制作を始め、作品の幅を広げていきました。1956年にはパルマに大規模なアトリエを造り、作品の規模も大きくなっていき、陶器、壁画、彫刻などを次々と生み出しました。晩年にはコンクリート製の大型彫刻や壁画などのパブリック・アートの大作を数多く残しています。1970年には日本万国博覧会(大阪万博)のガス館に陶板壁画『無垢の笑い』を制作するため来日しました。ミロは1983年、アトリエのあるパルマ・デ・マヨルカで老衰のため90歳で死去した。これがミロのざっとした経歴です。 

一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現していると言われています。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言したりしています。

ミロの「農園」に対するヘミングウェイの言葉はこの絵を絶賛し、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と芸術的な類似性を比較し、次のように語りました。「この絵は、スペインにいるときに感じているすべての要素が内包されており、その一方でスペインを離れて、故郷に戻れないときに感じるものすべてがある。誰もほかに、こんなに相反した二つのものを同時に描きえた画家はいない。(ヘミングウェイ)」

1924年に、ミロはシュルレアリスムグループに参加。記号的で詩的で自然的で、また矛盾性や二重性に満ちたミロの夢のような作品群は、シュルレアリストたちから夢のようなオートマティスムとして扱われる。ミロはこれまで作品を定義していた焦点を欠き、混沌としたものになりはじめ、またコラージュの絵画制作の中にそれを導入し始める。この伝統的な絵画制作を拒絶し始めて作り上げられた作品に対して、ミロ自身は1924年にミロの友人で詩人のミシェル・レリスへの手紙の中に”X”として曖昧に解説しています。この時代に制作された作品群は、最終的に、「ミロの夢絵画」と呼ばれるようになりました。

ミロは主題を放棄はしませんでした。シュルレアリスムのオートマティスムを利用しているにも関わらず、作品の多くはきちんとした絵画制作プロセスを経ていることが、事前のスケッチ画から分かります。夢の時代におけるミロの作品は、ほとんどオブジェクトが描かれず、象徴的で言語的でありました。この時代は1924年から1925年に制作された『カタルーニャ農民の頭』が代表的な作品となっています。

1926年にはマックス・エルンストとコラボレーションを行い、ロシア・バレエ団の『ロミオとジュリエット』の舞台装置を手掛けています。また、ミロの助けを借りてエルンストはグラッタージュという表現手法を発明しました。1928年になると、それまでの『ミロの夢の絵画』の時代は終わり、「オランダの室内」シリーズが始まる。シュルレアリスムを一端離れて、初期の多彩な表現様式に戻り始めています。

この頃、ミロはベルギーとオランダを2週間旅行し、現地の美術館で見たオランダ絵画に影響を受けているといわれる。特にヘンドリック・マーテンズズーン・ソローやヤン・ステーンらの作品からの影響が見られています。1929年、36歳でピラール・ジュンコサと結婚、パリからスペインへ帰りました。翌年には娘のドロレスが生まれました。ニューヨークでピエール・マティスが画廊を開くと、その画廊はアメリカにおける近代美術運動の影響力を持つようになると、マティスはミロを積極的に画廊で紹介し、その結果、アメリカの美術市場でミロの作品がよく売れるようになり、また展示されるようになりました。

スペイン市民戦争が勃発するまで、ミロは毎年夏にスペインに戻っていましたが、戦争が始まると戻ることができなくなりました。ミロの同時代のシュルレアリストの多くが、政治活動に身を投じるなか、ミロは政治的な世界から距離を取り、また作品にも政治色が現れないよう静かに制作することを好むようになりました。ミロの作品にはカタルーニャの土着色が見られるけれども、それは政治的な意味あいではなかったのです。

1937年のパリ万国博覧会におけるスペイン共和国ブースで、ミロは政府から壁画制作の依頼を受け『刈り入れ』を制作します。このときまでミロは非政治的スタンスだっのですが、パリ万国博覧会を機に、共和制への同情を示すようになります。『刈り入れ』は母国スペインの内戦への抗議を意図して制作されました。博覧会が終了すると、スペイン政府にミロは作品を寄贈するが、作品は輸送中に消失、または破壊されてしまったということです。

1940年から1941年にかけてヴァレンジュヴィル、パルマ島、モンロチ間を移動しながら、20~30の『星座』シリーズを制作します。星座シリーズでは、天体を象徴したモチーフが中心にあり、人や月や星などがまるで幼児が描いたようなちりばめて描かれている。シュルレアリスム時代のオートマティスムとそれまでの土着的で記号的で詩的なミロの画風が融合した時期で、ミロ作品の中で最も人気の高いシリーズである。特にアンドレ・ブルトンが『星座』シリーズを賞賛し、17年後に、ミロの『星座』シリーズから影響を受けた詩のシリーズを作っている。悲惨な第二次大戦の中、真逆に清澄な天上世界を描き出した『星座』を、アンドレ・ブルトンは「芸術面でのレジスタンス」と評した。またミロの孫であるジョアン・プニェットは次のように語っている。

「『星座』は重要な転機でした。この連作には宇宙に向けた力が感じられます。この連作は身近な戦争、虐殺、無意味な蛮行からの脱出口です。『星座』はこう言っているようです。私にとってこの世界的悲劇からの救済は、私を天へと導く魂だけである」と。また『星座』シリーズでは、女性、鳥、月などの主題に多く焦点がおかれており、それらは後のミロの芸術人生の大半に描かれるものである。瀧口修造は1940年にミロの最初の研究論文を発表しました。1948-49年にミロはバルセロナに住みながら、定期的にパリに訪れてムルロ・スタジオやアトリエ・ラカーライアで版画を制作。特にフェルナンド・ムルロとの仲は深く、1000以上の版画作品を制作した。

1959年にアンドレ・ブルトンは、サルバドール・ダリやエンリケ・タバラ、ユニジオ・グラネルらとスペインで『シュルレアリスムへの敬意』という展覧会への出品を要請。またサン=ポール=ド=ヴァンスのマー具材大美術館の庭園展示用にミロは彫刻や陶芸を制作、1964年に完成しています。1974年にミロはカタルーニャの芸術家ジョセフ・ロヨとともにニューヨークの世界貿易センターのタペストリーを制作。1974年からロビーに飾られていたが、2001年の同時多発テロで消失しました。

1977年にミロとロヨは、アメリカのワシントンにあるナショナルギャラリーで個展を開催したタペストリーを展示。1981年にシカゴ市のための彫刻『シカゴ・ミロ』を制作。シカゴのループ地区の屋外に設置されており、すぐ近くにはピカソが制作した『シカゴ・ピカソ』が設置されている。1979年にミロはバルセロナ大学から名誉学位を授与。1983年12月25日、アトリエのあるパルマで心臓発作による老衰のため死去しました。

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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