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Jan 19, 2015

◯ ショートノベルズ 診察室

兄の診察室

Text by Hiroko Hosaka & Illustration by Yurie

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まただ。数字が飛んでいる。コース沿いに設置された走行距離を示すボードには24キロと書かれている。さっき(感覚的には数分前)21キロを過ぎ、 ハーフだったらここがゴールだなと思いながらタイムを確認した。腕時計を見ると、その時から20分弱経過している。確かに3キロ走ったということだ。コー スを間違えたわけではない。

ボードは一キロごとに設置されているはずだが、22と23を見た覚えがない。13と14も見ていない。16と17も見なかった。たぶん、見逃しただ けだ。そういうことはあるだろう。けれど、私のようなのんびり走る市民ランナーが3キロを飛ぶように感じ続けるなんてことがあるのだろうか? これがラン ナーズハイと呼ばれるものだろうか? そうだ、きっとそうだ。私はハイの状態なのだ。そのほうが都合がいい。あと18キロ。このままハイが続けばいい。

見上げると、27キロのボードが見えた。

 

ドアノブに手をかけると、ドアが内側へすっと開いた。20代そこそこの、アジア系の茶髪の男の子が立っていた。バンクーバーの夏の青空みたいな、無 邪気な青と白のボーダーのフーディーを着ている。クタッとしたジーンズ、白いスニーカー。「はじめまして」と日本語で言って、彼は右手を差し出した。一 瞬、その右手の意味するところが分からなかったが、ああそうかと思い、私も右手を差し出した。男の子は意外に強い感じで私に握手をすると、中に入るよう顎 をちょっと上げる仕草をした。そして「まだ少しかかるから、待っている間にこれ書いといて」と、問診票を差し出した。それから、奥に伸びた長い廊下を通っ て、3部屋ある診察室の一つに入って行った。あの人は誰なんだろう? と思った。

何人かでクリニックをシェアしているようだ。受付に何種類かの名刺が置いてある。カイロプラクティック、鍼、マッサージに指圧。よりどりみどり。幾 つもの免許状が額に入って壁にかかっている。別の一面は天井から床まで棚になっており、ぎっしりとカルテが納められている。受付には誰もいない。2つの診 察室のドアが開いている。閉まっている診察室から(さっき、男の子が入っていった部屋だ)時折、微かに人の声が漏れてくる。それ以外には人の気配がしな い。

ああ、それでかと思う。ビルの入口が閉まっていたのでブザーを押した。初めての患者が誰もいない受付で不安にならないように出てきてくれたのだ。ク リニックで、まさかドアマンがドアを開けてくれて、握手まで求められるとは思っていなかったから、さっきはビックリした。今日は日曜日だ。ビル全体が静ま りかえっている。

いや、そんなことよりも、つまり、あの妙に愛想の良い男の子が先生だということか? 日曜日もやっているお金のないインターンとか? 大丈夫かな?  と不安になる。それに、今日は4月1日じゃなかったか? 嫌な感じがする。フルマラソンの大会はもうすぐだ。青天の霹靂みたいにランニング途中でいきな り襲ってくる左のふくらはぎの激痛は、なんとしても消して貰わなくてはならないのだ。20キロを過ぎたあたりで、突然やってくるあの痛み。つるのとはまた 違った奇妙な痛み。速度を落としたり歩いたりすればすぐにやわらぐ。よくストレッチをしておくと、翌朝には何でもなくなってしまう。でも、ここ数回の長距 離練習では毎回襲ってきた。そんなものを抱えたまま、42キロを走りたくない。

問診票の最後に「痛みのあるところに印をつけてください」とあって、裸の王様みたいなぼーっとした人間の裸体が描いてあった。私は、王様の左のふくらはぎにボールペンで何重ものうずまきをぐるぐると描いた。そして、矢印を引き、HERE!!! と書き加えた。ここ!!!

ふーっと息を吐いたところで、診察室のドアが開いた。男の子が出てきて、私に「お待たせ〜」風な笑顔を向ける。彼の後ろから出てきたのは、重量挙げ の選手みたいに大柄な、白人系の男性だ。男の子は、後ろを振り返り振り返りしながら、英語で何やら熱心に説明している。英語だと少し大人っぽく見える。支 払いの間も説明は続いている。家でやるストレッチの方法を再確認しているようだ。大男は彼の話に熱心に耳を傾けていた。男の子がようやっと「Good Luck!」と言い、男がさっき私と男の子が握手を交わしたドアから出て行った。Good Luck! 頑張って!

男の子が私に顔を向けると、大男に対して出していた威厳はきれいに消えていた。「はーい、こちらへどうぞー」と言いながら、ちらっと私の服をチェッ クした。「着替える? 何色がいい? ピンクか、グリーンがあるけど」と、廊下の壁の棚から、割烹着みたいな形の薄いコットンの服を取り出して私に差し出 した。私は「いつも着ているランニング用のウェアを持ってきました。シューズも」と言った。「ランニングで怪我したの?」と言いながら、カルテを確認す る。ぐるぐるのうずまきがすぐに目についたようで「左のふくらはぎね。僕は、スポーツが専門なんだ。シューズもあるんなら、後でフォームもみてあげるね」 と嬉しそうに言い「着替え終わったらドア開けて」と腕に抱えていた割烹着の山を棚に戻した。

診察室に入ると、街なかでよくかかっているヒットソングが聴こえてきた。ジェームス何とかいう人の「ユーアービューティフル」だと思う。人混みの中 ですれ違った女の人に一目惚れしてしまう男性の歌。正面の本棚に置かれたラジオが有線か何かに合わせてあるようだ。大通りに面した窓が開け放してある。街 の雑踏が聴こえる。誰かがクラクションを鳴らした。受付のしんとした感じとは全く違う。騒々しい診察室。でも、窓が大きく、やわらかな光が差し込んでいて 気持ちがいい。埃がきらきらと舞っている。

ラジオの前には、金色の蓮の花の置物が置いてある。すぐ下の段には、何冊かの分厚い本。ヨガに鍼に、何か骨関連のもの。棚のすぐ横の壁にカラフルな 布で縁取りされた仏さまの掛け軸がかかっている。仏さまの全身が青い。チベットかネパールか、その辺りで買ったものだろうか? 掛け軸の横にはさらに免許 状が数枚、そして、どこかの国の山の絵。雪をかぶってはいないが、富士山に似ている。

反対側の壁には、宇宙か何かを描いた水彩画。その横に黄色の小さな掛物。ダライラマの言葉。平和について。診察台の横にキャリーのついたサイドボー ド。鍼やカップリング、テーピング、フィットネス・ラバーバンド、テニスボールなどがごちゃごちゃと置いてある。部屋の隅に置かれた机の上には、背骨と骨 盤だけの骨格標本。クリニックをシェアしている各人の人生観が入り混じった部屋。騒々しい診察室。

着替え終わり、診察室のドアを開けると、まもなく、男の子が部屋に入ってくる。と、ちょうど、ラジオから流れてくるヒットソングがサビに入った。 「You’re beautiful, it’s true」男の子が合唱した。ラジオ局の選択は彼の人生観によるもののようだ。

男の子はまず、診察台の上に私を仰向けに寝かせ、シットアップみたいなことをやらせた。次にうつ伏せにさせ、脚を扇を開いたり閉じたりするみたいに した。男の子が小声で「びよ~ん」と言ったような気がした。それで「何をしているの?」と聴くと、身体の歪みをチェックしているのだと言う。そのような調 子で、言葉で描写するのが難しいヨガのようなそうでないようなありとあらゆるポーズを取らされた。その度に、身体のあちこちを圧したりつついたりし、ふく らはぎの痛みがどうなったか聴いてくる。

「まるで人体実験みたい」と言うと、憮然として「君は人体実験なんかじゃない。僕は、自分の診断結果を信じ過ぎたくないだけだ。身体の反応を繰り返 し観察することで、痛みの大元を探す」と、急に真面目になった。そして、奇妙なポーズを続けて取らされた。有線放送では、スティングがちょうど「デザート ローズ」を歌い始めた。ポーズと妙に合うなと思っていると「BGMはたまたまだよ。だって、ラジオだから。僕が選曲したんじゃない」と、本来の調子に戻 り、見透かしたようなことを言った。

その後、クリニックの入口に鍵をかけ、地下の駐車場へ行った。ランニングのフォームをみて貰うためだ。駐車場に入るのにカードをスキャンする。男の 子がジーンズのポケットから財布を出してカードを取り出したときに、ちらっと、図書館のメンバーズカードが見えた。黒地に青と赤と黄色でVPLと書いてあ る。Vancouver Public Library。バンクーバー中央図書館。一番手前の、一番取りやすいところに図書館のメンバーズカードが入っている財布。この人はどんな本が好きなのか な? と、ふと思った。意地悪なもの言いばかりして悪かったかな、と思った。

駐車場へ降りて、閑散としたコンクリートの箱の中を走らされた。突き当りの壁まで行って戻ってくると、男の子が言った。「フォームはそんなに悪くな い。でも、もう少し背を伸ばして、身体ごと走るようにすると、もっと楽だし、速くなる」そして、手を伸ばし、ニコニコしながら私の頭をぐるぐる回して「あ とね、この辺が緊張してる。リラックスして。楽しんで走って」と言った。

どこか懐かしい感じがした。

診察の結果、私の身体はランナーとしてまずまずOKということだった。完璧ではないにしろ、必要な筋肉はついている。身体もそれほど歪んではいな い。そして、それも調整した。「だからね、42.195キロ。君は走れると思うよ」と男の子が私を励ますように言った。「痛みが出たら左肩を心持ちあげる ようにしてみて。なんせ、時間がないからね、これだ! って診断は出来ないけど、疲れてくると、君は左肩が下がってくる癖があるかもしれない。それで、左 足に負担がかかっているのかも。走る時には、そこを注意して」と言った。

その時、ふいに、診察室の中が黄色くなった。ふんわりとしたクリーム色に近い黄色。靄がかかったみたいだ。そして、さっきの懐かしい感じがまたし た。前にこんなところにいたなあという感じ。戻りたいなあと思った。戻ろうかなあと思った。男の子が説明を続けていた。大きな窓の外で、誰かがまた車のク ラクションを鳴らした。

 

コースは静かな森の中に入り、道路は上下線一本ずつの2車線になった。沿道の声援がどんどん後ろに遠ざかっていく。ランナーはかなりばらけていて、 近くを走っているのは前方に2、3人の固まり、右手の少し離れたところに一人。あとは遠くのほうに小さく見えているきりだ。左右は深い森。昨夜降った雨が 残っているのか、森の空気はひんやりと湿っている。息が吸いやすい。深呼吸してみる。自分の息の音がすぐ近くで聴こえた。自分の息の音しか聴こえなかっ た。しばらく、それを聴きながら走った。

だんだんと息の音がくぐもって聴こえてきた。息にかぶせるように、頭の中でうわあん、うわあんと何かが鳴っている。頭を叩いてみた。治らない。耳鳴 りだろうか? しばらく走った後、私はそっとスピードを上げて、前方の3人に近づいてみた。うわあん、うわあんは大きくなるばかりで、誰の息も聴こえな かった。

その時、左のふくらはぎに違和感がした。違和感はすぐに痛みに変わった。今さっき、スピードを上げたのがいけなかったのか? 20キロはとっくに過 ぎていたから大丈夫と油断したかもしれない。パニックになった。うわあん、うわあんが更に大きくなる。完全なる耳鳴りだ。ふくらはぎの痛みと耳鳴りで世界 が覆われたみたいになった。

すぐにスピードを落とした。慎重にゆっくりと走る。そして、兎に角、何か音を耳に入れようと思った。静かすぎるのだ。そう思って、いつもは聴きなが ら走っている音楽を今日は聴いていないことに気が付いた。イヤフォンを付けたままでiPod nanoのスタートボタンを入れていない。私はイヤフォンに付いているリモコンを押した。「ユーアービューティフル」が流れてきた。しばらく聴いている と、あたりが黄色くなった。森から煙が出てきているみたいに、靄がかかったようなやわらかな薄い黄色になった。気持ちがよかった。そして、思い出した。そ れがクリニックの診察室でかかっていた曲だったことを。ふくらはぎに男の子の暖かい手の平を感じた。

そうだ、彼が何か言っていた。黄色の靄の向こうで。何と言っていたっけ? 左肩。そう、左肩。「痛みが出たら左肩を心持ちあげるようにしてみて」彼は確か、そう言った。私は、気が付かないうちに斜めに前かがみ気味になっていた上半身を起こした。

 

実家は東京の郊外にあった。最寄りの駅から歩いて30分。近所には小さな雑貨屋が一軒あるきりの静かな住宅街だ。晴れた日には、小学校への通学路の 途中、陸橋の上から遠く富士山が見えた。当時はまだ新興住宅地で、今でこそ、住人は何年も住んでいる人になっているが、皆、どこかから引っ越して来て家を 買って暮らしている人ばかりだった。先祖代々この土地に住んでいる隣人などほとんどいない。人々は、毎朝、満員電車に乗って東京へ働きに行った。私の父親 もその一人だった。夜はとても静かだった。朝が早いから、皆早く眠るのだと、子供の私は思っていた。

私は3人兄弟の末っ子だ。一番上の姉が高校生になった時、両親は家の改築工事をした。隣に母方の伯父夫婦が住んでいたのだが、彼らが引っ越したので その家を買い取り、2軒の家を中廊下でつないだ。伯父の家の間取りをほとんどそのまま活用し、一階にキッチンと居間、2階にあった二部屋が姉と兄にあてが われた。元の家の一階は改造され客間になった。お風呂場とトイレはそのまま残された。元の家の2階の二間のうち、もともと子供部屋だった部屋が私にあてが われた。

その部屋は家中のどの部屋よりも広かったが、隣は襖を挟んで両親の寝室、反対側の壁は一面が窓で、その外はベランダ。ベランダに向かって左横の壁は 中廊下に続くスライド式のドアがあり、右横の壁にはお風呂場やトイレに行く階段に続く、やはりスライド式のドアがあった。家族の誰もが、飼っていた犬でさ え、私の部屋を通った。洗濯物は私の部屋へ取り込まれ、母がそれを畳みにやってきた。姉や兄が自分の部屋からお風呂に行くのにもトイレに行くのにも、中廊 下から私の部屋を通って行った。私は大通りに暮らしているようなものだった。

私はよく夜中に目を覚ました。部屋の人通りがうるさいからではない。耳の奥で何かが鳴っているからだ。辺りがあまりにもしーんと静まり返っているか ら、うわあん、うわあんと耳鳴りがするのだ。街が眠っていた。両親が眠っていた。姉と兄も眠っていた。日曜日のビジネス街のように、夜中になると私の部屋 は静まり返った。隣りの両親の部屋で寝ている犬の寝息が聴こえるくらいに。目が覚めてしまった夜には、私はベランダに続く窓のカーテンを少しだけ開けて外 を覗いた。そして、斜め向かいの家の子供部屋を見た。その家は3人にいる男兄弟がどの子も優秀で、順番にどこかの国立大学を受験していた。いつでも子供部 屋で誰かが遅くまで勉強をしていたのだ。窓が明るいとほっとした。しばらく眺めていて、よく、そのまま眠ってしまった。明け方に目を覚まし、そっとカーテ ンを閉めてベッドに戻った。

受験生の窓が真っ暗の時には、耳鳴りは余計にひどくなった。私はあきらめてベッドに戻り、丸くなって羊を数えた。数えていると、決まって足がつっ た。つるというよりは、華道で使う剣山でふくらはぎをたたかれているような感じだった。隣の両親を起こさないよう、掛布団にすっぽりくるまって痛みをこら えた。うんうん唸っていると、なぜか決まって兄がトイレに起きてきた。私が唸っているのに気が付いた兄が立ち止まる。「どうしたんだ? またつったの か?」私がふとんから頭を出してうなずくと、足元に回って掛布団をめくりあげ、黙ってふくらはぎをさすってくれた。

少しさすると、彼はふと自分の部屋に戻り、ウォークマンを手に戻ってきた。私の耳にイヤホンを突っ込み、スタートボタンを押す。姉の影響で洋楽が好 きだった兄は、私にジミ・ヘンドリックスを聴かせながらふくらはぎをさすった。どうして、そんな時にジミヘンなんかを聴かせるのかは分からなかった。私の 気が紛れると思ったのかもしれない。時々、同じ動作に飽きるのか、足の指をくにゅくにゅとマッサージしてくれたり、裏をぐいぐい押したりもした。私は小さ な頃にはアトピーがあり、足にはいつも湿疹がでていた。そんな足をよく手袋もしないで触れるなと激しいギターの音の影でぼんやり思った。

朝起きると、兄もウォークマンも消えていた。ふくらはぎをさすってみると、どこにも痛みは残っていない。兄はサッカーの部活があるからと私よりずっ と早く家を出るので、私が起きた時にはいつも既にいなかった。兄とマッサージの話をしたことがなかった。あれが、何度も見た夢だったのか、本当のことだっ たのか、今でもよく分からない。

 

ジェームス何とかが「ユーアービューティフル」を歌い終わる頃には、ふくらはぎの痛みは完全に消えていた。と、同時に森を抜けた。道路が4車線に広 がり、沿道に人が出始める。性懲りもなくスピードが上がってきたのか、周りに急にランナーが増えた。声援がうるさいほどに聴こえた。目があった人が私に向 けて声を張り上げた。「You are looking good!」いい感じよ! 軽く手をあげて挨拶をかえす。

ふと見ると、バニーが走っているのが見えた。バニーはその名の通りに頭に大きなウサギの耳を付けている。耳にはゴールするまでの所要時間が書き込ん である。ペースメーカーの役割をしているのだ。私の近くを走っているバニーの耳には、私が前回フルマラソンを走った時よりも30分も速いタイムが書かれて いた。もともとが遅いから、相撲取りのダイエットみたいなことになっている。自己記録更新などということはあまり考えたことがないが、30分となると、や はり欲が出る。私はバニーを追った。

順調なペースだった。ふくらはぎも痛くない。バニーを斜め前に見ながら走る。時折、左肩に気をつけた。コースは大きな通りに入り、沿道の人の数がど んどん増えている。声援が凄い。エリートランナーが走っているわけでもないのに、熱心に声をかけてくれる。熱気がむんむんで、雑踏の中にいるようだ。ぐん ぐん走った。心なしか、バニーがスピードを上げてきている。腕の時計をチラチラ見てるから、少し遅れているのかもしれない。それじゃペースメーカーになっ てないぞと思いつつ、私もスピードを上げる。気持ちがいい。ぐんぐん走った。森の中でふくらはぎを気にしてセーブしていた分を一気に取り返す。バニーは更 にスピードを上げ、少し差ができた。そして、視界から消えた。私は焦って、やみくもに走った。大きな曲がり角が見えた。ああ、だからバニーが消えたのかと 思いつつ、私もその角を曲がる。

そこはゴールだった。空気を入れて膨らます大きなアーチがあり、FINISHと書いてあった。つんのめるようにしてゴールした。ボランティアの人が 来て、完走すると貰えるメダルを首にかけてくれながら言った。「Congratulations!」おめでとう! Thank youと私は答えた。

ゴール付近には、たくさんのランナーが休んでいた。参加者に支給される紙袋に入ったランチ(ベーグル、クリームチーズ、バナナ、フルーツジュース、 エナジーバー)を食べたり、写真を撮ったり、奇声を上げて抱きあったりしている。ゴール脇に大きなステージが設置してあり、バンドが演奏をしている。完走 出来るか分からなかったので、私は誰にも声をかけなかった。2、3の顔見知りのランナーを見かけたので挨拶をすると、その辺に腰を下ろしベーグルにクリー ムチーズを塗って一人で食べた。それをフルーツジュースで胃に流し込む。家に帰ったらクリニックの男の子にテキストを送ろうと思いついた。Kansou dekimashita。Arigatou。

身体が冷えてきたので、残りのランチの入った紙袋を手に立ち上がった。スタート地点で預けた荷物を取りに行く。上着を預けておいたのだ。ゼッケンに 付いた引換券を渡し、ビニールの袋を受け取る。袋を開けて上着を引っ張り出すと、何かが落ちた。iPod nanoだった。イヤフォンがなく胴体だけだ。え? 耳に手を持っていくと確かにイヤフォンが耳に付いている。また音がしていなかった。外してみると細い コードの先が腹の辺りで揺れていた。ポケットを確認する。汗でひしゃげたエナジージェルの袋だけが入っていた。iPod nanoを拾い上げてボタンを押すと、バッテリーはほとんど減っていない。ふと、そういえばと思い、アーティスト名からジェームスというのを探す。そんな 名前のミュージシャンは一人も入っていない。今度は曲名から「ユーアービューティフル」を探す。ない。そうだ。私はそもそもヒットソングなんか聴かない。 急に、ギターの激しい音が聴こえてきた。振り返ると、ゴール脇のステージで、バンドがジミ・ヘンドリックスを演奏し始めた。

 



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Hiroko Hosaka / ライター、朗読者、指圧師見習い

会社員をするかたわら、短編小説など執筆。詩や絵本、小説の朗読も 行う。現在、ポエムドロイズオンリーのメンバーとして詩の朗読をしている。タオ指圧を勉強中で、ドネイションベースで指圧を行っている。興味のあるかたは 本人まで問い合わせください。タオ指圧は気の流れを良くし、自らの身体の力で治っていくことを目的とした指圧。bpnf1219@gmail.com

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Yurie  / イラストレーター

ポートレートを描くときはお客様とその対象との関係性、背景にあるストーリーをヒアリングしてか ら描いています。そうすることでお客様の目を通して感じることができ、お客様が愛するように対象をとらえることができるからです。イラストでしか表現でき ない空気感を大切に描き続けています。
☆ポートレートのお問い合わせはyuriehoyoyon@gmail.comまで。”Cradle Our Spirit!”を見て、と書き添えて下さい。

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HosakaHiroko

HosakaHiroko

小説書き、朗読者、指圧師見習い 短編小説を地道に執筆。詩や絵本、小説の朗読を行う。マラソンなど延々とする感じのことを好む。最近、家の猫が2匹になり、猫のことばかり考える日々を過ごす。 田之上尚子 / 挿画家 ペンと水彩で、物語の世界を描く。絵本・エッセイ挿絵・ポスターイラスト等手がけたり、年に2、3回画廊やギャラリー、病院内で個展を開催。 音楽も好きで、長野県松本発バンド『有機幻燈』に所属し、パンデイロなどの、鳴物も勉強中。
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