Magazine
Nov 19, 2014

◯ ショートノベルズ 診察室

見知らぬ街

Text by Hiroko Hosaka & Illustration by Yurie

hiroko_nov

私は自分が「帰る」という概念を失った瞬間を覚えている。ある朝、何の前触れもなく、ふと思った。日本へ帰るキッカケを失ったと。その時に失ったの ではなく、その時には既にそれは失われていた。その瞬間「帰る」という感覚が分からなくなった。日本は帰る所ではなく、行くところになった。

瀬戸内海に面したその街に住むことになったのは、そこが沖縄みたいだったからだ。沖縄に行ったことはない。私が勝手に想像した沖縄だ。さとると沖縄 のどこかで鍼の診療所を開こうと話していた時、私の頭に浮んだのはまさにその街だった。気候が暖かくて、海がすぐ目の前にあって、平屋の家ばかりで空が大 きい。爺ちゃんと婆ちゃんと真っ黒に日焼けした子供がたくさんいる。いつでも、誰かしらが家の前でさんまやら何やらを焼いているから、野良犬や野良猫が周 りをウロウロしている。

爺ちゃんや婆ちゃんは予約もせずにやって来ては、日がな一日を診療所の前庭で過ごす。さとるは一人一人を丁寧に診るため、施術時間は余裕を持って設 定している。だから、予約をすれば待たされることはほとんどない。逆に、動けない人の家まで出向くこともあるから、いきなり来ても不在ということもある。 そのことをいくら説明しても爺ちゃんと婆ちゃんは不意にやって来る。そして、診療所の前庭で勝手にさんまを焼いている。その香ばしい匂いが診察室の中にま で漂ってくる。さとるがすごくいいことを思いついたみたいに言った。「僕の診療所はさんまアロマ!」2人で大笑いした。

さとるとは、私のバイト先のカフェで知り合った。海外生活が人生の半分近くになろうとしていた頃だった。彼はカフェの近くのクリニックで鍼師をして いた。朝とか、昼の妙な時間帯とかに(予約があいた時なのだろう)よくコーヒーを買いに来た。何度か顔を合わすうちに何となく話すようになった。店が暇な 時には、テーブルに座っていても咎められることもなかったので、日当たりの良い窓際の席でいろいろな話をした。さとるはカナダで生まれ育った日系の男の子 だった。日本語はほとんど問題なく話せたが、読み書きは下手くそだった。日本を強く意識しているみたいだった。問題なく話せるのに日本人の友達はそれほど いないみたいだ。

そのことは逆に私を安心させた。日本人です(或いはカナダ人です)と言うときのしっくりとこない感じが、さとるの中にもあることが私を安心させた。 私達は割合が少し違っているだけだと思った。さとるは60%カナダ人で40%が日本人。私は40%カナダ人で60%が日本人。そんな風に思った。

さとると話をするのは楽しかった。何度か一緒に出掛けたりもしたが、何となく出来た30分くらいの余った時間にカフェで話す時が一番楽しかった。大 体はさとるが話した。話が上手いとか、話題が豊富とかいうわけではなく、ただ、ポツポツと、淡々と話した。くだらないテレビ番組の話、子供の頃の話、別れ た彼女の話、鍼の話、哲学っぽい話。思いつきで話しているみたいだった。けれど、どの話も底のほうに薄っすらと悲しみがあった。黄色く悲しみが揺れてい た。会話というよりは、さとるが話すのを聴いているだけなのに、何故か、余った時間が終わる時には「さとると話した」という感覚が残った。たまに私が話し ても、さとるはほとんど興味を示さなかった。けれど、ここ! という時には必ず耳を傾けた。私の中心から出てきた話には、必ず、さとるの中から出てきた言 葉で接してくれた。自分の中心から出てきたことだけを話すのは骨が折れた。けれど、気持ちが良かった。さとるの話には、どんなにくだらないことの中にもさ とるがいた。

私はさとるに惹かれた。それは徐々にやってきたわけではなく、ある日、いきなり始まった。さとるは、細胞の一つ一つの中には、その生物全部のDNA が入っていると説明していた。膝や肘がおかしい時には、指の関節とか手首とか、似たような構造をした全く別のところをいじると治ったりするんだと言ったと きだ。私は、自分が船の舵を切ったのを感じた。ギーっという音とともに、目の前の風景が動いた。面舵いっぱーい! と耳もとで誰かが叫んだ。さとるは話を 続けていた。オレンジ色の秋の午後だった。

その日から世界が変わった。海外生活のほとんどを、つまり、人生の半分近くを一緒に暮らした人が戻ってくるのを願わなくなった。舵を切った瞬間、私 は自分がどんな風にそれを待っていたのか、さっぱり思い出せなくなっていた。見事としか言えない転換だった。しかしそれは、その人を忘れたというのとは 違った。その人とはもう日々を過せないことに対する悲しみが消えたというのとも違った。それは歴然とある。ただ、その悲しみに支配されなくなった。その悲 しみを横に置いて眺められるようになった。

私の生活はこんどはさとる一色になった。明けても暮れても、さとるのことを考えた。さとるが話してくれたことを丁寧に思い返し、吟味し、検証した。 その黄色い悲しみを自分の悲しみに混ぜた。さとるが話している間、私はほとんどコメントをすることが出来なかった。へーとか、ふーとか言っているしか出来 なかった。私は考えるのに時間がかかる。考えて分からなければ、そっとしておき、ふとした時に取り出してまた考える。何年もかかって考え続けていることを たくさん抱えていた。だから、さとるの話もゆっくりと考えた。そして、たまに、思ったことをメールに書いた。そういう時、さとるは、さとるにしては長く丁 寧に書かれた返事をくれた。

さとるの話の中で一番好きなのは、サーフィンの話だ。ハワイとか沖縄とかでサーフィンをして暮らしたいとさとるは言った。私がその日、ジャック・ ジョンソンのコンサートで買った青いTシャツを着ているのを見て、話したみたいだった。さとるがサーフボードの上に座って海に漂っていると、誰かが同じよ うに漂って来て、ハロー! と言って手を振る。さとるも、ハロー! と言って手を振る。話はそれだけだった。そして言った。「僕はそういう風に暮したい。 ただ、漂っていたい」私は少し前に、私の胸をいっぱいにした歌のことを思い出した。その朝ちょうど、シャッフルしたiPhoneで最初に流れてきた。I see friends shaking hands, sayin’ “How do you do?” They’re really sayin’ “I, I love you.” 友達が手を振って、元気かい? と言っている。君を愛してるよって言ってるんだ。ハワイにいなくても、沖縄にいなくても、さとるはきっと、そ んな風に手を振っているのだろうと思った。

ある日、野菜やら何やらを買って家に帰る途中、さとるが言った鍼の話を考えていた。それは、鍼の話というよりは、さとるが頑固でどの鍼の先生の話に も納得できないという、どちらかというと人生相談みたいな内容だった。そして、思った。その頑固で融通の効かないところがさとるのいいところだと。そうい うところが大好きだなと。すると、その瞬間、身体が一瞬ふわっと浮く感じがして、クリーム色に近い薄い黄色に包まれた。ものすごい幸福感があふれた。それ は、ほんの2秒か3秒のことだった。けれど、私の細胞の全てがまあるく柔らかくなるような感じがした。幸福感が消えた後も、しばらく動けなかった。買い物 の袋を両手に持ったまま、私はしばらく道端にたたずんでいた。ビルの合間に大きな太陽が沈んでいこうとしているのが見えた。

その日の夜、私は戸棚の中を整理した。別れた人の物が家中にあふれたままになっていた。長い月日をかけて、それらを少しずつ整理していた。戸棚から は、箱に入った書類が出てきた。カナダに移民して来た日に空港で提示した荷物リスト、最初に受け取った電気代の請求書、銀行通帳など。どれも古くなって紙 の色が変わっていた。そして、書類のはしっこや、クリップで止めた小さな紙きれに別れた人の書いたメモがあった。ミミズが這ったみたいな汚い字で、私のた めに書いてくれたメモがあった。あとからあとから出てくる彼の字に囲まれて私は泣き崩れた。息ができないほど、肩や胸がうねった。私は横に置いた悲しみを 眺めようとしたけれど、それは私の視界を覆い隠すくらいに大きく膨れ上がっていた。

その時、背骨の腰の辺りに何かが触った。丸く柔らかく暖かい何かが私の背中を支えていた。振り向いてみたが、そこには何もない。私は寝室の絨毯の上 に書類を広げ、その上に座り込んで泣いていたのだ。私を支えていたのは、さとるを好きだという気持ちだった。嗚咽の中で、さとるが好きだなと思った。その 気持ちがはっきりとした感触を持って私を支えていた。それ以来、その丸いものは度々現れるようになった。日々の中で、前が見えないほどに悲しみが膨れ上 がってくる時、それは、すーっと現れて私を支えた。背中を柔らかく、しかし、安定した強さで支えた。時々、そこからさとるの気配がした。

丸いものが現れてからしばらくして、さとるはカフェに来なくなった。さとるが消えてしまうと、丸いものは頻繁に現れるようになった。そして、時折感 じていたさとるの気配もどんどんと濃くなっていった。匂いがすることもあった。匂いは、なんでもなく家で夕飯を作っていたり、ベッドのシーツを変えていた りする時に、気配とともにふわりと漂ったりもした。さとるをも失った私は、丸いものとともに、機会があればやってみたいと思っていたことを次々とやり始め た。それは、アフリカのドラムだったり、フラだったり、お菓子作りだったりした。次々にお菓子を作ってはドラムやフラの人達に配った。友達が雪だるま式に 増えていった。人生が正しいほうに向いていると思えた。それでも、横に置いた悲しみはふとした隙を狙って膨れ上がった。しつこく、巧妙に。そのたびに、丸 いものが助けてくれた。さとるの気配が助けてくれた。

ある日、さとるからメールが届いた。こう書いてあった。

ほんの1ヶ月前、見知らぬ街にやって来た
小学校に近いアパート
八百屋さんとか、自転車屋さんとか、書道教室が近くにあって、結構便利なんだ
実は今でもたまに連絡が来る
返事をしたり、しなかったり
そうやってカボチャ色の毎日が過ぎて行くのを、幸せと感じる
それでいいって今は思ってる
小さな仕事も見つかった
新しい同僚はみんな、とてもよくしてくれる
だから、淋しくないのって聞かれると、淋しくないと言う

漢字がたくさん使われていて、文法的間違えもなく、日本の昭和みたいな風景が描かれていた。さとるが自分で書いたとは思えなかった。けれど、いつも そうだったように、その文章の中にもさとるがいた。黄色く悲しみが揺れていた。そして私は、見知らぬ街というのは、きっと、その辺の街なのだろうと思っ た。私のアパートから数ブロックくらいのところなのだろうと。目と鼻の先なのに、宇宙に浮かぶ星に行くより遠い街なのだろうと。さとるは自分の悲しみに私 の悲しみを混ぜたりはしないのだろうと。ただ一人で悲しんでいるのだろうと思った。私はさとるの丸いものにはなれないのだろうと思った。返信はしなかっ た。

その代わりに、さとるが鍼師をしているクリニックに予約をするふりをして電話をした。受付の人が出て、さとるは長期の休暇を取っていると教えてくれた。いつ戻りますか? と聴くと、分からないと言われた。さとるは見知らぬ街へ行ってしまったようだった。

その街へは、私一人でやって来た。スーツケース一つに大きめのバックパック。初めて日本を出た時と同じだった。まさか一人で来ることになるなんて 思ってなかった。さんまアロマの話をしていた時、さとると一緒に行くんだったら楽しいだろうなとぼんやり思っただけだった。一緒に行って、さとるが鍼の治 療をしている間、私はそこで何をすればいいだろうと思っただけだった。

その街は友達の嫁ぎ先から電車で一時間ほどのところにあった。見知らぬ街にいるさとるからメールが届いた日、彼女からの暑中見舞いの絵葉書が郵便箱 に入っていた。エスカレーター式の女子校で中学のときからずっと一緒だった。高一のときに同じクラスになり、仲良くなった。短大の卒業旅行でヨーロッパに いっしょに行った。バックパックもどきのその旅行が楽しく、それ以来私はちょくちょく旅に出るようになった。カナダに住むことになったのは、そのためかも しれない。その子は随分前に結婚して瀬戸内海の近くの街に住んでいた。私は彼女とはぽつぽつと連絡を取り合ってはいたが、嫁ぎ先を訪ねたことはなかった。 私も見知らぬ街へ行ってみたくなり、彼女に都合を確認した後、バイト先から休暇を貰って訪ねに行った。

滞在して2、3日たった頃、せっかく瀬戸内海がすぐ近くなのだから海を見に行こうと友達が言った。彼女の家は、海からは少し離れた中心地にあった。 それで、小さな電車に乗って海沿いの小さな街にやって来た。その街は、さとるが診療所を開くはずの沖縄の街と瓜二つだった。気候が暖かくて、海がすぐ目の 前にあって、平屋の家ばかりで空が大きかった。爺ちゃんと婆ちゃんと真っ黒に日焼けした子供がたくさんいた。野良犬や野良猫がウロウロしていた。ただ、さ んまを焼いている人はいなかった。私は、この街で診療所を開こうと思った。そして、さんまを焼こうと思った。砂浜に腰を下ろして、友達に事情を説明した。 離婚のこと、さとるのこと。彼女に私が離婚したことを話してなかったので、大分びっくりしていたが、住む場所を探しておくと受けあってくれた。私は飛行機 の予約を変更し、早々とカナダのアパートに帰った。

帰るとすぐにバイトを辞めた。家具は手あたり次第に知り合いに連絡して引き取って貰った。服やらの荷物はそれほどない。ただ、本が大量にあった。ど うしても手元に置いておきたい何冊かを郵便で瀬戸内海の友達の家に送った。あとは全て図書館に寄付した。別れた人が車を出してくれた。その車には、私が苦 労して少しずつまとめた彼の置きっぱなしの物も載せた。あれほど苦しくて出来なかったことがあっさりと片付いていくことに驚いた。

友達が探しておいてくれた家も平屋で、ちゃんと前庭があった。台所と畳の部屋が3間あったので、一つは寝室、一つは居間、もう一つを診察室にした。 居間にした部屋には大きな木の机が置いてあった。友達が、ふとん一式と簡単な料理が出来るくらいの調理器具を提供してくれたので、すぐに日常生活が始まっ た。診療所を開いたと言っても、私は何の免許も持っていない。私のテキストはさとるが書いた20頁ほどの論文だった。それはさとるが考えたリハビリテー ションのプログラムだった。前半には、東洋医学に対するさとるの哲学が書いてあった。後半は、身体のゆがみを見つける方法、ヨガを取り入れたゆがみを整え るためのプログラムが組んであった。論文の大きなテーマは、身体の基本的なメカニズムを理解し、時間はかかっても、自分で身体を治すことが出来るというも のだった。さとるが英語で書いたものを私が日本語に訳したのだった。その論文を繰り返し読んだ。訳している時に質問をしたことのメモを繰り返し読んだ。訳 すにあたって習いに行って覚えたヨガを毎朝やった。

家の前庭に転がっていた自転車を、近所に見つけた自転車屋に持って行って直して貰った。論文を読んだリ、ヨガをしたりする以外の時間には、それに 乗って八百屋に行って買い物をし、その帰りに小さな小学校の校庭で遊ぶ子供を眺めて日々を過ごした。そのうちに、そこで会う人々と言葉を交わすようになっ た。八百屋でよく会う山本さんちの男の子がある日、お母さんからと言って煮物を持ってきてくれた。小学校の校庭で見たことのある子供だった。私は、お礼に 返すものがなかったので、診療所をやっているから、必要があれば、家の人にいつでも来てくれるよう、男の子に伝言を頼んだ。

次の日、山本さんちのお婆さんがやって来た。煮物を運んでくれた男の子と一緒だった。私は診察室にした部屋にお婆さんを通した。男の子は勝手に居間 へ行き、大きな机の前で足を投げ出して座った。そして、肩にかけていた袋から宿題を出してやり始めた。私は男の子に麦茶を出してあげてから診察室に戻っ た。出しっぱなしになっているヨガマットの上に洗いたてのバスタオルを敷いた。お婆さんが横になり、私はさてどうしようかと思った。お婆さんにいきなりヨ ガをやってもらうわけにもいかず、どこか痛いのか聴いてみた。腰が痛いと言う。私はお婆さんの腰の辺りを手で擦ってみた。すると、背中のほうでぼうっと光 るところがあるのに気がついた。同時に、久しぶりにさとるの気配がした。かなりはっきりとした気配だった。丸いものが出てきて、私の肘のあたりを押した。

私がぼうっと光るところに手を持っていくと、気配がさらに濃くなった。懐かしいさとるの匂いがした。私は、光るところを親指でそっと押してみた。す ると、お婆さんが「あんた、細っこいのに力があるねえ」と言った。「ズーンと腰の辺りに響いたねえ」私はビックリした。押したのは、肩甲骨の下あたりで、 それも、押したというより触っただけなのだ。「そうですか。良かったですね」と、私はよくわからないことを言った。すると、今さっき押したところから腰の ほうへ向かって、池に泳ぐアメンボが描くように、光の輪が幾つも浮かんだ。私は、その光を追いかけるように、輪の真ん中を親指で押していった。押すたびに お婆さんは、あーとか、うーとか言った。やがて、光が出なくなった。「はい、今日はここまでにしましょう」と私は言った。お婆さんは大変満足してくれた。 そして、宿題をほったらかして新聞広告の裏に飛行機の絵を描いていた男の子を連れて帰った。

次の日、山本さんちのお婆さんは、佐藤さんちのお婆さんと高橋さんちのお爺さんを連れてきた。佐藤さんちのお婆さんからも高橋さんちのお爺さんから も光の輪が出た。親指で押してみると、励ますように丸いものが私の背中をぐっと押した。その次の日には、佐藤さんちのお婆さんが自分の家のお嫁さんを連れ てきた。高橋さんちのお爺さんは息子さんを連れてきた。そういう風にして、ポツポツとお客さんが来てくれるようになった。

診察料を決めていなかったが、人々は勝手に値段をつけてポチ袋に入れて置いていってくれた。千円だったり、五千円だったりした。お金を置いていけな い人は、野菜やお米や昨夜の夕飯の残りを持ってきてくれた。お中元で貰ったらしいサラダ油やビールやゼリーのセットというのもあった。私の台所にはいつで も食べ物や飲み物が溢れ、買い物をする必要はほとんどなくなった。家賃や新聞代や水道代はポチ袋に入ったお金で賄えた。

山本さんちの男の子はその後もよくうちに来た。用事がなくてもやって来た。そして、居間の大きなテーブルで宿題をやったり、やらずに絵を描いたり、 本を読んだりした。診察室のお客さんがいなくなっても帰らずにいることも多く、よく一緒に夕飯を食べた。山本さんちは、家族でお好み焼き屋をやっており、 店が忙しいと一人で夕飯を食べることもあるらしかった。そのうち、山本さんちの近所の書道教室の家の女の子や、そのまた近所の村上さんちのふたごも来るよ うになった。彼らが私の家の大きなテーブルで食べている夕飯が、その前の日に家の人が持ってきてくれたものだったということがよくあった。私は、そうやっ て、少しずつ、さとるの診療所の街に馴染んでいった。毎日がカボチャ色に過ぎていった。

ある日、海岸へ散歩に行った。途中に小さな雑貨屋があり、虫撮りの網や麦わら帽子や浮き輪に混じってサーフボードが売っていた。海と夕焼けと3人の サーファーの影が輪郭のぼんやりした感じで描かれていた。半分おもちゃみたいなボードだったが、ただ漂っているには充分そうだった。私はボードを買った。 海岸には、ポツポツと人がいた。ほとんどが地元の人だった。知り合いの何人かに挨拶をすると、Tシャツとホットパンツという格好のまま、今さっき買った ボードを持って海に入った。瀬戸内の海は穏やかで、波がのんびりとやって来ては、去って行った。私は、海岸の人々や波打ち際で遊ぶ人々を眺めながら、しば らく海の上を漂っていた。時々、雲一つない空や遠くに浮かぶ白いヨットを見たりした。空がだんだんと近づいてきた。波打ち際に遊ぶ人々が遠くなっていっ た。

ふいに、「ハロー」という声が聴こえた。声のほうへ振り向くと、さとるがいた。私と同じようにサーフボードに座って漂っていた。私も「ハロー!」と 言った。さとるはニコニコと笑っていた。私も笑った。2人でニコニコしながらしばらく漂っていた。すると、海の下の方で何か大きな丸いものが動いている感 じがした。丸い形を自由に変えて、サーッ、サーッと機敏に動いている。ボードに腹這いになって海に顔をつけてみると、丸いものはさんまの大群だった。もの 凄い数のさんまがひと塊になって泳いでいる。さとるに教えてあげようと顔をあげると、そこはさんまの群れの中だった。私を乗せたボードはさんまの群れの中 で、彼らの呼吸に合わせて動き回った。私はスイミーみたいに、巨大なさんまの目になって、海の中を泳いでいた。さとるはどこだろう? と探すと、私のすぐ 後ろで私のボードに一緒に座っていた。そして、私の背中を支えていた。

私達はしばらく、さんまと一緒に海の中を泳いだ。さんまになってしまうと、その機敏な動きがゆっくりに思えた。周りのさんまの次の動きを感じること ができた。どうして、それが分かるのか分からなかった。ただ、思うままにボードの舵を取っていると、それはさんまの動きと連動するのだった。そのうち、大 きな一つのさんまが2つの小さいさんまになった。さとると私を乗せたボードはあっちのさんまになったり、こっちのさんまになったりした。やがて、何故、さ んまがそのように泳いでいるのかが分かった。クジラがやって来たのだ。ふたてに別れることで、私達を飲み込もうとするクジラを躱しているのだ。さとると私 は、その必死のさんまの動きに合わせた。ただ、気持ちを合わせればよかった。ただ、さんまになってしまえば、舵など取らなくても、ボードがしなやかに泳い だ。私もさとるもさんまになった。そして、クジラに飲み込まれた。

クジラの口の中へ海水ごと流されていく時、大きな一つのさんまが大量の小さなさんまになった。クジラの大きくあいた口から青い空が見えた。そのま ま、胃まで流されていった。にゅるっとした感触の広いものにあたり、 私はボードから振り落とされた。次から次へと流れてくるさんまがバコバコと身体にあたった。やがて、何も流れてこなくなった。しばらく浮いていると、暗闇 に目が慣れてきた。大量のさんまが海水で薄まった胃液の中に浮かんでいた。さとるを探した。さとるの名前を呼びながら、冷たい洞窟のようなクジラの胃の中 を泳いだ。さんまを掻き分けて泳いだ。

しばらく、バシャバシャやっていると、さんまとは違う感触に触った。懐かしい化学繊維のツルっとした感触だった。すかさず掴むと、にゅーっとさとる の顔が私の顔の前に現れた。私達は黙ったまま、手をつないで、さんまにまみれてクジラのお腹の中に浮かんでいた。時々、さんまの跳ねる水音があたりに響い た。気がつくと、さとるの履いていた化学繊維で出来た水着が水面に浮いている。さとるは半分くらい溶けていた。自分の身体を見ると、やはり溶け始めてい た。コットンのTシャツの袖のあたりが溶けて繊維が肩の骨にへばりついている。つないだ私とさとるの手は一つの棒になっていた。溶けたさんまがひっつい て、鍾乳石のタワーがあちこちに出来ていた。鍾乳洞のようになったクジラの胃の中をさとると私は泳いだ。私達も身体のほとんどが溶けて一つの鍾乳石になり かかっていた。泳いでいると、溶けたさんまがひっついてきた。私とさとるの鍾乳石のタワーは大きく立派になった。私の意識の中にさとるの意識がどんどんと 入ってきた。私が考えているのか、さとるが考えているのか、分からなくなった。そのうちに、さんまの意識も入ってきた。それは意識というよりも海の音のよ うなものだった。私とさとるの意識と海の音が混じり合い、それもまた溶けていった。鍾乳石のタワーがあちこちで崩れ、クジラの身体のさらに奥へと流されて いった。

真っ暗なしんとした中に私はいた。私の中に、真っ暗なしんとしたものを感じた。私もさとるもさんまもクジラになって私の中の大海原を泳いだ。クジラが飛び跳ね、潮を拭き上げた。海面が大きく波打ち、頭の先から足の先まで振動が流れた。潮の匂いがした。

振動で目が覚めた。私は診察室のヨガマットの上で眠っていた。Tシャツとホットパンツを着たままだった。身体中に塩がついていた。立って縁側へ出る と、雑貨屋で買ったサーフボードが立てかけてあった。真ん中で真っ二つに折れている。時計を見ると、午後2時だった。この時間だと、大抵、誰かしらやって くるので、しばらく待ってみたが、その日は誰も来る様子がなかった。私が寝ている間に誰かが七輪を持ってきて、さんまを焼いたみたいだった。食べ残しを黒 い野良猫が食べていた。

私はあきらめて、携帯と財布だけを持って外へ出た。自転車をのんびりと漕いだ。街中がしんとしていた。八百屋も自転車屋も閉まっている。小学校の校 庭に遊ぶ子供もいない。山本さんちの近所の書道教室にも行ってみたが、いつもは教室の前に何台か止めてある子供用の自転車が一台もなかった。私は通ったこ とのない道に入ってみた。適当にあちこち漕いでみたが、どこもかしこもしんとしている。人どころか犬も猫もいない。しばらく行くと坂道に出た。ゆるやかな 坂がどこまでも続いていた。私は立ち漕ぎをしたり、ときどき降りて自転車を引いたりしながら坂道を登った。右手にずっと海が見えていた。

坂道がやっと終わると、そこには墓地が広がっていた。海がサーっと開けて見えた。私は自転車をその辺の木の根本へ置き、柵を越えて墓地に入った。一 つ一つのお墓を見て回る。山本、村上、高橋というのが多い。そのうちのどれかは、指圧に来てくれる人々の先祖なのだろうか? などと考えながら歩いた。蓼 丸というお墓があった。さとるの苗字は蓼丸だ。ふと、側面に書いてある埋葬者の戒名を見てみた。7人のが彫られていた。一つ一つ読んでいくと、知(しる) という文字が目に入った。さとる? 享年34とある。さとるは34歳だ。心臓がびくんと音を立てた。しかし、没年が昭和32年となっているから、さとるで あるわけがなかった。私は自転車を根本へ置いた木のところへ戻った。そして、自転車を起こしながら不意に思い出した。さとるが以前、両親は中国地方の出身 だと言っていたことを。確か、父親の親戚に産婦人科をやっている人がいると言っていた。いつか鍼の論文を書いたら、その人に頼んでどこかに発表したいと 思っていると言っていた。私は急いで自転車にまたがり、長い下り坂をほとんどブレーキを踏まずに駆け下りた。

坂道を降りると、また適当に漕いでみたが、思った以上に道が入り組んでいるようで、元の道になかなか戻ることができない。街は相変わらずしんとして いる。夕日が沈み始めていた。しばらく漕いでいると、ポツンと灯の漏れている家があった。近くへ行くと、カフェのようだった。お腹が空いていることに気が つき、中に入った。誰もいない。すいませんと声をかけるが誰も出て来ない。どうしようかと思うが、オープンの看板が出ていたからそのうち帰って来るだろう と待ってみることにした。帰り道も聴かなくてはならない。

こじんまりとした店内には入口のドアと垂直にカウンターが伸び、その奥にキッチンがあった。テーブル席は4つほどで、どれも微妙に違った木のテーブ ルにさまざまな形と色の椅子が置いてあった。壁際には本棚があり、小説や絵本や雑誌が雑多に置いてあった。何冊かはディスプレイのように表紙を正面にして 置いてある。一冊、真っ黒い背景に子供の姿が版画のようなタッチで描かれた本があり、目についた。手に取ってみると、詩集みたいだった。ぱらぱらとめくっ ていると、一遍の詩が目にとまった。見知らぬ街という題名の詩だった。

その詩は、丸いものが現われて間もなくして消えたさとるがメールしてきたものと全く同じ内容だった。私は携帯でさとるからのメールをチェックした。 受信Boxの大量のメールに紛れてはいるものの、それほど多くはないさとるのメールの中から、そのメールを探すのはそれほど大変ではないと思った。しか し、検索してみても、メールが届いたころのものを一つ一つ確認してみても、探し出すことができなかった。それどころか、さとるからのメールは一つも見つけ ることが出来なかった。

茫然としながら携帯から顔を上げると目の前に人が立っていた。と同時に、急にいろいろな音が耳に入ってきた。店内には何組かの客がいて、彼らの話し 声が小さな喧騒を作っていた。キッチンからは何かを炒めているおいしそうな音が流れてくる。目の前に立っているのはお店の人みたいだ。エプロンをしてい る。その女の人は私に空いている窓際の席を薦めると、透明なグラスにピッチャーから水を注いでくれた。大きめの氷が2つ、涼しい音を立ててグラスの水に落 ちた。

お店の人は注文を取るかわりに、ピッチャーをテーブルに置いて、私の手から詩集を取った。そして、言った。「この詩集を書いた男の子はカイくんと いって、ローズちゃんとわたなべさとこちゃんという2人の女の子と3人で朗読のショーをやるの。ウクレレ弾いたりして面白いわよ。もう少しすると、今夜も 彼ら来るけど」私は待ってみますと言って、テーブルの上のお薦めメニューからクラブサンドイッチとコーヒーを注文した。窓の外はすっかり日が暮れていた。 しばらくぼんやりと暮れた日を見ていた。Tシャツとホットパンツという格好では少し肌寒かった。秋が始まろうとしているのかもしれない。私はお店の人に羽 織るものを借りようと席を立った。その時、店のドアが開いて男の子一人と2人の女の子が入ってきた。その背後に蓼丸産婦人科という看板が見えた。同時に携 帯が振動してテキストが入ってきた。山本さんちの奥さんからだった。お婆さんが腰を痛めてしまったので、今から指圧して貰えますか? と書いてあった。私 は「今、出先ですがすぐ戻ります」と返信した。慌ててカウンターへ行き、さっきの女の人に注文したものを包んで貰えるか聴いた。朗読はまた今度聴きにきま すと言った。女の人は、いつでもいらっしゃいと、ちょうど出来上がってきたサンドイッチを包んでくれた。

店のドアを開けて外に出た。蓼丸産婦人科の看板がさっきよりもはっきりと大きく目の前にあった。慌てた感じのスーツ姿の若い男の人が走ってきて病院 のドアを開けた。その瞬間、おぎゃーという声が聴こえた。その男の人と私は同時に「あ!生まれた」と言った。そして、顔を見合わせて、ニコニコと笑いあっ た。男の人は頭を軽く下げるとドアの中に消えた。彼が病院の中に入ってしまうと、私は自転車のライトをつけて漕ぎ始めた。帰り道を聴くのを忘れたと思っ た。まあ、いいかと思い、適当に漕いで角を曲がると、山本さんちの男の子が通う小学校が見えた。私はほっとして、大急ぎで家に帰った。帰り道、ふと、明日、指圧の学校を探してみようと思った。

歌詞引用:

「Somewhere Over The Rainbow / What A Wonderful World」
Israel Kamakawiwo’ole
From Album 「Facing Future」1993 Bigboy Record Company
訳 筆者

詩引用:
「見知らぬ街」
高山宙丸
From 「月とブランコ」2014 Matsumo Publiko

 



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Hiroko Hosaka / ライター、朗読者、指圧師見習い

会社員をするかたわら、短編小説など執筆。詩や絵本、小説の朗読も 行う。現在、ポエムドロイズオンリーのメンバーとして詩の朗読をしている。タオ指圧を勉強中で、ドネイションベースで指圧を行っている。興味のあるかたは 本人まで問い合わせください。タオ指圧は気の流れを良くし、自らの身体の力で治っていくことを目的とした指圧。bpnf1219@gmail.com

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Yurie  / イラストレーター

ポートレートを描くときはお客様とその対象との関係性、背景にあるストーリーをヒアリングしてか ら描いています。そうすることでお客様の目を通して感じることができ、お客様が愛するように対象をとらえることができるからです。イラストでしか表現でき ない空気感を大切に描き続けています。
☆ポートレートのお問い合わせはyuriehoyoyon@gmail.comまで。”Cradle Our Spirit!”を見て、と書き添えて下さい。

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