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Jun 3, 2019

絵描きの視点

Text by Fumio Kansaku
ジョルジュ・デ・キリコ

今回はジョルジョ・デ・キリコですが、どうして昼間ばかりの絵が多いのかというのがまずよくわからない大きな謎でした。多分、ニーチェの思想の影響だと見ていますが、にもかかわらず、三島由紀夫の自殺の第一報を聞いたときあまりにも昼間の光に溢れている気がしたり、カミュの小説で太陽がまぶしすぎて殺人をしてしまったりと言うのをキリコの展覧会で絵を見ながら思い出したりしました。その展覧会でこの絵描き本当に絵が上手いのかという疑問を持ったりしたものでした。
ジョルジョ・デ・キリコ(1888年7月10日-1978年11月20日)はイタリアの画家。ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれました。1900年にアテネでギリシアの画家ジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂの指導下で美術を勉強したあと、1906年に両親とともにドイツへ移動し、ミュンヘンの美術学校に入学。そこで、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける事となったようです。
キリコは父親の目をした不滅の女神だと言われています。そんな父性的な女神の巨大なマネキン彫像が人っ子一人いない都市の広場に立っていて、そこに遠くから蒸気機関車のバゥッ、バゥッというラッセル音のような驀進音が聞こえてきたら、どうするか。ジョルジョ・デ・キリコがひたすら描いたメタフジィク・アートとは、そういう孤絶の彼方からの音信を思わせる気がします。と松岡正剛は言いました。一方、キリコは異常な予感力をもつ多感多情な少年として育っていたとも言います。それだけでなく父の存在というものをそうとう過剰に感受していたらしく、厳格なピュータリニズムを周囲に放つこの父親の言動と生き方に、名状しがたい「危機の到来」のようなものを感じていたようなことも書かれています。
それゆえキリコにとっての父の死は、キリコの内にひそむべき未発の事件を突発させた。父を失ったキリコは、どうしたか。直後にアテネを離れてミュンヘンの美術学校に行くことになりました。それが1907年です。ここでドイツ浪漫派に出会い、とくにベックリンやクリンガーの表現主義的な幻想絵画を見てハッとした。なんだ、ここに自分が表現の手段を探してきたヒントがあると思い、しかし、キリコにはもともと格別の内観力があったので、父の死がもたらした異常な高揚はそのまま雑多に外に出ることなく、ひたすらそのイメージを想像力の中に沈潜していった。そう、それこそがキリコの絵がのちに極限的なメタフィジック・アートに達する要因になった機関車の蒸気だったのである。と松岡正剛は述べている。
それまでキリコはギリシアのヴァロに生まれて、アテネの工芸学校に行っていた。少年キリコに古代都市アテネが細部にいたるまでずうっと見えていたことは、キリコのその後の形象にとっては大きなプラスティック・フォースになっている。しかしそれ以上にキリコをもっと揺さぶったものがミュンヘンには待っていた。それはニーチェの哲学である。ニーチェのツァラストラと超人と悲劇というものだった。こうしてキリコはニーチェを通して、生身の人間を捨てていく。マネキンとビスケットと蒸気機関車。それらが古代都市の一角に孤絶すること。1909年にイタリアに帰ったキリコが考え抜いたことは、このことだったようです。
念のため、キリコはパリに出て自分のメタフィジック・アートがどのように受け入れられるのか、自分の表象を晒してみた。すぐにアポリネールが絶賛してくれた。たちまちブルトンも瞠目してくれた。それで、わかった。シュルレアリスムとはそんなものなのか。キリコは自分に浴びせられたこの歓声をよそに、カルロ・カッラを友としていよいよメタフィジック・アートの様式の仕上げにかかる。これは、でも、時間はかからない。すぐさまその仕上げを見届けて、キリコが次に向かったのは、なんとラファエロやルーベンスの「古典の規範」に戻ることだったのだ。
これには嫉妬深いブルトンが驚いて、非難を浴びせた。キリコには先刻周知のシュルレアリスムとの決別である。が、さあ、ここからこそがキリコの本番なのである。ジャコメティ、デシャンではないが、キリコは新作を制作することなどには目もくれず、しきりに旧作の手直しやその模倣や、ときには日付だけを書き替えることを始める。これはどこか私の好きな作家、稲垣足穂に通ずるものがある。
そんなキリコが小説を書いていた。『エブドメロス』という。一介の画家が手慰みに綴った小説だなどと思ってはいけない。絶賛すべき小説だ。キリコが『エブドメロス』を発表したのは1929年であるが、その3年前に『技師の息子』をエチュードとして書いていた。ようするに準備万端なのだ。技師の息子とは、キリコのことである。技師とは鉄道線路の付設工事をしていた父親アリュージョンのことで、このことを知れば、キリコがどうしてあんなに機関車を画面の隅に描きつづけたかは、見当がつく。すなわち、機関車とは父のことだったのだ。しかし、事は機関車の残響を描くだけではなかったのである。キリコにとっては、この父と子の緊張関係そのものが壮烈で、そのため『技師の息子』にも『エブドメロス』にもこの父性幻想が壮絶なナイトメアとして沸き立った。それは絵にすれば機関車の黒いボディと蒸気となるようなものではあったのだけれど――。最初にちょっとした事実関係のことを書いておくが、キリコの父親はキリコ17歳のときに死んだ。いったいキリコはエブドメロスとなって何を書きたかったのだろうか。ひとつは父のことである。もうひとつは? もうひとつはすべてを「加速して、そして凍結していく面影」として、これらいっさいを凝縮することだということになるでしようか。
今回はジョルジョ・デ・キリコですが、どうして昼間ばかりの絵が多いのかというのがまずよくわからない大きな謎でした。多分、ニーチェの思想の影響だと見ていますが、にもかかわらず、三島由紀夫の自殺の第一報を聞いたときあまりにも昼間の光に溢れている気がしたり、カミュの小説で太陽がまぶしすぎて殺人をしてしまったりと言うのをキリコの展覧会で絵を見ながら思い出したりしました。その展覧会でこの絵描き本当に絵が上手いのかという疑問を持ったりしたものでした。
ジョルジョ・デ・キリコ(1888年7月10日-1978年11月20日)はイタリアの画家。ギリシアのヴォロスで、ジェノバ出身の母とシチリア出身の父との間に生まれました。1900年にアテネでギリシアの画家ジョルジオ・ロイロスやジョルジオ・ジャコビッヂの指導下で美術を勉強したあと、1906年に両親とともにドイツへ移動し、ミュンヘンの美術学校に入学。そこで、フリードリヒ・ニーチェ、アルチュール・ショーペンハウアー、オットー・ヴァイニンガーなどの19世紀のドイツ哲学やアーノルド・ベックリン、マックス・キリンジャーといった象徴主義の絵画から影響を受ける事となったようです。
キリコは父親の目をした不滅の女神だと言われています。そんな父性的な女神の巨大なマネキン彫像が人っ子一人いない都市の広場に立っていて、そこに遠くから蒸気機関車のバゥッ、バゥッというラッセル音のような驀進音が聞こえてきたら、どうするか。ジョルジョ・デ・キリコがひたすら描いたメタフィジック・アートとは、そういう孤絶の彼方からの音信を思わせる気がします。と松岡正剛は言いました。一方、キリコは異常な予感力をもつ多感多情な少年として育っていたとも言います。それだけでなく父の存在というものをそうとう過剰に感受していたらしく、厳格なピュータリニズムを周囲に放つこの父親の言動と生き方に、名状しがたい「危機の到来」のようなものを感じていたようなことも書かれています。
それゆえキリコにとっての父の死は、キリコの内にひそむべき未発の事件を突発させた。父を失ったキリコは、どうしたか。直後にアテネを離れてミュンヘンの美術学校に行くことになりました。それが1907年です。ここでドイツ浪漫派に出会い、とくにベックリンやクリンガーの表現主義的な幻想絵画を見てハッとした。なんだ、ここに自分が表現の手段を探してきたヒントがあると思い、しかし、キリコにはもともと格別の内観力があったので、父の死がもたらした異常な高揚はそのまま雑多に外に出ることなく、ひたすらそのイメージを想像力の中に沈潜していった。そう、それこそがキリコの絵がのちに極限的なメタフィジック・アートに達する要因になった機関車の蒸気だったのである。と松岡正剛は述べている。
それまでキリコはギリシアのヴァロに生まれて、アテネの工芸学校に行っていた。少年キリコに古代都市アテネが細部にいたるまでずうっと見えていたことは、キリコのその後の形象にとっては大きなプラスティック・フォースになっている。しかしそれ以上にキリコをもっと揺さぶったものがミュンヘンには待っていた。それはニーチェの哲学である。ニーチェのツァラストラと超人と悲劇というものだった。こうしてキリコはニーチェを通して、生身の人間を捨てていく。マネキンとビスケットと蒸気機関車。それらが古代都市の一角に孤絶すること。1909年にイタリアに帰ったキリコが考え抜いたことは、このことだったようです。
念のため、キリコはパリに出て自分のメタフィジック・アートがどのように受け入れられるのか、自分の表象を晒してみた。すぐにアポリネールが絶賛してくれた。たちまちブルトンも瞠目してくれた。それで、わかった。シュルレアリスムとはそんなものなのか。キリコは自分に浴びせられたこの歓声をよそに、カルロ・カッラを友としていよいよメタフィジック・アートの様式の仕上げにかかる。これは、でも、時間はかからない。すぐさまその仕上げを見届けて、キリコが次に向かったのは、なんとラファエロやルーベンスの「古典の規範」に戻ることだったのだ。
これには嫉妬深いブルトンが驚いて、非難を浴びせた。キリコには先刻周知のシュルレアリスムとの決別である。が、さあ、ここからこそがキリコの本番なのである。ジャコメッティデュシャンではないが、キリコは新作を制作することなどには目もくれず、しきりに旧作の手直しやその模倣や、ときには日付だけを書き替えることを始める。これはどこか私の好きな作家、稲垣足穂に通ずるものがある。
そんなキリコが小説を書いていた。『エブドメロス』という。一介の画家が手慰みに綴った小説だなどと思ってはいけない。絶賛すべき小説だ。キリコが『エブドメロス』を発表したのは1929年であるが、その3年前に『技師の息子』をエチュードとして書いていた。ようするに準備万端なのだ。技師の息子とは、キリコのことである。技師とは鉄道線路の付設工事をしていた父親アリュージョンのことで、このことを知れば、キリコがどうしてあんなに機関車を画面の隅に描きつづけたかは、見当がつく。すなわち、機関車とは父のことだったのだ。しかし、事は機関車の残響を描くだけではなかったのである。キリコにとっては、この父と子の緊張関係そのものが壮烈で、そのため『技師の息子』にも『エブドメロス』にもこの父性幻想が壮絶なナイトメアとして沸き立った。それは絵にすれば機関車の黒いボディと蒸気となるようなものではあったのだけれど――。最初にちょっとした事実関係のことを書いておくが、キリコの父親はキリコ17歳のときに死んだ。いったいキリコはエブドメロスとなって何を書きたかったのだろうか。ひとつは父のことである。もうひとつは? もうひとつはすべてを「加速して、そして凍結していく面影」として、これらいっさいを凝縮することだということになるでしようか。

*画像はノラの絵画の時間より抜粋

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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