Magazine
Jul 22, 2015

いつか、むかしのはなし

クジラとただ空を泳ぐ

Text by Hiroko Hosaka & Illustration by Naoko Tanoue

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あの秋の日、ハワイの突き抜けるような青空が戦闘機で埋めつくされた。あれから3年たった。

 

学校が終わると、アーちゃんはいつものように荷馬車の後ろに飛び乗った。最初のうちは、御者のおじさんに見つからないように身体を低くし、 一緒に飛び乗った友達とこそこそとおしゃべりをしてはくすくす笑ったりしていたが、いつの間にか眠ってしまったようだった。 気がつくと、家からだいぶ離れたところまで来ていた。 毎日のように、夜中の空襲警報で起こされるためか、この頃、アーちゃんは学校でも居眠りばかりしていた。友達は皆、とっくに降りたようで、荷台にはアー ちゃん以外には誰もいなかった。

荷馬車が速度を落とした時を見計らって、アーちゃんは飛び降りた。靴紐で肩にかけていたローラースケートを履いていると、遠くのほうからうーんとい う音がした。空襲警報だった。空を見やると、 ただ白い雲があった。飛行機は見えなかった。アーちゃんが飛行機を探していると、ぼんぼんと大きな音がした。その響きでローラースケートが滑ってアーちゃ んは尻餅をついた。尻餅をついたまま、空を見ていた。高射砲がぼんぼん鳴り続けていた。いっこうに飛行機は見えなかった。音の向こうで誰かがアーちゃんを 呼んでいた。トオルさんが凄い勢いで走っていた。アーちゃんを見つけると、更に勢いを上げて突進して来た。そして、アーちゃんの手を取ると、今度は上野の 山をめがけて走った。ローラースケートがガラガラと大きな音を立てた。

上野の山には西郷さんがいた。ある日、B29が一機で飛んできてビラをたくさん撒いて行った。そこには、「西郷さんに爆弾を落とすのは 最後」と書いてあった。だからなのか、上野の山には幾人もの人が入れる細長い防空壕が掘ってあった。上野の駅の辺りから西郷さんのところまで細長い地下通 路のように防空壕が掘られていた。おじいちゃんが「うまいこと言うな。さいごーにさいごか」と笑った。

警報が鳴ると、8人兄弟の末っ子のアーちゃんの手を引いてくれたのは、3番目の兄さんであるトオルさんだった。兄弟がたくさんいるので、一番上の兄さんと一番上の姉さんだけがあんちゃん、ねえちゃんと呼ばれ、後は全員、名前で呼び合っていた。あんちゃんは召集されて南の国へ行き戦病死した。2番目の 兄さんはアーちゃんが生まれるずっと前に病気で死んだ。ねえちゃんは結婚して近所に住んでいた。2番目の姉さんと、4番目と5番目の兄さんたちは空襲がひ どくなってくると、学童疎開で田舎のほうに行った。

トオルさんとアーちゃんは防空壕に着くと、直ぐに中に入った。ぱらぱらと人が座っているきりだった。裸電球の着いた薄暗い通路をしばらく歩いてみ た。トオルさんは中学生だがのっぽだったので、防空壕の天井に頭がぶつからないように少し背をかがめて歩いた。小学一年生のアーちゃんはローラースケート を履いていても背をぴんとして歩けた。しばらく歩いてみたが、アーちゃんの家の人は誰もいなかった。2人は適当なところに腰を下ろした。トオルさんの胡座 (あぐら)をかいた膝に寄りかかり、アーちゃんは周りの人を観察した。子供はいなかった。一人で座っている人が多かった。この辺りをたまたま通りかかった 人達のようだった。観察しているうちに、アーちゃんは眠ってしまった。トオルさんに肩を揺すられて身体を起こすと、少し離れたところの入口が開いていて、 人々が順番に外に出ているところだった。外に出て空を見やると、太陽が西の方に傾いていた。警報解除のサイレンが鳴っていた。

 

アーちゃんとトオルさんのおじいちゃんは大工さんだ。本当はおじいちゃんはアーちゃんのお父さんだが、ねえちゃんに赤ん坊が生まれてからは、皆、お 父さんをおじいちゃんと呼んでいた。家の一階が仕事場になっており、おじいちゃんはそこで材木を切ったり、表面を鉋(かんな)で削ってつるつるにしたりし た。この辺りの家はだいたい2階屋だったが、アーちゃんの家だけは3階建てだった。どの家も家の前の歩道の幅半分くらいを掘って、家族分の小さな防空壕を 作っていた。アーちゃんの家は、おじいちゃんが家の中にも防空壕を掘った。穴を掘ると、茶色い水が出てきた。おじいちゃんは何枚も板を張って、その上に座 れるようにした。

おじいちゃんは時々、仕事場の外で花札をやった。お金を賭けるので、警察に捕まった。けれど、すぐに帰ってきた。帰ってくるとまた花札をやった。 アーちゃんのおばあちゃんは生粋の江戸っ子だったが(お母さんはおばあちゃんになった)、おじいちゃんは遠い雪国の生まれだった。けれども、「宵越しの金 は持たねえんだ」と言っては、困った人がいるとお金でもなんでもあげてしまった。近所で年寄りやお腹の大きいお嫁さんのいる家には、おじいちゃんが家の中 に防空壕を掘ってやった。おじいちゃんの左の腕には黒い蝶々の入れ墨があった。

トオルさんは兄弟の誰よりもおじいちゃんに似ていた。背が高いのはおじいちゃん譲りだった。顔もそっくりだった。けれど、大工仕事や花札にはあまり 興味を持っていなかった。トオルさんの興味は外国にあった。近所の教会に遊びに行き、牧師さんと仲良くなって、英語の読み書きを教わっていた。トオルさん は教会に行く時には、よくアーちゃんを誘った。教会には立派な図書館があった。棚の本は大抵、字がたくさんの英語で書かれたものだったが、中には絵や写真 のついた美しい本があり、アーちゃんはとりわけ、ハワイの海の本が好きだった。身体にぼこぼこのあるザトウクジラを見てみたいと思った。いつか、おじい ちゃんみたいに入れ墨を入れようと思った。ザトウクジラを足首のところに描いて貰おうと思った。アーちゃんがローラースケートで滑るとき、クジラがアー ちゃんと一緒に泳ぐように。

牧師さんはハワイから来た人だった。ハワイには日本人がたくさん住んでいるそうだ。牧師さんが見せてくれる写真には、大きな青い空の下で背の高い野 菜と一緒に立っている色の黒い日本人が写っていた。背の高い野菜はキビというもので、砂糖になる。明治の頃に、たくさんの日本人がハワイへ行き、キビの工 場で働いたと牧師さんは教えてくれた。沖縄や広島から働きに行った人が多かったと。そう説明しながら、ポッケから薄くて四角いものを出して、トオルさんと アーちゃんにくれた。チョコレートだそうだ。アーちゃんが食べたことのある丸いのや棒みたいな形のとは随分違っている。銀色のぴかぴか光った包み紙に鼻を つけると、甘いような香ばしいようないい匂いがした。こんないい匂いのするチョコレートは初めてだった。ぴかぴかのその美しい紙を破いてしまわないように 注意してはがすと、茶色い板が入っていた。おじいちゃんの仕事場に落ちている板に似ていた。鉋で削った後のようにつるつるとしていた。板から一層強く甘い 匂いが漂ってきた。アーちゃんが不思議そうにしていると、牧師さんが「お煎餅みたいに食べてください」と丁寧な日本語で言った。齧ってみると、板が少しず つ溶けて、とろっと甘い匂いが口の中に広がった。牧師さんがまた言った。 「このチョコレートには、日本の人が働いたハワイの砂糖工場の砂糖が入っているかもしれませんね」 今度は英語だったので、トオルさんが通訳してくれた。アーちゃんは、ハワイに行って砂糖をたくさん作って、本物の砂糖を毎日食べたいと思った。

 

ある日、おじいちゃんが宣言した。 「今日から、昼に寝て夜起きる」 空襲警報は昼間よりも夜中に鳴ることが多くなり、誰もが寝不足だった。それでも、人々は朝になると起きて仕事に出かけた。夜中に隣街に爆弾が落ちても、次 の日にはまた仕事に出かけた。おじいちゃんは大工だから、防空壕作りやら何やらと仕事があったはずだが、どうしていたのか、その日から、昼に寝て夜起き た。アーちゃんは学校へ行かなくてもよくなった。学童疎開とは別に親と一緒に疎開する子供はたくさんいたので、誰にとがめられることもなかった。

アーちゃんの家の人が昼間に寝ていることを、近所の人は最初のうちはいぶかっていたが、その内に歓迎するようになった。アーちゃんのおじいちゃんは 新し物好きで、当然、ラジオを持っていたし、電気の通っている場所をよく知っていたので、いつでも正確に警報の内容を聴くことが出来たからだ。 アーちゃんは毎晩、トオルさんといっしょに3階の窓から空を眺めた。 警戒警報が鳴ると、2人で窓から身体を半分出して、近所に向けて大声を張り上げた。 「けいかいけーほー! けいかいけーほー! こがたきのへんたいしんにゅう! こがたきのへんたいしんにゅう!」もともとラジオを持っていない人や、空襲 で家が焼けて親戚を頼って着の身着のまま越して来た人もいたので、アーちゃんの警報発令は重宝された。

警報の鳴る夜中に窓から眺める夜空は、宴(うたげ)のようだった。月のない日は照空灯(しょうくうとう)がとてもきれいだった。細い光の線で、黒い 夜空に飛ぶ亜米利加の飛行機を追い回した。光に照らし出された飛行機に高射砲が当たった。ぼんぼんというお腹に響く音に続いて、幾つもの火の塊に分かれて 空を落ちていくのが見えた。大空に半円を描きながら火の鳥のように赤い尾を引きながら落ちていくのがあり、いつまでも空中をゆらゆら漂うのもあった。誰か が「玉屋!」と叫んだ。 火の塊が近づくと、辺りは昼間のごとく明るくなった。その明かりで家々の影が、歩道に掘った防空壕の蓋の上に影絵のような白黒を作った。やがて、夜が明け て、朝の青い光が影絵を消した。遠くの方でまだ街が燃えていた。アーちゃんはお布団に入って眠った。

 

誰かに身体を揺すられてアーちゃんは目を覚ました。既に着替えをすませたトオルさんがアーちゃんの服を手に「はい、万歳して」と言った。 部屋が薄暗かった。「もう夜になったの?」と聴くと、「まだ昼間だけど、警報が鳴った」とトオルさんが言った。まだ寝ぼけているアーちゃんが万歳をして着 かえさせて貰っている両手のもっと上の方で、ざーざーという雨降りのような音がした。トオルさんがアーちゃんごと畳にうつ伏せになった。しばらくして、そ う遠くないところで爆弾の落ちる音がした。アーちゃんはトオルさんの腕をくぐって窓から外を見た。一面の雪だった。大きなぼたん雪がひらひらと舞ってい た。「どこだ、どこに落ちた?」と叫びながら、雪の中を消防団の人が走って行くのが見えた。赤黒い煙が どこかの街から立ち昇っていた。その煙がみるみるうちに空の半分を覆っていき、辺りがどんどん暗くなった。灰が飛んできて、白い地面に黒い水玉模様を描い た。

その時、頭の上を飛行機が通った。小さな飛行機だった。こんなに低い空を飛んできたのを見るのをアーちゃんは初めてだった。飛行機の銀色の腹が見え た。上野の街の上を、赤黒い煙をくぐって飛行機はゆっくりと飛んだ。海の中を泳ぐザトウクジラみたいだと思った。やがて、南の方へ飛んで行った。続いて、 爆弾の落ちる音がした。「今の飛行機のやつは江戸っ子だな」と声がした。振り向くとおじいちゃんが立っていた。 「一機だけであんなに低く飛んで、人がいないところを探していたんだろう。ここらには人が多すぎるからな。南のほうに飛んで行って落とした。神田の辺りは もう燃えちまって焼け野原だから」それから急に大きな声を出した。「おい、江戸っ子ばかりとは限らねえから、2人とも早く防空壕に入れ」その途端、またど こかに爆弾が落ちた。トオルさんとアーちゃんはおじいちゃんの後に続いて下に降り、仕事場の隅に掘られた防空壕に入った。

 

大雪の後には暖かい日が続き、雨がぱらぱらと降った。それでも往来の雪はまだ残っており、道が悪いからと配給が遅れた。おじいちゃんが木下(きおろ し)まで行って、米を買ってきた。いつものように昼間に寝て、夜になって寝床から起き出し、2階の居間で久しぶりの米のご飯を食べていると、警戒警報が 鳴った。ラジオが敵機は130機に及びたりと告げていた。アーちゃんは3階に駆け上がり「けいかいけーほー! けいかいけーほー! てききひゃくさん じゅっきなり! てききひゃくさんじゅっきなり!」と叫んだ。どこかの街の空に火の手が上がったのが見えた。ぶーんという音がした。2階へ降りると、赤ん 坊をおぶったねえちゃんが来ていて、おにぎりを作り始めていた。おばあちゃんがばたばたと着物やら何やらを風呂敷に包んでいた。すぐ近くで大きな音がし た。家が揺れた。「西郷さんとこへ行くぞ」と、おじいちゃんが言った。 「凄い数のB29が低く飛んで来ているらしい」と、トオルさんが言った。低く? アーちゃんは江戸っ子が戻って来たのだとうれしくなった。

外へ出ると、雨はなく晴れているが風がとても強かった。さっき、アーちゃんが窓から見た火の手が大きく近くなっていた。夜だというのに昼間のように 明るい。空が真っ赤で夕日のようできれいだった。そこに煙の塊が入道雲のように現れていた。おばあちゃんが「大正の大地震の時と同じ雲だ」とつぶやいた。 その雲から飛行機が次々と飛び出してきた。B29だった。直ぐ目の前を銀色の腹に赤い炎を映して飛び回った。高射砲がぼんぼんと鳴り響き、空がその音で埋 め尽くされた。ザトウクジラのように街を泳ぐB29の大群に高射砲が赤や青の火花を散らした。目の前で、一機に命中した。クジラは真っ赤な夜空に更に濃い 赤を描いて燃え上がった。目を見開いて空に見入っているアーちゃんの手をトオルさんが強く引っ張った。

おじいちゃんを先頭におばあちゃんとねえちゃんと上野の山へ向かって歩いた。アーちゃん達が歩くその通りには、ぞろぞろと列になって人が歩いてい た。手ぶらの人がたくさんいた。空が明るいので彼らの顔が煤けているのがはっきり見えた。 「着の身着のまま、慌てて出てきた」と笑いながら歩く人もいた。皆、平気な様子でおしゃべりしながら歩いていた。その笑顔の上で、火花は散り続けていた。 トオルさんが「岩倉学校の辺りに爆弾が落ちたみたいだ。そこで焼け出された人達だろう」と言った。

上野の山の防空壕の辺りは、たくさんの人でごった返していた。中に入りきれず、壕の周りにも座り込んでいる人が溢れていた。 西郷さんの近くに座りたかったが、そこも人で溢れていたので、おじいちゃんが桜の木の下に場所を見つけ、皆で固まって座った。まだ3月に入って間もなかっ たが、連日の火事のためか、あちこちで桜が咲き始めていた。「あ! おにぎりを入れた包がない!」と、ねえちゃんが叫んだ。 「こんなご時世だから、仕方がない」と、おばあちゃんが言った。「誰かの腹の足しになったろう。また、おじいちゃんに木下に行って貰えばいい」その時、桜 の花びらがひらひらと舞ってきた。アーちゃんが見上げると、飛行機が空を飛んでいた。さっき家の近くで見たB29もとても低く飛んでいたが、それより更に 低く飛んでいるようだ。先日見た江戸っ子の飛行機と同じかもしれないと、アーちゃんは思った。B29よりもずっと小さな飛行機だ。花びらを散らせながら北 の方へ飛んで行った。

すると、突然、日本軍の戦闘機が現れ、江戸っ子の飛行機を追って行った。そして、火花を散らした。小さな江戸っ子機は日本の戦闘機に追い回された。 北の空を2機の飛行機が追いかけっこをしていた。火花が何度も散り、江戸っ子機の翼から煙が出た。江戸っ子はふらふらして、時々こちらへやってくる。が、 また北のほうへ飛んで行った。なんとか、人々から遠いほうへ行こうとしているみたいにアーちゃんには見えた。座っていた人々は、皆、立ち上がり、空の様子 を見世物でも見るように眺めていた。戦闘機がまた火花を散らした。江戸っ子は火花をよけるばかりで、自分からは撃ってこない。そして、とうとうよけきれ ず、おしりのあたりに火がついた。火がどんどん大きくなる。江戸っ子はくるくると回り始めた。 「火の玉が踊っているみたいだ」と、誰かが言った。おじいちゃんもおばあちゃんもねえちゃんも、トオルさんも、ぼんやりと、火の玉を見物していた。「きれ いなもんだ」と、おじいちゃんが言った。その時、何かがトオルさんの頭の上に垂れてきた。トオルさんが手で頭をさわってみると、茶色いものがついていた。 嗅ぐとチョコレートの甘い匂いがした。トオルさんははっとして、周りを見渡した。さっきまで、隣にいたアーちゃんがいなかった。人をかき分けて、火の玉が 踊っている方を見ると、遠くにアーちゃんが走っていくのが見えた。くるくると回転しながら、火の玉がアーちゃんの上に落ちて行った。

 

小さな江戸っ子機が煙を上げながら北の空から消えた後、上野の山は急に静かになった。あれほど強かった風もやんだ。空は真昼のように明るく、すぐ近 くまで火事が迫っていた。西郷さんが犬の綱を引いて、赤い火を眺めていた。桜が次から次へと開き、辺りの木が全て満開になった。アーちゃんはぼんやりと桜 を眺めていた。ふと、甘い香りが漂ってきた。桜の香りか? と思ったが、牧師さんに貰ったチョコレートをもんぺのポッケに入れたままにしていたのを思い出 した。手を突っ込んで取り出してみると、ぐんにゃりとやわらかくなった茶色い板が銀色の包み紙からはみ出していた。ぴかぴかの包み紙に空の赤が映ってい た。アーちゃんは、飛行機のクジラみたいなお腹と同じだなあと思った。思いながら、ふと辺りを見渡すと、そこには誰もいなかった。遠くのほうに人ごみがす ごい速さで遠ざかっていくのが見えた。アーちゃんは一人ぽつんと取り残されていた。西郷さんも犬も桜の木もいつの間にか消えていた。ねえちゃんがなくした おにぎりの包が足もとにあった。

アーちゃんは、トオルさんの名前を呼びながら、辺りをうろうろと歩いた。そこは、ただ何もない野原だった。空だけが赤く燃えていた。少し離れたとこ ろに、白い十字架が浮かんで見えた。アーちゃんが目をこすってもう一度見てみると、やはり十字架は浮かんでいた。トオルさんと行った教会の十字架だろう か? チョコレートをくれた牧師さんは、空襲が激しくなってきたために少し前にハワイに帰ってしまっていたが、その時に、トオルさんとアーちゃんがいつで も中に入れるようにと、秘密のドアのありかを教えてくれていた。教会から家までの帰り道をアーちゃんは分からなかったが、教会にいれば、トオルさんが見つ けてくれるかもしれないと思った。アーちゃんは十字架へ向かって歩いた。アーちゃんが歩き出すと、風がまたびゅーびゅーとものすごい音で吹きはじめた。風 に逆らって歩いているからなのか、すぐ近くだと思ったが、意外に時間がかかった。が、やがて、教会に着いた。周りの風景がいつもと違うみたいだったが、そ れは牧師さんの教会だった。アーちゃんは秘密のドアがあるはずの建物の裏に回った。

秘密のドアはあった。ドアを隠すために重ねた草や小枝をかき分けていると、誰かがいきなりアーちゃんに掴みかかり、自分のわきに抱え込んだ。アー ちゃんがばたばたと動くのをすごい力で押さえつけてくる。押さえつけたまま辺りをうかがっているようだった。しばらくうかがっていたが、女の子以外には誰 もいないことが分かると、ようやっと腕の力をゆるめた。そして言った。 「アーユーアローン?」アーちゃんはその人の腕をすり抜けて、すぐさま走り出したが、その声を聴いて立ち止まった。牧師さんの話す言葉に似ていると思った からだ。教会の人だろうか? アーちゃんは振り返って、「マイネーム イズ アーチャン」と言ってみた。 「マイネーム イズ キアヌ」と、その人が言った。その人は牧師さんのような金色の髪の毛はしていなかった。アーちゃんと同じ黒髪だった。肌の色は少し茶 色い。服装も牧師さんのそれとは全く違っていた。戦病死した一番上のあんちゃんの写真の服と似たのを着ていた。「アイ アム フロム ハワイ」と、キアヌ という変わった名前のその人が言った。ハワイ! やはり教会の人なのだとアーちゃんは思った。 アーちゃんは建物のほうへ駆け戻り、秘密のドアをあけた。その人に手招きした後、自分が先に中に入った。窓に黒い布がかけてあるので中は真っ暗だった。手 さぐりで蝋燭のある棚まで行き、火をつけた。キアヌが恐る恐る入ってきた。

「アーチャン?」とキアヌが呼びかけた。そして、「ぼくのなまえはきあぬです。はわいじんです」と日本語で言った。「はわいには、にほんじんがたく さんいますから、ぼくは、すこしだけはなせます。にほんじんのともだちがたくさんいます」アーちゃんは、前に牧師さんが話してくれた砂糖工場の話を思い出 した。もんぺのポッケから形のくずれたチョコレートを出し、キアヌにあげた。 「日本の人がハワイで作ったお砂糖が入ってる」キアヌはひどく驚いたようだったが、すぐに笑顔になりチョコレートを受け取った。チョコレートを食べている キアヌは、まだあどけなさの残る男の子だった。トオルさんより少し上くらいだ。よく見ると、目の色も髪の毛と同じで黒かった。アーちゃんと全く同じとは言 えないが、牧師さんの白い顔や青い目よりは、アーちゃんにずっと似ていた。

秘密のドアがぎーと音をたてて開いた。キアヌがま たアーちゃんを押さえつけ、ドアにきっとした顔を向けた。チョコレートが床に落ちた。トオルさんが立っていた。アーちゃんは脚をばたばたさせながら「トオ ルさん!」と叫んだ。「マイビッグブラザ! マイビッグブラザ!」それでも、キアヌは力をゆるめず、しばらく、トオルさんをにらみつけていた。トオルさん はチョコレートの匂いをかぎつけたようで「アーちゃん、チョコレートを食べているのか?」と言った。アーちゃんはなんとか顔を上げ、「キアヌはハワイから 来たんだって!」と言った。それを聴いて、トオルさんが英語で何か言った。キアヌの身体からふっと力が抜け、アーちゃんを押さえつけている手がゆるんだ。 アーちゃんはその隙にするっと抜けて、落ちたチョコレートを拾った。

トオルさんの通訳によれば、キアヌは亜米利加の兵隊で、操縦していた飛行機がもう少し先の池の近くに不時着したそうだ。どうしようか? と思ってい たら、十字架が見えたので、そこでかくまって貰えるかもしれないと思って歩いてきたということだった。キアヌはトオルさんとアーちゃんを信用したのか、ト オルさんがアーちゃんに通訳していると、本棚からアーちゃんがよく見ていたハワイの海の様子の描かれた本を取り出して、熱心に眺めはじめた。

「クジラが歌を歌うのを知っている?」キアヌが顔を上げて言った。「オスだけなんだけど、歌を歌う。その歌は遠いところにいる仲間にも聴こえる。毎 年、新しい曲を歌う。流行歌みたいにサビもちゃんとある」それから、うーうーうーと静かに唸るような、悲しいが美しい音を歌った。 「それがクジラの歌なの?」と、トオルさんが聴いた。キアヌがうなずいた。「僕のじいちゃんは、クジラの歌をクジラに通じるように歌うことが出来た。じい ちゃんが歌うと、クジラが浪の間に姿を見せた。すると、じいちゃんは泳いで行って、クジラといっしょに遊ぶんだ。僕もじいちゃんについて行った。クジラは あの大きな身体をゆーっくりと優雅に動かして泳いだ。じいちゃんと僕の下を泳いだり、周りをぐるっと回ったり。僕らとの間に一定の間をあけて、絶対につぶ したりしない。子供のクジラがいる時には、僕はそいつの後を追って泳いだものだよ。埠頭の下には、杭の間を錆びた釣り針が浮かんでいたり、釣り糸が目に見 えない光線のように複雑に絡んでいたりするんだけど、その真っ暗な中をすいすいと泳ぐ。僕はただ、子クジラの後についていけばよかったんだ」そう言うと、 キアヌはしばらく、ぼんやりと空中の暗がりを眺めていた。

「じいちゃんがただ泳いでいろって言った」しばらくしてからキアヌがまた口を開いた。「じいちゃんは、真珠湾の爆撃で死んだ。僕が基地にいるのを 知っていたから、奇襲攻撃が始まったって聴いて、探しに来てくれたんだ。全身に大やけどをしてね。病院には入れたんだけど、間もなく死んだ。死ぬ前に言っ たんだ。この攻撃によって、おまえは日本に行くことになるかもしれない。そうなったら、爆弾を落とせと命令されることになるだろう。けれど、お前はただ空 を泳いでいればいい。 クジラのようにただ泳いでいればいい。爆弾は誰もいない野原にでも落として、それで帰ってきなさい。帰ってきたときに、友達の顔が見られないようなことは 決してしてはならん。 空から富士山を見てこい。その様子をそれを誇りに思っているおまえの友達に話して聴かせてあげなさい。そう言った。そして死んだ」それからまた、あの悲し い歌を歌った。

キアヌが「聴こえた?」と言った。トオルさんもアーちゃんも、キアヌが歌ったのだと思ったのだが、確かに、その歌は建物の外から聴こえてきた。 「風の音じゃないのか?」と、トオルさんが言った。 「いや、あれはクジラの歌声だ」キアヌはそう言うと、秘密のドアをあけて外に出た。トオルさんとアーちゃんも後を追った。外はまだ強い風が吹いていた。そ のびゅーびゅーいう音の奥で、クジラが歌っていた。キアヌとトオルさんとアーちゃんは音のほうへ歩いて行った。風はますます激しくなり、アーちゃんは吹き 飛ばされそうになった。トオルさんがアーちゃんを抱え込むようにして風から守ってくれた。

しばらく歩いた。歌がどんどんと大きくなった。すると、いきなり、目の前にクジラが現れた。桜の花びらで身体全体が覆われていたが、それは教会の本 で見たザトウクジラだった。花びらの間からぼこぼこが見えた。アーちゃん達が近づくと、クジラは歌うのをやめた。そして、潮を噴き上げて空中に跳ねあがっ た。花びらが吹雪のように舞い上がった。風が海の波のように吹き上げ、3人の身体が宙に浮いた。キアヌがまるで泳ぐようにしてクジラの背に乗った。アー ちゃんとトオルさんは上手く波に乗れずに空中をくるくると回った。キアヌが手を伸ばし、アーちゃんを引っ張り上げた。トオルさんは海の底に沈んで行った。 クジラはすぐに泳ぎだした。下を見ると、トオルさんがアーちゃんを探しているのが見えた。大きく手を振ったけれど、トオルさんは今まで一緒にいたことを忘 れてしまったみたいにアーちゃんの名前を呼んでいた。トオルさんは空を見上げることもせず、ただ、何もない野原を狂ったみたいに探していた。クジラはぐん ぐん泳いだので、トオルさんはすぐに小さな点になった。キアヌもクジラも、トオルさんなどいなかったみたいにぐんぐん泳いで行った。

 

クジラがどこを泳いでいるか、アーちゃんには分からなかった。が、やがて、西郷さんが見えた。桜の木や駅も見えた。3階建てのアーちゃんの家が見え た。トオルさんが窓から身体を半分出して、何かを叫んでいた。小さな女の子が一緒に叫んでいた。アーちゃんも「おーい!」と叫んだが、トオルさんには聴こ えないようだった。急にクジラの身体がぐらっと傾いた。アーちゃんは滑り落ちそうになり、キアヌの背中にぐっと捕まった。クジラの周りに青白い光の線が何 本も交差した。クジラはその間をすいすいと抜けて行った。アーちゃんは振り落とされないように、キアヌの腰に回した腕に力を入れた。ふと辺りを見回すと、 何頭ものクジラが泳いでいた。アーちゃんの乗っているクジラよりもずっと大きい。大きなクジラも青い光をよけながら、上がったり下がったり右に行ったり左 に行ったり、空の海を泳いでいる。突然、一頭のクジラから真っ赤な血が潮のように吹き上がった。サメがどこからともなく現れ、クジラの身体めがけて突進し たのだ。クジラもサメも血みどろになり、海の底に落ちて行った。次の瞬間、海の底から火山が噴火し、流れ出した溶岩が街を飲み込んだ。サメは次から次へと やってきた。大きなクジラはサメに向かいうち、がぶりと噛み付いてふりまわした。食いちぎられたサメの身体がきらきらと舞うように海の底に散った。火山が また噴火した。

キアヌとアーちゃんの小さなクジラにも何匹ものサメが襲いかかってきた。けれど、小さなクジラは巧みにサメの合間をぬって逃げた。街を離れ、焼け野 原のほうへサメをおびき寄せた。そして、更に深く、深く潜った。キアヌは目を凝らし海の底に広がる焼け野原を見ている。そこには、人っ子一人いない、焼け ただれた街があるきりだった。キアヌがうーうーうーとクジラの歌を歌った。キアヌの歌に合わせてクジラも歌い出した。辺りが歌で包まれると、サメはきらき らした光になって、ただれた焼けた街へ落ちて行った。キアヌとクジラは最後のサメが光になるまで歌った。火山は噴火しなかった。全ての光が落ちてしまう と、クジラはすーっと海の上のほうに戻り、大きく身体をひねって飛び跳ねた。勢い良く潮を吹き上げる。真っ白な飛沫が一面に広がって落ちてきた。まるで、 雪のようだった。クジラはキアヌとアーちゃんを乗せたまま、潮の雪の中を優雅に泳いだ。白い雪が傷ついた大地を覆い隠した。アーちゃんが手の平をかざす と、潮の雪が舞い落ちた。舐めてみると、甘い砂糖の味がした。

キアヌとアーちゃんは、クジラの背に乗って、しばらく漂った。海の底に森が見えたり、河が見えたり、家々が見えたりした。やがて、大きな山が見えて きた。てっぺんの辺りが真っ白なきれいな山だ。それは富士山だった。アーちゃんは学校の教科書に描いてあったのを覚えていた。キアヌの背中を叩いて、「フ ジサン! フジサン!」と、キアヌの顔の横から富士山に向かってにゅっと腕を出した。キアヌが、「フジ? マウントフジ?」と驚いた。 「にほんのともだちがよくいっていた。まうんとふじはにほんのすぴりっとだって!」クジラは富士山の周りをゆーっくりと泳ぎ、また潮を吹き上げた。富士山 が雪化粧をした。

キアヌとアーちゃんとクジラが富士山の周りを泳いでいると、ぶーんという蜂の羽音のような音がした。そして、山の影から飛行機の大群が現れた。大き な飛行機だった。B29だった。ひとかたまりになって数え切れないくらいたくさんで飛んでいる。その時、がーがーと音がした。無線機が鳴っていた。アー ちゃんはキアヌの背中に張り付いて小さな飛行機の操縦席にいた。 クジラはいつの間にか飛行機になっていた。無線から誰かの声が聴こえた。その声が消えると、キアヌは操縦桿を大きく左に倒し、足元のメダルを踏んだ。飛行 機が旋回し、B29の大群の先頭にたった。キアヌとアーちゃんは大きな魚の目みたいになって、今来た海を戻った。

富士山が後ろに遠ざかり、下のほうに家々が見えたり、河が見えたり、森が見えたりした。やがて、焼け野原が続くようになり、合間に街が見えだした。 すると、アーちゃん達の後ろを飛んでいたB29がぱーっと散らばり、きらきらと光る美しい玉を街中に落とし始めた。玉は地面につくと大きな火花になった。 火花はやがて集まって、大きな火の海になった。家々と逃げまどう人々を舐めるように、火の海はくねくねと動き回り、街がどんどん燃えていった。空に大きな 入道雲が出た。B29は雲をくぐって、どんどん下がって行った。どんどん下がって、どんどん光る玉を落とした。光る玉は涸れることのない井戸のように、あ とからあとから銀色のお腹から湧き出してきた。

キアヌはB29をすり抜けて燃えている家々の屋根ぎりぎりに飛んだ。窓におでこをくっつけて街の様子を見ていた。B29のように光る玉を落とすこと もなく、ただ、上空を飛び回った。アーちゃんもキアヌのように窓におでこをくっつけて外を見た。B29が辺りをうようよ飛んでいた。おじいちゃんが建てた 3階建ての家が見えた。西郷さんも見えた。桜の木や駅が見えた。たくさんの人が上野の山に向かって歩いているのが見えた。トオルさんが歩いているのが見え た。おじいちゃんもおばあちゃんもねえちゃんも歩いていた。トオルさんは小さな女の子の手を引いていた。アーちゃんは飛行機の窓を叩いて「おーい!」と叫 んだが、誰にも聴こえないようだった。

キアヌは上野の街を旋回すると、人々の後を追うように上野の山に向かった。西郷さんを通り抜けて、もっと北の方へ飛んだ。西郷さんの周りにたくさん の人が座っているのが見えた。アーちゃんが人々を見ていると、急にどどどどどどという音がした。飛行機が振り子のようにふれた。飛行機の横を火花が通って 行った。アーちゃんが後ろを見ると、一機の飛行機が見えた。B29ではない飛行機だ。翼のところに赤くて大きな丸が描かれていた。日本の戦闘機のようだ。 戦闘機がキアヌの飛行機を追い回した。キアヌは巧みに操縦桿を動かして日の丸から逃げた。日の丸に追い回されるのがなんだか嫌で、アーちゃんは頭の中で赤 い丸を消して黒い蝶々を描いてみた。おじいちゃんの入れ墨だ。蝶々がひらひらと飛んでキアヌの飛行機を追いかけてきた。面白くなって、今度はクジラを描い てみた。クジラがキアヌの飛行機の後を泳いできた。と、その時また、どどどどどどという音がした。飛行機がまた振り子のようにふれた。キアヌが操縦桿を押 したり引いたり、右に倒したり左に倒したりした。節をつけるみたいにペダルをばこばこと踏んだ。飛行機はぼんぼん時計の振り子のように振れた。

戦闘機がぐーっと近寄ってきた。 蝶々もザトウクジラも消えて、日の丸がまたはためいていた。操縦している人がはっきり見えた。それは、あんちゃんだった。アーちゃんが見たこともないすご く怖い顔をしているが、間違いなくあんちゃんだった。南の国に行ったあんちゃんが東京の空を飛んでいた。あんちゃんは生きていたのだと、アーちゃんはうれ しくなった。そして、「あんちゃん! あんちゃん!」と窓を叩いた。あんちゃんははっきりとアーちゃんを見据えると、もっと怖い顔になって、続けざまに、 どどどどどどという音をさせた。飛行機がどすんと揺れて、翼から煙が出た。がたがたと揺れ、あっちに行ったり、こっちに戻ったりした。飛行機の振り子に合 わせて、ぼんぼん時計の針が目まぐるしく回った。アーちゃんはとっさに何かにつかまった。アーちゃんのその手はしっかりと操縦桿を握っていた。アーちゃん は一人で飛行機に座っていた。飛行機はがたがたと揺れ続けた。夢中で操縦桿を押したり引いたり、右に倒したり左に倒したりした。まるで、節をつけるみたい にペダルをばこばこと踏んだ。けれど、翼が傷ついた飛行機は、ふらふらしながら南のほうへ落ちて行った。西郷さんと桜の木がすごい勢いで近づいてきた。桜 の木の下で、ぽかんと口を開けて空を見ているおじいちゃんが見えた。おばあちゃんもねえちゃんもトオルさんも、口をぽかんと開けている。小さな女の子が チョコレートを食べていた。

アーちゃんは操縦桿をぐーっと引いた。飛行機はなんとか上空へ上がった。また、どどどどどどという音とともに火花が飛んできた。その時、全身が真っ 赤にただれた見知らぬおじいさんが目の前に現れた。アーちゃんと同じ黒い髪に黒い目をしていた。肌の色は少し浅黒い。おじいさんは肌が溶けてドロドロに なった腕で北のほうを指していた。すると、急に、すごく怒った気持ちがアーちゃんの胸の中に入ってきた。息が吸えないほどに、怒った気持ちで胸が一杯に なった。心の中がかーっと熱くなった。アーちゃんはペダルをばこばこと踏んで、あんちゃんの戦闘機に向かって行った。アーちゃんは機関銃のボタンを押し た。どどどどどどという音がした。怒った気持ちを吐き出したくて、「うわー! 」と大声で叫んだ。大声で叫びながら、指がボタンを何度も押した。押しながら、「うわー!うわー!」と叫び続けた。おじいさんのドロドロの手が北を指し続 けていたが、その手を振り払うように機関銃をどどどどどどと鳴らし続けた。

あんちゃんの顔が目の前に見えた。全身が真っ赤にただれた見知らぬおじいさんに、怒ったあんちゃんの顔が重なって見えた。アーちゃんはその醜い顔を めがけて機関銃を撃った。火花を全身に浴びて、おじいさんが、サメに襲われたクジラのように血みどろになって西郷さんの上に落ちて行った。それでもあん ちゃんの顔は目の前でアーちゃんを睨みつけていた。目は血走り、醜く歪んでいた。アーちゃんは間近に醜い顔を見て、気が狂ったように窓を叩いた。叩くたび に醜い顔がアーちゃんの顔に近づいた。それは窓に映ったアーちゃんの顔だった。怒ったアーちゃんがじーっとアーちゃんを見ていた。

その時、クジラの歌声が聴こえてきた。やがて、歌とともにキアヌの声が聴こえてきた。「じいちゃんがただ泳いでいろって言った。クジラのようにただ 泳いでくればいいって」その声はだんだんとしわがれ、年とった人の声になった。やがて、それは言葉ではなく、暖かい感じでアーちゃんの心の中に広がった。 「帰ってきたときに、友達の顔が見られないようなことは決してしてはならん」暖かい感じが怒った気持ちを心の外に押し出してくれた。アーちゃんはやっと息 が出来るようになった。ふと、 教会の牧師さんの顔が浮かんだ。それからキアヌ。チョコレート。アーちゃんの熱くなった心からすーっと熱が引いていった。醜い顔が消えて、目の前に小さな 女の子の顔が現れた。トオルさんが手を引いていた女の子にそっくりだった。目を真っ赤にして泣きじゃくっていた。女の子の顔のその先にクジラの泳いでいる のが見えた。飛行機の鼻先のところに、楽しそうに飛び跳ねているクジラが描かれていた。さっき、アーちゃんがあんちゃんの飛行機に描いたのと同じザトウク ジラだった。富士山の周りをキアヌとアーちゃんを乗せて泳いだクジラだった。クジラはアーちゃんと一緒にまた空を泳いでいた。アーちゃんはクジラに見入っ た。 操縦桿を押したり引いたりすることを忘れ、機関銃を鳴らすことを忘れ、叫ぶことを忘れ、クジラが泳ぐのを見ていた。

クジラの描かれた飛行機は西郷さんや桜の木の上を大きく旋回すると、また北の方へ飛んだ。飛行機とアーちゃんは桜の花びらに包まれた。さっきから歌 を歌っていたのは、このクジラだった。うーうーうーと悲しい歌を歌い続けていた。おじいちゃんやトオルさんの顔が浮かんだ。おばあちゃんやねえちゃんや、 疎開している姉さん、兄さんたち。そして、南の国で死んだあんちゃんの顔が思い浮かんだ。日の丸の戦闘機が横を飛んだ。南の国で死んだはずのあんちゃんが 操縦席にいた。あんちゃんはおじいちゃんの大工仕事を手伝っていた時のシャツを着ていた。髪の毛に鉋屑がついていた。アーちゃんは懐かしいあんちゃんに手 を振った。あんちゃんが手を振りかえしてくれた。全然怖い顔をしていなくて、よく遊んでくれた優しいあんちゃんだった。アーちゃんはあんちゃんといっしょ に桜の中を北に向かって飛んだ。

あんちゃんの顔が真っ赤に燃えていた。気がつくと、飛行機のおしりが火を吹いていた。その火の赤があんちゃんの顔を赤く照らしていた。飛行機の中は やかんのように熱くなっていた。アーちゃんは暑くて暑くて、頭がぼんやりとしてきた。窓に桜の花びらがたくさんついていた。ふと、甘い香りが漂ってきた。 桜の香りか? と思ったが、キアヌが落としたチョコレートをもんぺのポッケに入れたままにしていたのを思い出した。手を突っ込んで取り出してみると、ぐん にゃりとやわらかくなったチョコレートが銀色の包み紙からはみ出していた。ぴかぴかの包み紙に飛行機の燃える赤が映っていた。アーちゃんは、あんちゃんの 顔と同じだなあと思った。アーちゃんがぴかぴかの銀色の包みを破いてしまわないように注意してはがすと、チョコレートがドロドロと溶け出した。アーちゃん が舐めようとすると、逃げるように手の中から流れ出た。チョコレートは涸れることのない井戸のようにどんどん流れた。そして、海の底に沈むように地上へ落 ちて行った。甘い香りを追うように、アーちゃんとクジラは火の玉になって落ちて行った。焼けただれた野原に落ちると真っ白な甘い雪になって傷ついた大地を 覆い隠した。

 

甘い香りでアーちゃんは昼寝から目を覚ました。タマラがキッチンで何かを作っているようだ。キアヌのお母さんは働き者で、家の中はいつでもぴかぴ か、ご飯もとびきり美味しかった。キッチンからはいつでもいい匂いがした。だから、アーちゃんはいつも、キッチンのすぐ横で昼寝をした。アーちゃんがカウ チから起き上がってキッチンを覗くと、山のように揚げあがったドーナツにタマラが真っ白な砂糖をまぶしているところだった。「アーちゃん起きたの? ちょ うど良かった。ドーナツを教会に届けて来てくれる?」「いいけど。キアヌは?」「海に行ったわ」「そう」

アーちゃんはタマラからドーナツの入った箱を受け取ると、裸足のまま外に出た。熱い土が足の裏に心地良かった。トオルさんと同じようにおじいちゃん に似たのか、アーちゃんの背はぐんぐん伸びた。それほど大柄ではないキアヌと同じくらいに背が高くなった。日本人が多く住むこの界隈では珍しい、背高のっ ぽのお嬢さんになった。ハワイの太陽に焼けたすらりと長い手足に白いワンピースがよく似合っていた。

アーちゃんは少しだけ遠回りして、教会へ行く前にじいちゃんのお墓へ寄った。 じいちゃんはドーナツが大好きだったとキアヌやタマラがよく言っている。教会にドーナツを持って行ってというお使いは、じいちゃんのとこへも寄ってねとい う意味もあるのだろうとアーちゃんは思っていた。じいちゃんのお墓の前にドーナツを2つ置いた。お墓の前に座って、自分も一つ食べた。お砂糖の甘さが、遠 回りして少し疲れた身体にすーっと溶けていった。

じいちゃんのお墓は、ちょうど榕樹の大木で日陰になっていて、休憩するにはもってこいの場所にあった。お墓は軍のものだった。いろいろな戦争で戦死 した兵士の墓がずらりと並んでいた。じいちゃんは兵士ではなかったが、攻撃された基地で死んだので、軍の墓地に埋葬された。名誉なことらしかったが、タマ ラもキアヌもそれほど嬉しそうではないみたいだった。アーちゃんはふと思いたって、じいちゃんの隣のお墓にもおすそ分けでドーナツを一つ置くと、箱を抱え て立ち上がった。丘の上の墓地からは、広い海が良く見えた。

教会にドーナツを届けると海のほうへ歩いた。ドーナツの代わりにチョコレートを手に持っていた。アーちゃんの顔を見ると、牧師さんは必ずチョコレー トをくれた。この地の暖かな陽気のせいで、牧師さんのくれるチョコレートはいつでもぐんにゃりとやわらかかった。アーちゃんは一口齧って残りをポッケにし まった。海が近づいてくると、クジラの歌声が聴こえてきた。キアヌが歌っていた。やがて沖のほうにクジラが現れた。キアヌが海に入って行くのが見える。 アーちゃんは走って行って、ワンピースのまま海に飛び込んだ。裾が脚に巻きついたが構わず泳いだ。気がつくと、小さなクジラが横を泳いでいた。アーちゃん の周りをぐるっとしたり、下をくぐったりしながら、ずっと側をついてきた。キアヌが歌いかけているクジラの子供だろうと思った。アーちゃんと小さなクジラ が親クジラのところまで来ると、ちょうど、キアヌが親クジラの背に登ったところだった。クジラはとても大きくて、軍艦みたいに見えた。キアヌは、出陣を 待っている戦闘機みたいに真面目な顔でクジラの背の上に座った。アーちゃんに気がつくと、大きく手を振った。

キアヌが背に座るのを待っていたかのようにクジラが泳ぎだした。この地の突き抜けるような青い空の下をクジラは優雅に大きく泳いだ。アーちゃんと小 さなクジラは、軍艦を先導するかのように、親クジラの前を泳いだ。やがて、埠頭にやってきた。その先に軍の基地が見えた。小さなクジラは埠頭の下へ入って 行った。 埠頭の下には、杭の間を錆びた釣り針が浮かんでいたり、釣り糸が目に見えない光線のように複雑に絡んでいたが、その真っ暗な中を小さなクジラはすいすいと 泳いだ。アーちゃんはただ、その後についていけばよかった。

埠頭を抜けると、基地はすぐそこだった。大きな軍艦が浮かんでいた。何機もの戦闘機がアーちゃんのほうを向いて並んでいた。アーちゃんが小さなクジ ラとぼんやりと戦闘機を眺めていると、キアヌを乗せた親クジラがすーっと寄ってきた。そして、潮を吹き上げると、まるで、潜水艦が海の底に潜って行くよう に、静かに沈んで行った。キアヌもクジラと一緒に沈んで行った。アーちゃんと小さなクジラも、その後を追って、海に潜った。

クジラはどんどんと沈んで行った。きらきらと何本もの細い線となって太陽の光が薄く辺りを照らしていた。海の底にはいろいろなものが沈んでいた。珊 瑚礁の合間に真珠湾が沈んでいた。軍艦や戦闘機が瓦礫の山になって沈んでいた。東京の街が沈んでいた。焼け野原の中にぽつんと西郷さんが立っていた。クジ ラが回りをゆっくりと泳ぎ、キアヌが珊瑚礁を優しく撫でた。珊瑚礁は真っ白な細かい粒になり、辺りに降り注いだ。 アーちゃんも小さなクジラも、キアヌのように珊瑚礁を撫でながら、沈んだものの周りを泳いだ。永遠とも思えるほど、ぐるぐると回った。やがて、クジラもキ アヌもアーちゃんも小さなクジラも皆、珊瑚礁と見分けがつかなくなった。全てが真っ白な細かい粒になり、なにもかもを包み込んだ。しばらくすると、真っ白 な海の底から悲しみがぼーっと浮かんできた。何もない大地に悲しみがいつまでも漂っていた。やがて、悲しみの中から、小さな芽が出てきた。その芽は何もな い白い大地に、懸命に芽生えようとしているみたいに見えた。

 

タマラが揚げたてのドーナツを箱いっぱいに抱えて墓地へ着くと、父親のお墓の前に既にドーナツが2つ置いてあった。隣に並んだ息子のお墓にも一つ置 いてある。触ってみると、まだ温かくやわらかかった。いったい誰が供えてくれたのだろう? と考えていると、ふいに風が吹いた。頭上で榕樹の大木が涼しげ に葉を揺らした。ドーナツの甘い香りが漂う。そして、甘い匂いとともに指先ほどの小さなものがひらひらと降ってきて、ドーナツの上に落ちた。それには気が つかず、タマラは教会へ行った。タマラが腕に抱えた揚げたてのドーナツの入った箱を見て、牧師さんはにっこりと微笑んだ。すかさず、一つを手に取り食べよ うとして、おや? という顔をした。そして、言った。「ドーナツに桜の花びらがついていますね。いったい、どこから飛んできたのでしょう?」

 


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ほさかひろこ Hiroko Hosaka / 小説書き、朗読者、指圧師見習い

短編小説を地道に執筆。詩や絵本、小説の朗読を 行う。マラソンなど延々とする感じのことを好む。最近、家の猫が2匹になり、猫のことばかり考える日々を過ごす。bpnf1219@gmail.com

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田之上尚子 / 挿画家

ペンと水彩で、物語の世界を描く。絵本・エッセイ挿絵・ポスターイラスト等手がけたり、年に2、3回画廊やギャラリー、病院内で個展を開催。

音楽も好きで、長野県松本発バンド『有機幻燈』に所属し、パンデイロなどの、鳴物も勉強中。

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HosakaHiroko

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小説書き、朗読者、指圧師見習い 短編小説を地道に執筆。詩や絵本、小説の朗読を行う。マラソンなど延々とする感じのことを好む。最近、家の猫が2匹になり、猫のことばかり考える日々を過ごす。 田之上尚子 / 挿画家 ペンと水彩で、物語の世界を描く。絵本・エッセイ挿絵・ポスターイラスト等手がけたり、年に2、3回画廊やギャラリー、病院内で個展を開催。 音楽も好きで、長野県松本発バンド『有機幻燈』に所属し、パンデイロなどの、鳴物も勉強中。
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