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Mar 27, 2011

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物語が聴こえはじめた 

Text by Hiroko Hosaka & Illustration by Naoko Tanoue

hiroko_jan

私の中には、日本 人と中国人が住んでいる。彼らは、ほぼ、2つの異なった人格として存在していると言っていいだろう。私はその両方ともが好きだ。だから、よそで日本人が中 国人のことを悪く言うのを耳にすると、私の中の日本人は機嫌が悪くなる。どこに目をつけているのかと思う。中国人の懐の広さ、機知に富んだところをなぜ見 ようとしないのかと思う。中国人が日本人の悪口を言うと、私の中国人は恥ずかしさでいっぱいになる。あなたたちがくだらないことをガタガタ言っているか ら、立派な中国人も十把一絡げにされ、世界中から笑われるのだと。陽陽(ヤンヤン)が日本へ住み始めた頃、 河合奈保子という歌手が歌っていたヒットソン グを思い出す。「けんかをやめて、2人をとめて、私のために争わないで、もうこれ以上」 毎週欠かさず2人で見ていた「ザ・ベストテン」というテレビの歌 番組でよく流れていた。あんな感じだ。けれど、そんな感じの場合、「私」というのはいったい誰になるのだろう?

私は 中国の東北地方に生まれた。当時、日本人が満州と呼んでいた土地だ。父親が軍人であったため裕福な暮らしをしていたが、9歳の時に日本が戦争に負け、家は ロシア人に乗っ取られた。満州に住んでいた多くの日本人が日本へ逃げ戻り、私たちも大連から出る船に乗るはずだった。私が通っていた小学校の校長先生夫妻 と、父親の部下である若い軍人夫妻と一緒に3台の荷馬車で大連に向かった。ところが、港へ行く途中でとんでもないことが起こり、私は乗っていた荷馬車から 逃げた。沿道に出てきた数人の村人を盗賊だと勘違いした父親の部下が、村人の一人の腕を軍刀で切り落としたのだ。村人は、私たちの荷物があまりに大量なた め、それでは馬が大連までもたないと言いに出てきただけだった。幾らかくれれば、自分たちが一部を運ぶと、そうすれば、苦しい生活の費用の足しになると 思っただけだったのだ 。中国に長いこと住んでいたにもかかわらず、大人たちは中国語をほとんど解さなかったから、村人の言う意味が分からなかったのだ。 私が切り落とされた腕を拾おうとすると、その若い軍人は私を押さえつけ、腕を遠くへ投げた。そして、「たかだか中国人の腕一本だ」とのたまった。私は怒り 心頭のあまり、隙を見つけて逃げたのだった。 阿爸(アパー)の腕を探さなければと思った。腕を切り落とされたのは、陽陽の父親だった。私は一晩中、 阿 爸の腕を探し回り、疲れ果てて草原の中で眠ってしまった。目覚めると、阿爸の家で布団に寝かされていた。阿媽(アマー)と阿震(アージャン)が私をのぞき 込んでいた。 阿爸は右腕を黒ずんだ布でぐるぐる巻きにされ、私の隣で寝ていた。薄いペラペラの掛け布団の上に出ている腕が異様に短かった。陽陽がその腕 をじっと見ていた。

陽陽は私より2つか3つ上なだけだが、満州の私が住んでいた洋館でずっとお手伝いさんをしていた。弟の阿震と私は同い年 で小学校のクラスメイトだった。私はよく、学校帰りに阿震について行き、阿爸と阿媽の焼きまんじゅうの屋台を手伝ったものだ。大事な売り物のはずだけれ ど、 阿爸は私たちの顔を見ると、必ず出来立ての熱々のまんじゅうをくれた。私の両親が陽陽を可愛がったのと同じに、阿爸と阿媽も私をとても可愛がってく れた。阿爸はこれからどうやってまんじゅうを焼くのだろうかと、その短い腕を見ながら思った。阿爸も阿媽も陽陽も阿震も皆、私やお父さまを嫌いになるだろ うことが怖かった。

しかし、その心配は杞憂に終わった。 彼らの態度が変わる気配は全くなかった。それよりも、 「大丈夫、大丈夫。旦那さ まが必ず迎えに来て下さるから」と、唐突に親を失った私を励ましてくれた。 そして、「旦那さまに痩せたタケを見せるわけにはいかない」と言って、2、3 週間もすると阿爸は屋台を引きに街に出た。 阿媽と阿震とで、それなりに店を回せたが、皆と働いているほうが阿爸は楽しそうだった。直ぐに、片手で屋台を バランスよく引くコツを習得した。利き手ではない左手でのさまざまな作業にもどんどん慣れていった。 あるもので間に合わすのが当たり前の人たちだった。 右腕はなくなったが左腕があるからそれを使う。そういう感じだった。その結果、阿爸の左腕はあっという間に筋肉隆々になり、阿媽は嬉しそうにそこへ自分の 腕を絡ませた。自然の摂理に従い、直に女の子が生まれた。中国で一人っ子政策が始まるまでにはまだ30年以上あった。

戦争が終わってしばら くは、日本への引き上げはなんだかんだと続いていたが、中国の体制が社会主義に変わりつつある中で日本との関係は悪化の一途をたどり、引き上げは間もなく して中断された。日本からの手紙も満州にいる日本人へは届かなくなった。 それを知ってか、阿爸も阿媽も「旦那さまがお迎えに来る話」はしなくなった。ま だ小さな子供だったということもあるし、もともと自分を可愛がってくれていた人たちとの暮らしということもあり、私は阿爸の家に馴染んでいった。

そ のまま馴染んでしまっても良かった気もするが、私は日本語を忘れることがなかった。なぜなら、 阿爸の家には日本語の本が山のようにあったからだ。阿爸の 腕が切り落とされた時、荷馬車の御者をしていた中国人が怯えて逃げた。一人は私の父親に取り押さえられたが、2人はどこかへ行ってしまった。仕方なく、荷 物が一番少なかった若い軍人の荷馬車に全員が乗リ込み、再び大連を目指した。残った2台の荷馬車には高価なものがたくさん積まれていた。村人でそれを山分 けすることになった。村の誰もが食べ物や金目の売れそうな物を欲しがる中を、阿媽は私の父親の荷馬車に積まれていた日本の本を全部貰ってきた。私は本を読 むよりは外で遊ぶほうが好きだったから、縄跳びや毬を貰ってきてくれれば良かったのにと思った。勉強が好きではない阿震は、私に同情してくれた。 読み書 きの出来ない阿爸は「タケはこれを全部読めるのか?」と、ひどく驚いた。私は縄跳びのことを忘れて得意な気持ちになり、「全部は読めないが、読めるものも ある」と、童話を一冊取り出した。すると、待ってましたとばかりに陽陽がそれをさっと取って声に出して読み始めたものだから、阿爸ばかりでなく、阿媽まで もが口をあんぐりと開け、しばらく呆けていた。

陽陽は、洋館でお手伝いさんをしていた頃、若くして病気で死んだ私の兄によく童話を読んで 貰っていた。兄は身体が弱かったから、いつでも、家の中で本を読んでいた。陽陽は自分の用事の合間に兄のところに行き、本を読んでとねだったり、日本語の 読み書きを教わったりしていた。雇い主である私の両親からも日本語でいろいろと頼まれるうちにどんどん日本語を覚えた。私は逆に、小学校で阿震とよく遊ん でいたお陰で、中国語を話すことが出来た。お父さまやお母さまに目隠しをして頂き、陽陽と私とで、どちらが話しているかを当てて貰うお遊びをよくしたもの だ。お母さまは必ず聴き分けたが、お父さまはよく間違えた。いつも静かなお母さまが、そのような時には明るい笑い声をあげられた。私は急にそのお遊びがし たくなり、 阿爸と阿媽に目隠しをした。私と陽陽が童話を一行ずつ読んでいった。 阿媽は必ず聴き分けた。 阿爸は直ぐにどっちがどっちか分からなくなっ た。阿媽は阿爸の頭をグシャグシャしながら、「阿爸はバカだなあ」と大きく口をあけて笑った。

それからというもの、 陽陽(ヤンヤン)は暇を見つけては読書にふけった。いつしか、それは童話から小説へと移行していき、分からない言葉があると私に聴いてくるようになった。 私とて、日本語教育を受けていたのは9歳までだから、分からない難しい言葉が多々ある。それで、本の山に漢和辞典や国語辞典を見つけてきて、調べては陽陽 に教えた。そんなことをするうちに、私自身も読書に夢中になるようになった。なぜ今まで、この面白さに気が付かなかったのかと思った。だんだんと大きくな り、阿震(アージャン)と遊ばなくなったこともあったかもしれない。本のほとんどは、夏目漱石や芥川龍之介といった文学作品だった。なぜ、 夜逃げ同然の ような状況の中、持って逃げるべきリストには到底登場しないであろうはずの本がこんなにたくさん荷馬車に積んであったのか。今思うと、母親は死んだ兄の形 見として、これらの本を荷馬車へ積んだのだろうと考えられる。お母さまにとっては、これらの本は、兄さまが生きていたという証は、これから生きていくのに 必要なものの一つだったのだろう。阿媽(アマー)は本能の部分で何かを感じとったのかもしれない。私を育てていくために、これらの本が助けになると。その ようなわけで、陽陽と私は家の手伝いの合間にたくさんの本を読み、感想を言い合った。本の中の好きなセリフや言い回しを教えあったりもした。出てくる美味 しそうな食べ物やきれいな着物の色や柄に、洋館での暮らしを思い出したりした。

やがて、2人とも街のメッキ工場に働き口が見つかった。中国 では 檔案(とうあん)と言って、日本でいうところの戸籍謄本みたいなものがあり、そこには家族構成から党歴にいたるまでなんでも記録してある。民族とい う項目もあり、私の場合、そこには「日本」と書かれている。「日本」と書かれていると雇って貰えないケースが多々あると聴いたが、メッキ工場は私を雇って くれた。私は中国語を完璧に話したし、陽陽と一緒のことや、家が貧乏であったことなどが良い印象を与えたのだと思う。陽陽曰く、阿爸(アパー)が日本人に 腕を切られたことも大きく響いただろうということだった。陽陽は言った。「日本人が働いて、腕を切られた阿爸の力になるのは、理にかなっていると思ったの じゃないかしら?」本人にその気はなかったとは思うが、かなりな嫌味だと思う。けれど、素直な私は気が付かず、そのことについてひとしきり考えた。そし て、小説の中で誰かが言っていたことを思い出し言った。「だったら、私は福になろうと思う」陽陽はしばらく不思議そうな顔をしたが、やがて笑った。 「災 い転じて福来る!」 陽陽は私が福になることに協力すると言い、私たちは工場で人一倍まじめに働いた。

一方で、工場と家を往復する間は、飽 きもせずに本の話をした。一人が声を出して読んで、もう一人に聴かせたりもした。そういう時には読んでいるほうが転ばぬように、しっかりと手をつないだ。 やがて、私たちは、少女から娘になり、小説の中の青年に恋をするようになった。互いにその眠れぬ思いを打ち明けあった。日本の青年たちの透き通った壊れや すい心に自分も心を痛めた。彼らのつれない態度に涙した。 そのような時には、自然と、2人の会話は日本語になった。心に響いた言葉や、心に現れた言葉 を 2人だけが分かる言葉で交わしあった。いつしか、私たちのつながりは姉妹以上に深いものになっていった。

陽陽 が、読んだ本を中国語の短い朗読劇にすることを思いついた。そして、夜寝る前に母親が子供に本を読んであげるように、小さな妹に聴かせた。阿爸も阿媽も阿 震も、明日の焼きまんじゅうの下ごしらえをしながら聴いていた。阿震のガールフレンドが近所の子供のお守りをしがてら聴きに来た。彼女が触れ回ったのか、 そのうちに村の子供たちが聴きに来るようになった。そこへ、だんだんと大人も混ざるようになり、村人が皆で日本の童話や小説を聴いた。 阿爸の家はまるで 村の映画館みたいになった。人気のある物語は何度でも上映された。皆で泣いたり笑ったりした。日本人も中国人も同じようなことで笑ったり、泣いたりするこ とを皆が知った。本が面白いことを皆が知った。そういうことは、一度肌で感じればなかなか揺らがないものだ。けれど、世の中は、誰かの都合で理屈通りにい かないことがある。そんなことくらい、村人とて分かるから、赤い手帳を持った若者や子供が首にお揃いの赤いスカーフを巻いてウロウロしていたときには、ぼ んやりした顔つきで畑を耕したりまんじゅうを焼いたりして、無学と貧乏をアピールした。彼らがいなくなると、また夜の朗読劇を聴きに来た。こうして私は、 敵国日本の子供であったにもかかわらず、本を読むブルジョア階級の出だったにもかかわらず、 反日闘争も文化大革命もくぐり抜けた。 貧乏は厳しかった が、貧乏であることが私を守ってくれた。お母さまと阿媽が無用の長物から拾い上げた本が私を守り、人々に溶け込ませ、そして、支えた。

中 国と日本が国交を正常化したのは、それから、だいぶだってからのことだった。私も陽陽も、娘から妙齢の女性になっていた。メッキ工場では陽陽は主任の地位 についていた。私は相変わらずラインに並んでいた。ある日、田中角栄が中国へやってきた。周恩来が北京空港で彼を出迎えた。2人が握手をすると、国交が正 常化した。次の日、メッキ工場の工場長がやって来て、私と陽陽に握手をするように言った。私たちが言われるままに握手をすると、「国交が正常化しました」 と言って笑った。私の苗字は田中で陽陽は周だったからだ。私たちはずっと、手をつないでメッキ工場への道を歩いていた。国交は最初から正常だったのだと 思った。

国交が正常化すると、公安局に、肉親が探している日本人孤児の名前が貼り出されるようになった。ずっと後で知ったことだが、なんで も、日本のどこかのお坊さんが周恩来に手紙を書いて、「家族と離れて貴国に取り残された日本人がたくさんいるから探してくれ」とお願いしたらしい。角栄は 来るは、どこぞの坊さんから手紙は届くはで周恩来もさぞ忙しかったことだろう。戦争をしていたかと思えば、いきなり握手をしたり、手紙を書いたり、世の中 は相変わらず、いろいろな人の都合や思いで動いているのだなと思った。良き都合であれ、悪しき思いであれ、悪しき都合であれ、良き思いであれ、そういうも のに振り回されると誰かの腕がなくなったりすることを私は知っていた。だから、放っておいた。私は結婚もせず、毎日毎日メッキ工場で働くだけだったが、家 の人が目の前のあるもので工夫して暮らしていることや、村の人々が朗読劇を楽しんでいること、何でも話せる陽陽のこと、そういう確かなものは、肌で感じた ことだけを大事に生きていれば、おかしなことにはならないと思っていた。誰かの腕が切られ、野原に投げ捨てられるようなことにはならないと思った。災いが 転じて福になりつつあるのだ。このまま静かに中国にいようと思った。

しかし、陽陽はそうは思わなかった。「タケちゃん、小説で読んだ場所を 見てみたくはないの?」と言った。陽陽も、結婚もせず、 毎日毎日メッキ工場で働くだけだった。「家族は大事だし、朗読劇をするのは楽しく、タケちゃんが いることも嬉しい。けれど、公安局に張り紙が貼ってあり、そこにタケちゃんの名前があったとすれば、日本でタケちゃんのことをずっと気にしていた人がいる ということだから、それも嬉しい」と言った。自分は旦那さまや奥さまのこと覚えていると言った。やさしい人たちだったと。私は陽陽に引っ張られるようにし て公安局へ行った。

田中という名前の孤児は私一人ではなかった。加えて、あろうことか、私は自分の名前を漢字でどう書くのかを覚えていな かったから探すのに手間取った。 タケと読む漢字はまっすぐ伸びる竹くらいしか知らなかった。「田中竹」という名前はなかった。ひらがなやカタカナの名前 には、その音に似た中国の漢字が当てはめてあった。例えば、「トヨ」なら「多有」というように。タケと似た発音の名前を探してみたが、そういう名前もな かった。陽陽が、両親の名前で探してみようと言ったが、私は両親の名前もどう漢字で書くのかをやはり、覚えていなかった。陽陽も当時はまだ小さかったの で、彼らを旦那さま、奥さまとしか呼んでおらず、名前を知らなかった。私はなぜか、ほっとした。これで余計なことを考えずに済むと思った。帰ろうとすると 陽陽が言った。「私と一緒に洋館で働いていた人が覚えているかもしれない」

陽陽は、隣の村まで行き、一緒に働いていた人たちの一人が住んで いた家を訪ねた。その人は結婚をして遠い村に越していたので、住所を教えて貰い手紙を書いた。しばらくすると返事がきた。陽陽よりずっと年上だったそのお 手伝いさんは、おぼろげではあったが私の父親の名前を覚えていた。漢字3文字の名前だったそうだ。3文字のうちの2つまで覚えていてくれたので、その手紙 を持って、また公安局へ行った。しかし、そのような名前の人からの捜索依頼はなかった。帰ろうとすると、今度は公安局の人が言った。「ああ、あった、あっ た!」

日本の両親は亡くなっていた。お父さまは自殺だった。お母さまは、次々に家族が死んでいくのに耐えられなかっ たのか、やがて寝込むようになり、そのまま、お父さまの後を追うようにして亡くなったそうだ。 長男が戦病死(小さな私とよく遊んで下さった上の兄さ ま)、次男は若いうちに病死(陽陽(ヤンヤン)に童話を読んで差し上げていた下の兄さま)、戦中に日本へ嫁がせた2人の娘のうち、冬の厳しい米どころの農 家の暮らしで身体を壊し、次女が病死していた。

私を探していたのは、日本に嫁いだ2人のうちの長女のほうだった。諸橋という苗字になってい たので分からなかったが、父親の名前がカッコでくくられて書いてあったのを公安局の人が見つけてくれたのだ。この上の姉さまも、下の姉さまと同じ地方の農 家に嫁いだが、元気に生きていた。夫は随分年上の人だったようだが、結婚して間もなく召集があり、それっきり戻ってきていない。嫁いだ米どころで終戦直前 に大きな空襲にあい、何もかもを失った。運良く花火工場に職が見つかり、花火の玉を作る仕事についている。離縁せずに諸橋を名乗っているのには、遺族手当 を貰えるからという理由もあるようだ。満州へ渡る前に住んでいた東京の家は空襲で焼けていた。日本へ戻った両親は空襲を免れた親戚の家に間借りをしていた らしいので、財産のようなものはなかったのだろう。

姉さまの一人暮らしの家は質素だが、清潔で、明るかった。玄関の戸はガラガラと音がする 引き戸。戸を引くと気持ちばかりの四角い空間があり、そこで靴を脱ぐ(三和土というのだそうだ)。まっすぐに短い廊下が伸び、左手に三畳ほどの小さな台所 がある。奥は風呂場と便所。右手には四畳半の居間と、居間と襖で仕切られた6畳の寝室が続く。 居間と寝室の東側には縁側があった。私たちは居間の小さな 卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで畳の上に直に座っていた。西側に面した窓が開け放されており、夏の午後の太陽がさんさんと注いでいた。 姉さまが梨を剥いて くれていた。梨は大きく、皮も実もみずみずしく透き通るように白かった。その白が姉さまの指先が黒く汚れているのを目立たせていた。

私は ずっと黙っていた。 何を話せばいいのか、さっぱり分からなかったからだ。私をここまで連れて来てくれた残留孤児サポート団体の人が、「こちらでも、夏は やっぱり暑いんですねえ」と言いながらハンカチで首筋の汗をぬぐった。蝉が鳴いていた。私は小さな頃には上の兄さまばかりに遊んで頂いていたし、姉さまと は随分と歳が離れていたから、正直なところ、彼女との思い出はほとんどない。私が兄さまと庭で遊ぶ間、姉さまはきれいな着物を着て、お茶だのお華だのと花 嫁修業をしていた。農家に嫁ぐことになろうとも、指先がいつも黒くなる生活を送ることになろうとも、想像したことなどなかっただろう。私がじっと梨を剥く 指先を見ていることに気が付くと、姉さまは「花火を作っていると、手先が真っ黒くなってしまうのよ」と笑った。姉さまは特にそれを気にしているわけではな いようだった。黒い指先で、梨ののったお皿を団体の人と私の方へ上品な手つきで差し出した。団体の人が花火工場について姉さまに何か聴いた。

2 人の会話をぼんやりと遠く聴きながら、陽陽がここにいてくれたらと思った。2人組の芸人が急に一人で舞台に立つことになったとしたら、きっとこんな気持ち だろう。それでふと、本のことを思い出し、陽陽が持たせてくれた何冊かの本のうちの一冊を鞄の中から取り出した。姉さまがそれを見て急に大きな声を出し た。「それは、アキラの本じゃなくて?」姉さまが梨の雫で湿った手を伸ばしたので、私は本を渡した。陽陽と私とで何度も何度も読んだために少しよれている 表紙を愛おしそうに撫でると姉さまはページをくった。しばらく黙って読みふけっていた。やがて顔を上げ、「アキラは本当に本が好きだった」と言った。「で も、どうして、タケちゃんが持っているの? 船に乗る前に荷物は全部失ったと聴いていたけど」私は阿媽(アマー)が本を貰ってきたいきさつを話した。 阿 爸(アパー)の腕のことは言わないでおいた。陽陽と2人で作った朗読劇のことや、村人がそれを聴きに来たことなどを話した。 「ああ、それで、そんなに日 本語がお上手なんですね」と、団体の人が言った。

姉さまは私が陽陽の家に暮らしていたことにとても驚いた。 姉さまは陽陽のことをよく覚え ていた。そして、団体の人に、陽陽がお父さまの洋館のお手伝いさんだったことを説明した。団体の人も、そんなケースがあることにやはり驚いていた。「お2 人のご両親が中国の方に良くされていた証拠ですね」と言った。私は 阿爸の腕のことを何故か口に出来ないまま、「阿爸も阿媽もただ、目の前に親のいない子 供がいたから、当たり前に育てたのだと思います」とだけ言った。それを聴いて姉さまは「タケちゃんは強い子ね」と言い、また笑った。「お父さまが 、タケ はたけのこではなくて武士の子だと、よくおっしゃっていたけれど、あなたはその通りに、強く、当たり前に生きていたのね。考えたら、たけのこも竹になれば 強いわね」そして、もっと、中国での暮らしについてを聴きたがった。私は、 阿爸の焼きまんじゅうの屋台のことや、妹が生まれたこと、陽陽とメッキ工場に 働きに出たことなどを話した。私は、また本に助けられたと思った。満足げな陽陽の顔が思い浮かんだ。

孤児はまず一時 帰国をして、しばらく日本で暮らした上で永住するかを決めればよいということだった。姉さまが、しばらく姉さまの家に住めばいいと言ってくれたので、団体 の人は安心し、また連絡しますと言って帰って行った。姉さまは、ゆっくりしていればいいとも言ってくれたが、私は彼女が花火工場に働きに行っている間に家 の中のことをやり、夕飯も作った。味噌汁の作りかたを教わった。日本の米は水分が多く、粘り気があって美味しかった。米どころなだけに、この土地の米は特 に美味しいのだそうだ。

姉さまの家に暮らすようになって数日のうちに、姉さまは私を花火工場へ連れて行ってくれた。花火大会が近いというこ とで、工場(こうば)は忙しそうだった。けれど、工場長みたいな人が直ぐに声をかけてくれた。島峰さんといって、親方(工場長とは言わず、親方というと後 で聴いた)ではなく、その右腕だそうだ。 一瞬、意味が分からなかったが、 頼りになる人のことを右腕というのだろうと思った。 中国語では、右腕だけで なく、左右の手という言いかたをする。 日本人にとっても、右の腕は生きていく上でとても有用で大切だということなのだろう。 右腕のない阿爸を手伝って きた阿震(アージャン)はまさに阿爸の右腕だ。それを「たかだか中国人の腕一本」と、あの時に思ったあのお方は、今もまだ、そう思っているのだろうか?  そんなことをふと思った。

右腕さんは、私がずっと中国で暮らしていたと聴くと、妙なことを聴いてきた。「花火を発明したのは中国の人でしょ う? 空襲で親を亡くした私の面倒をずっとみてくれた人が、中国人は火薬を発明したのに鉄砲を作らないで花火を作っていたと言っていました」私には右腕さ んがなにを言いたいのかよく分からなかったが、右腕さんも誰かに助けられたらしいことが気になった。「シマミネさんは孤児ですか?」と、つい聴いた。「あ あ、孤児には違いないが、私はずっと日本にいました。空襲で家族全員が亡くなったんです。私は18かそこいらにはなっていたけど、島峰さんは不憫に思った のでしょう」私が不思議そうにしたのが分かったのか、つけ加えた。「たまたま苗字も一緒だったんです。この辺りにはよくある名前だから」日本にも、親のな い子供がいたら当たり前に育てる人がいると知って、なんだか嬉しかった。名前の偶然も、私と陽陽の「田中と周の日中国交正常化」のことを思い出させた。私 はしばらく、花火が作られる様子を見物していたが、夕飯の仕度をしなければと腰を上げた。姉さまが「一人で帰れる?」と聴いた。私は一人で街を歩いてみよ うと思い、大丈夫だと言った。工場を出る私に「花火観に来れて。戦争で亡くなった方の追悼の意味もある花火らてな」と右腕さんが言った。

島 峰という名前は確かにこの辺りに多いようだ。姉さまの家に帰る間に2軒、島峰と名乗っている店を見かけた。「島峰八百屋」という野菜を売る店と「島峰フラ ワー」という花屋だ。どちらの店も、店先に花火大会の貼り紙がしてあった。この辺りは、姉さまと何度か一緒に通っているはずだが、その時には気が付かな かった。一人だと見えるものが増えるように思った。「島峰フラワー」の隣は美容室だった。「サロン・ド・パリ」というおかしな名前で、やはり、花火大会の 貼り紙がしてあった。しかし、この店には、花火大会のとは別にもう一枚、貼り紙がしてあり、手書きで白い紙に「求人」と書いてあった。店で働いてくれる美 容師を募集しているようだ。貼り紙と貼り紙の間から中を覗くと、姉さまくらいの年格好の女性が2人で働いているのが見えた。お客さんを左右から挟むように 立ち、太さも長さも大人の指くらいの色とりどりの棒に髪の毛をくるくると巻き込んでいた。私がドアの取っ手に手をかけた時、内側からそれが開いた。「さ あ、さあ、入らて」私は慌てて、自分は客ではなく貼り紙を見たのだと言った。

パーマのロット巻が一段落すると、ドアを開けてくれたのとは違 う方の人がやって来て、待っていた私の横に座った。まず名前を聴かれ、それから免許を持っているかと聴かれた。美容師になるには試験を受けて合格しないと いけないのだそうだ。私は免許を持っていないと答えた。今度は、どこかの店で働いたことがあるかと聴かれた。私は正直に、自分が中国から来たことと、メッ キ工場でずっと働いていたことを話した。店の人は、自分たちは姉妹でやっているのだと言った。ドアを開けてくれた人の方がお姉さんなのだそうだ。そして、 戦争で若い男は皆死んでしまったから、2人とも生涯独身だと笑った。けれど、空襲の中、家族は皆生き残ったから私たちは幸運だと、今度は真顔で言った。す ぐにまた笑顔になり、通信教育があるから、店で働きながら勉強すればいいと言ってくれた。

私は次の日から「サロン・ド・パリ」で働き始め た。免許がないので、パーマ液などには触らせて貰えなかったが、ブラシやロットを洗ったり、切った髪の毛が散在する床を箒で掃いたりした。洗うべきタオル が山のようにあった。洗い上がったタオルは屋上に干し、乾いたタオルはたたんでシャンプー台の横の棚にしまった。洗ったブラシは殺菌のために電気の通った 四角い箱の中に入れた。店が終わると、急いで家に帰って夕飯の仕度をした。肉じゃがやきんぴらなども作れるようになった。日本の食べ物は砂糖をよく使う。 私は砂糖の代わりに唐辛子やお酢で味付けをした。陽陽に習ったやりかただった。姉さまが満州の洋館にいた時のご飯を思い出すと言った。洗いものは姉さまが やってくれたので、夕飯を食べ終わると、直ぐに夕飯を食べた同じ卓袱台(ちゃぶだい)で勉強をした。

教材は毎週、東京から送られてきた。そ れをよく読んで、最後に練習問題をやって送り返すと、今度は赤い字で添削されたものが送られてくる。最初の頃は分からないことだらけだったが、店の人が やっていることをよく観察するうちに、練習問題を簡単に感じるようになった。学費は月に千円だった。 日本の物価からすると、そう高くはなかった。千円は 店から貰う給料で払うことが出来た。学費を引いた残りの半分を姉さまに渡した。残りの半分は貯金した。学費以外にお金がかかることがなかったので、貯金は どんどん貯まった。実技の練習にはマネキンの頭を使ったが、これは店の人が貸してくれた(家に人形の頭がゴロゴロあるのを姉さまは最初気味悪がったが、直 に慣れてくれた。姉さまは、慣れることで死なずにきたのかもしれない、と思った)。 家賃はないし、お昼ご飯は店の人が一人分余計に作っておくからそれを 食べるように言ってくれたので、これにもお金がかからなかった。

私は火曜日の休みの日には姉さまの働く花火の工場(こうば)へ遊びに行き、 細々としたことを手伝ったり、昼休みに工場の人たちの髪の毛を切らせて貰ったりした。工場の人たちは店のお客さんではなかったから、店の人に悪いこともな いだろうと思った。店には男性客が来ることはほとんどなかったから、男性の髪を切る練習にもなった。右腕さんの家に呼ばれて夕飯をご馳走になり、奥さんの 髪を切ったこともあった。右腕さんと同じ物静かな人だった。奥さんは彼女の父親がやっている豆腐屋を手伝っていた。色白で、手だけが豆腐を掬う冷たい水で 薄っすらと赤かった。

花火大会の日、私は奥さんと一緒に観に行こうと思い、店の人と少し遠回りをして豆腐屋に寄っ た。けれど、奥さんは困ったように微笑み、明日の店の準備があるからと言って来なかった。それで、右腕さんの親代わりとなった島峰さんと豆腐屋のご主人 と、右腕さんの3人のお子さんたちとゾロゾロと歩いて観に行った。

道すがら、島峰さんがおかしなことを言った。「花火を発明したのは中国の 人でしょう? 中国人は火薬を発明したのに鉄砲を作らないで花火を作っていたのでしょう? 大連から帰って来た人が言っていました」そういえば、初めて工 場へ連れて行って貰った日、右腕さんもそんなことを言っていたと思い出した。島峰さんは続けた。「私はその人とは、終戦直後、彼女が日本へ帰ったばかりの 頃に会いました。 大連で軍人と結婚したようですが、おとなしく、まだまだ少女のような女性でした。 大連で何が辛かったといえば、ご主人が中国の人に辛 くあたるのを見ていることだったそうです。 彼女自身は中国の人にとても親切にして貰い、実はご主人には内緒で中国語も少し話せるようになったらしいで す。 (そう、あなたのようにねと言い、島峰さんは嬉しそうに笑った)けれど、自分は夫に楯突くことなど恐ろしくて出来ずにいたと言っていました。戦争に 負けて日本へ戻るために大連の港へ向かう時、夫が中国の男性の腕を軍刀で切り落とすのを見たが、それでも声も上げられなかったと。返り血を浴びた夫の白い シャツの胸元が赤く染まるのをただ、黙って見ていた。ところが、その時に、十(とう)にもならないような日本人の女の子が、夫に食ってかかったのを見たそ うです。その子は切り落とされた腕を拾おうとさえしたけれど、膝が、怖さと、おそらく怒りで震えているのが、明るい月の光の下ではっきり見えたのを覚えて いる。そう言っていました」

そこまで話すと、島峰さんはしばらく黙った。私はその少女のような方は阿爸の右腕を切り落としたあのお方の奥さ まではないかと思いびっくりした。けれど、黙っていた。私たちの少し前を、豆腐屋のご主人と店の人たちが、3人のお子さんたちときれいな2列縦隊を作って 歩いていた。明るい月が川幅の広い大きな川に映っていた。6つのでこぼこの影が川に沿って彼らの少しあとを歩いていた。私が何も言わずにいると、島峰さん がまた続けた。「戦争は人を無口にしますね。良くも悪くも。この街の人もそうです。花火の音と光は空襲を思い起こさせる。けれど、誰もそのことを言わな い。黙って一人でじっと耐えている。花火は街の復興の証だから、怖くても我慢する。嫌だとは決して言わない」私は右腕さんの奥さんが花火を観に来ない理由 も空襲を思い出すからだろうかと思った。島峰さんが言った。「軍人に食ってかかった女の子だったら、きっと、怖いから私は観に行かない、と言うかもしれま せんね」

島峰さんがそう言うのを聴いて、突然、あの日、日本へ逃げ帰ろうとした日、お父さまのシャツの胸元にも、あのお方と同じ赤黒いシミ があったことを思い出した。あのお方のことを思い起こすことはあったのに、お父さまのシャツのシミのことはずっと忘れていた。あのシミの出来た理由を考え ぬまま、忘れてしまっていた。お父さまはその理由を、いつか誰かに聴いて欲しかったのかもしれない。そう願いながら、一方で、誰かに聴かれることを恐れ、 完全に無口になるために自殺をしたのかもしれない。島峰さんは私が何かを考えているのが分かるのか、そのまま黙っていた。私と島峰さんの少し後ろにも2つ の黒い影がついてきていた。私は、私たちとぴったりと歩調を合わせた影をしばらく見ていた。

陽陽(ヤンヤン)はもしかすると、どこかでお父 さまを、そして日本を恨んでいるのかもしれない。これまで、考えたこともなかったことが頭に浮かんだ。 陽陽もずっと 無口だったということか? 無口に なって行き場のなくなったその気持ちが日本へ行けと私を強く押したのか? 日本人であれ、中国人であれ、辛いこととは口に出せないものなのかもしれないと 思った。口に出さなければ、なかったことに出来ると人は思うものなのかもしれない。私は影を振り払おうと歩調を速めた。影もまた歩調を速め、頑なに私のあ とをついてきた。島峰さんは黙って、歩調を変えずに私の少し後ろをのんびりと歩いていた。島峰さんの影と私の影が離れた。お父さまのシャツの胸元のシミ は、永遠に消えることはないのだ。影のようにぴたりと私にくっついてくるのだ。私は、再び、島峰さんの歩調に合わせて歩いた。私の影はそれでいいとでも言 うように、島峰さんの影の隣に並んで歩き始めた。

その時、島峰さんが言った。「あ! あがった!」顔を空に向けると、白く大きな花が夜空に 咲いていた。次々にあがる大きな花火を観ながら、あのお方の奥さまは生きているだろうか? と思った。不意に、陽陽を日本へ呼ぼうと思った。 小説で読ん だ場所を2人で見て歩こうと思った。店の人たちのように、姉妹で美容室をやろうと思った。店の名前は「アカシア美容室」だ。陽陽と本のことを話して歩いた 道に立っていた大木、阿爸や阿媽や阿震と焼きまんじゅうを売った道に立っていた大木。あの木のように、白い花をふさふさと風にのせて街中に良い香りを運ぶ ような店にしようと思った。

「いらっしゃいませ!」そう言って開いたドアの方を見ると、かな子さんがニコニコ笑いな がら入ってきた。「カットお願いできますか?」と中国語で言った。我要剪頭髪。かな子さんは、私が日本へ最初に来た時からずっとお世話になっている残留孤 児をサポートする団体で、最近、ボランティアを始めた若い女性だ。 私はこの団体で、孤児の人たちには日本語を、ボランティアの人たちには中国語を教えている。かな子さんとも中国語教室で知りあった。 床をモップで拭いて いた陽陽が「あら、かな子さん、いらっしゃい。今日は私が切るわね」と答えた。

私は美容師の免許を取ると、一旦、中国へ戻った。 私が一緒 に日本へ行って住もうと言うと、陽陽は狂喜乱舞した。自分も美容師になると言って、私が使った通信教育の教材を熱心に勉強し、村中の人の髪を切った。陽陽 はある日、教材から顔を上げると、真剣な顔で言った。「教材は物語だ」哲学者みたいな言いかただった。教材を書いた人の物語が聴こえたのだそうだ。ハサミ の音が聴こえるのだそうだ。村人の髪を切る陽陽は、朗読劇をしている時のように幸せそうだった。

私は陽陽とともに再び日本へ渡った。永住帰 国をする予定だった。それで、姉さまのところではなく、就職口が多い東京へ住むことにした。陽陽は日本人ではないからと美容師の免許を取ることが出来な かった。 そのことについて陽陽は、「メッキ工場で私が出世する間、タケちゃんはずっとラインに座っていた。今、それと逆のことが起きている」と、興味深げにしてい た。そして、団体の人に何やら相談していたかと思ったら、横浜の中華街で、中国人でも無免許でも構わないと雇ってくれるところを見つけてきた。私たちはし ばらく横浜に暮らした。陽陽の働く店の2階に住まわせて貰った。2人とも、昼間は美容室で働き、夜は中華料理店で働いた。何年かして東京の下町の一角に小 さな美容室を開くことが出来た。中華街で世話になった人たちが、髪を切りに来てくれた。店の名前はもちろん「アカシア美容室」だ。これ以上、自分たちに ぴったりの名前はないと思った。

やがて、シャキシャキと小気味の良い音が店内に響き出した。陽陽のハサミがたてる音に重ねるように、かけっ ぱなしにしているラジオから何年か前に大ヒットした曲が流れた。河合奈保子という歌手が歌っていたものだ。陽陽が日本へ住み始めた頃に流行ったのだ。「け んかをやめて、2人をとめて、私のために争わないで、もうこれ以上」 陽陽が鼻歌まじりに歌った。かな子さんが言った。「これって、変な歌詞ですよね?  だって、けんかの原因はたぶん、《私》なのに」

私は、不意に、「ああ、そうか」と思った。けんかの原因は《私》なのだ。日本人と中国人が 争ったり、戦争が起きたりする原因は、誰でもない《私》なのだ。西向きの窓から沈みかけた太陽の光が差し込んでいた。ハサミを持った陽陽、椅子に座ったか な子さん、立って床を履く私の3つの影が幾何学模様のような黒いシミを床に作っていた。陽陽とかな子さんが、どうでもよいようなことを話しながら、ケラケ ラと笑い声を上げている。その様子を観ながら、 私の中の日本人と中国人が、2つの異なった人格として存在していた彼らが溶けて一つになっていくのを感じた。溶けていく気持ちの良さの中で、あのお方の奥 さまが生きていることを願った。陽陽の中の日本人と中国人が一つになることを願った。私は急に花火が観たくなった。花火大会を観に行こうと思った。陽陽 と、それにかな子さんと皆で行こう。そして、右腕さんの上げる花火を観るのだ。中国人も日本人も、シャツの胸元のシミも、阿爸の切り落とされた腕も、何も かもを包み、それでも大きく白く明るく光る花火を、観に行くのだ。

歌詞引用:

「けんかをやめて」September 1, 1982

作詞/作曲 竹内まりや

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ほさかひろこ Hiroko Hosaka / 小説書き、朗読者、指圧師見習い

短編小説を地道に執筆。詩や絵本、小説の朗読を行う。マラソンなど延々とする感じのことを好む。最近、家の猫が2匹になり、猫のことばかり考える日々を過ごす。bpnf1219@gmail.com

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田之上尚子 / 挿画家

ペンと水彩で、物語の世界を描く。絵本・エッセイ挿絵・ポスターイラスト等手がけたり、年に2、3回画廊やギャラリー、病院内で個展を開催。

音楽も好きで、長野県松本発バンド『有機幻燈』に所属し、パンデイロなどの、鳴物も勉強中。

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