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Jul 2, 2019

絵描きの視点

Text by Fumio Kansaku
長沢節

僕が文化学院に入ってから2、3年後、松本孝志君が入ってきました。彼が入学してから1年も経たないうちに二人展を画廊文学院で開催しました。この松本君は、そのときバリバリの長沢節さんの弟子で、文化学院では土曜日一回の村井正誠先生の教え子でもありました。

長沢節さんと村井先生にとっては文化学院で先生と生徒の関係であったことで、松本君は孫弟子ということでもありました。とにかく私と村井先生が出会ったのは村井先生が70歳を過ぎてからでした。

長沢さんは水彩連盟の会員でも有り、弟子の松本君も会員として一緒に出品していました。何回か松本君の招待を受けていたので、松本君と節さんの絵は毎回見ていたことになります。確か松本君はセツモードの講師をしながらであったから何かと忙しかったようでもありました。どことなく松本君の絵は長沢さんに似ていたなあと言うことを覚えています。

長沢節(本名 長澤昇)は1917年、会津若松市出身。文化学院在学中の20歳(1938年)の時に、挿絵画家としてデビューしました。そしてセツモード設立となるのですが、卒業生はそうそうたるものでした。私が知っているだけでも、穂積和夫、河原淳、川久保玲、山本耀司、浜野安宏、樹木希林、芦野宏、藤谷美紀、谷原章介、木原美知子、四谷シモン、金子国義、石津祥介、桐島かれん、安藤忠雄とそうそうたるものです。

長沢節はフラジャイルな少年好みでしたが、松本君が長沢節さん好みであったかどうかは聞き漏らしましたが、松本君の奥さんである中山庸子さんもセツモードの出身者でありました。そして、二人のご子息は文化学院に入学し卒業致しました。とにかくお二人が長沢節さんと親しかったのは間違い在りません。つまりご子息が入学したのはセツさんはお亡くなりになりセツモードも無くなってからだと覚えています。

松本君から聞いた話で、ある時、長沢節先生から「美味いものを喰わしてやるから」誘われて行ったのがフォルクスという大衆ステーキ屋でした。今で言えば、いきなりステーキだろうかと思います。松本君にしたらどんな高級料理だろうと思ったらしいがおよよと思ったのでしょう。松本孝志君のことを長々と述べてしまいましたが、今日は松本孝志君の先生である長沢節さんのお話です。

長沢節には三段論法がありました。「あの人は弱いから綺麗」「あの人は弱いから好き」「あの人は弱いからセクシー」。セツは、男が強がることや、男の強がりを徹底して嫌っていたのは間違いありません。男は孤独で弱いからこそ男なのであるとみなしていました。それには、できるだけ他人に重さを感じさせないようにすること、そのために自分をできるだけ細く軽くしておくこと、それが長沢節の生涯譲らない美学でありました。

人間の愛やコミュニケーションがプラスとマイナスで引き合うことや、愛や恋愛が過剰になることについて、まったく関心がなかったようです。そうではなくて、むしろマイナスとマイナスがふと引き合う時が最も美しく、真の優しさが生まれるとばかり考えてきたようです。こういう感覚の持ち主は、むろん世の中にはそこそこいるだろうけれど、長沢節ほどに徹底したのはめずらしい。しかもその美しさを世に実在する男女の風姿に求め、その理想をたえずドローイングや文章で表現しつづけたのでした。

美しい男たちが大好きなセツではありますが、女たちについても独自の美学があったようです。何がなんでも、ガリガリが好きでした。その極端なほどのガリガリ好みは、ヴェルシュカの絶賛にあらわれていました。外国ファッション誌にヴェルシュカを見出して、「あんなに痩せこけた美しいモデルはもう二度と出てこないのではないか」と褒めちぎり、「あの骸骨のような顔がよかった」「目が深く大きくくぼみ、頬がこけてアゴは四角に角ばっていた」「なんとセクシーなんだろうと思った」と書いています。

池袋の「すずめが丘」の住人であったセツは、まわりが国民服やゲートルを着けていたとき、一人、肘が抜けた真紅のセーターにハンチングをかぶり、世のダンスホールがことごとく閉鎖されても、アトリエの床をぴかぴかに磨いてダンスパーティを開いていました。そこでかける音楽もセントルイス・ブルースやアロハオエなどの敵性音楽ばかり。メキシコ帰りの北川民次が民族衣裳を着て、麻生三郎はべろべろに酔っ払って、そこに参加していました。すでに作家になっていた林芙美子が見かねて大根おろしや即製のカレーをふるまったという逸話も残っています。

セツが池袋モンパルナスに住んでいたのは昭和13年(1938)からのことです。通称“アトリエ村”の小さな間借りの日々。セツはその日々を気楽自在に謳歌していました。それがすこぶる「例外」的だったのは、独立美術協会をつくった里見勝蔵、しゃれた文章がうまかった野見山暁治、シュルレアリスムの靉光、のちの「原爆の図」の丸木位里夫妻、童画家の武井武雄、福沢一郎らがほぼ画家だったのに対して、セツだけは独自にファッションやモードを追っていました。

もう一人、セツのアトリエに出入りした男をあげておきます。三島由紀夫(1022夜)。三島もセツに興味をもってアトリエに会いにきていました。しかしセツは三島の右翼性が気にいらず、しだいに距離をとるようになります。このあたりがセツらしいです。セツが選挙で共産党に入れたよと言うと、三島は怪訝な顔をするばかりなのだ。三島は三島で、セツが「シャンデリアクラブ」などをつくって、丸の内ホテルや工業倶楽部などでちゃらちゃらしたダンスパーティを開いているのが気に食わない。セツにはホモセクシャリティが横溢していたが、三島のような毛むくじゃらの男性美はごめんだったようです。

では、池袋モンパルナスにくる前のセツは、どうしていたのか。お茶の水の文化学院の美術科学生だったのです。西村伊作や与謝野晶子が自由教育の理想をもって精根こめて大正10年(1921)に創立した、あの伝説の学校。セツはここに昭和10年(1935)に入学しています。当初はできれば上野の芸大あたりに入りたかったようでしたが、内申書に「教練不合格者」の烙印がおされていて公立のどこにも入れず、やむなく文化学院を選ぶことになります。それがかえってよかった。教練なんて、とうていセツの及ぶところではなかったからです。セツはそこで良家の子女たちの美しさに出会い、「ヴォーグ」や「ハーパース・バザー」に出会い、佐藤春夫・三木清・石井柏亭・山下新太郎・有馬生馬の講義に出会い、ロートレックに出会いました。

とくに春日部たすくの水彩指導はセツを変えていきました。入学してしばらくすると、春日部の家に居候をしたほどです。ちなみにこのとき、文化学院の5歳年下の針田陽子というガリガリの少女に恋をします。針田は当時は天才バレエ少女と噂されたほどで、痩せっぽっちではあるが、お洒落なアメリカンガール。残念ながらセツには見向きもしませんでした。セツはこのガリガリ少女の面影を、のちに何度もファッション・イラストレーションにこめている。

文化学院に入る前はどうしていたのか。会津にいました。セツの生まれは会津若松なのです。大正6年(1917)の生まれ。本名は昇。家は大きな旧家だったが、遊び人の父の代で没落。姉と弟は幼くして死亡。母はこつこつと努力する人だったが、父は没落後も外に何人かの女をつくっていました。その父が、小学2年のときにとびきり上等の水彩絵の具セットを買ってくれた。7色ではない。24色。イーゼルも付いていた。1500人もいる会津の第一小学校には、絵の先生に渡辺菊二がいました。のちのちまでセツに影響を与えたひとです。この先生と水彩画セットのもとに、セツはお絵描きにはまりこんでいったのだそうです。

次に進んだ会津中学では『共産党宣言』をすすめる早熟な友達がいました。読んでみたらけっこう感動し、軍事教練も始まっていましたが、セツはからっきしでした。すでに女の子のような言葉をつかっていたセツには、昭和前期の軍事も天皇も体育も肌に合わない。それよりきれいな男の子や女の子のモデルを描くか、無政府や反政府の雰囲気にいるのが好きでした。つまるところは、そのころの用語でいうなら、セツはどうしようもない“軟派”だったといえます。

しかしその一方、会津には、東北の入口という辺境性と維新政府に裏切られたという土地柄があります。またセツが生まれた大正6年にはロシア革命が激しく逆巻き、社会主義や無政府主義が日本に巻き散らかされていました。竹久夢二(292夜)はこの動向に憧れたひとりです。会津とアナキズム。この二つはセツの生き方のどこかに入りこんで独特の野人の気質になって、その後の人生を彩っていきます。

文化学院を卒業すると、セツは上述のように池袋モンパルナスの日々を謳歌するのですが、戦後になっても水彩画を描くことだけは続けていました。そのうち日本水彩画会でキング賞をとり、会員に推挙されました。一度の入賞で会員になる画家は初めてだったようです。翌年の昭和15年(1940)、春日部たすく・荒井直之介・小堀進・荻野康児・山中仁太郎らが「水彩画連盟」を設立。小学校の先生だった渡辺菊二も名を連ねていました。実は春日部も会津出身だったのです。

セツもここに依拠して好きな絵を描き、雑誌の挿絵の注文に応じました。挿絵を描いたとき、編集部が長沢昇を「長沢節」と誤植しました。セツは、ここで、まあ、いいか、そのまま長沢節を名のることにしようと決めました。この水彩画連盟にスタイル画の部門をおこしたのが、中原淳一・宮内裕・原雅男、そして長沢節だったのです。セツに最初に雑誌の挿絵の仕事を紹介してくれたのも中原淳一です。雑誌は実業之日本社の「新女苑」でした。こうして、戦後の日本にもやっとスタイル画に陽の目があたりそうになってきます。セツはすかさず教室を開く。

まず、「男の中に女がいる」ということが告げられる。セツにとってはダンディズムの本質はなんといっても「切なさ」で、そこには当然、女も入る。次に「世界中、みんなみなしご」であることを告げる。何かから見放されていること、これが大事なのだ。こうして「弱さ」についての美しさが、さまざまな角度で言及されていきます。セツは「弱さ」の前に前提としての「優しさ」を語る。「優しさ」はすべて他人に対する気持ちから発していて、それも見知らぬ他人に優しさをもたらせるかどうかにかかっていることを強調する。この見知らぬ他人への優しさは、島国日本が苦手とするものだろうけれど、これをなんとか突破しなければ、日本人は成長することも深くなることもできないのではないか。そう、セツは力説しました。そこで、問題になるのが「男の強がり」なのでで、これが邪魔だ、だったらこれを壊すべきなのだと、考えました。

こうしていよいよ本題に入り、男が頼もしいときは、男は孤独であるべきで、そのときいちばん弱々しくも美しくもなっているものなのだということを説く。のみならず男も女も弱さを隠すべきではなく、そうなれば、弱いものはすべてセクシーになりうると展開する。そのうえで今夜の冒頭に引いた「マイナスとマイナスがふと引き合う時が最も美しく、真の優しさが生まれる」が宣言されるのである。セツ・フラジリティ、まさに全開。

長沢節は1999年(平成11)、6月23日に亡くなりました。千葉県大原町へ生徒たちと写生旅行に行ったとき、自転車で転倒したのが死因になりました。その4カ月前には文芸春秋画廊で個展が開かれたばかりでした。82歳。では、みなさん、長沢節のことをもっと知りましょう。セツが生き抜いた時代社会と仲間たちのことを、もっと感じましょう。それから自転車にはくれぐれも気をつけましょう。


引用画像は「ウェルカムホテルにて」1989年 松岡正剛  千夜千冊より抜粋

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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