Magazine
Mar 1, 2016

いつか、むかしのはなし

物語が聴こえはじめた

Text by Hiroko Hosaka & Illustration by Naoko Tanoue

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車の窓から見える何もかもが碧かった。空が碧い。海が碧い。絵本の中の色鉛筆の碧で塗ったみたいな碧だった。絵本の空は本物だったのだと思った。空も海も本当は碧いのだ、と思った。マルクもどこかで、こんな碧を見たのだろうか?

 

ある日、おじいちゃん宛てに電話があった。梅雨の合間のよく晴れた6月の水曜日の午後だった。大学の授業が昼前に終わり、私は家の居間でデッサンの練習をしていた。その横でおじいちゃんが、誰かがテーブルの上に置きっぱなしにした高島屋の紙袋を解体した裏に花火の絵を描いていた。どこか古典的な、昔懐かしい感じのする大きくて丸い花火だった。おじいちゃんは、駅前の百円ショップで買ってきた24色の色鉛筆で丁寧に色を塗っていた。 花火は絵本に出てくる空や海みたいな碧だった。家には私とおじいちゃんと猫だけがいた。パパは会社、ママはパート、お兄ちゃんは数年前からどこかの国を放浪中で留守だった。2人のたてる鉛筆の音と冷房のぶーんという冷たい音だけがしていた。たまに猫が板の間を歩くカシャカシャという音がした。

トゥルルルというやわらかい電話の音がして、一瞬、冬の暖かい部屋にいるような気がした。おじいちゃんの長岡の家には夏にしか行ったことがなかったが、亡くなったおばあちゃんがよく、冬の話をしてくれた。電話の音からその暖かいこたつの感じがふとしたのだ。私は立ち上がって受話器を取りに行った。「島峰誠さんはご在宅でしょうか?」と、訛りのある女性の声が丁寧に尋ねた。しまみねまこと? うちは島峰ではなく、竹内なんだけどなと思ってから、それがおじいちゃんのフルネームだと気がついた。おじいちゃんはママのお父さんなので、うちとは苗字が違うんだったことを思い出した。それに、おじいちゃんにかかってくるのは大抵、香港に住んでいるママの妹のサトコちゃん夫婦か、弟のマサヒコおじさん夫婦からだから、おじいちゃんをフルネームで呼び出す人などいない。私は慌てて「はい、おります。今、代わりますので、少しお待ちください」と言い、熱心に花火の絵を描いているおじいちゃんに受話器を向けた。

おじいちゃんは、去年、おばあちゃんが亡くなったことで、東京のうちの家族と住むようになるまで、長岡の花火工場で花火師をしていた。ここ数年はさすがにフルタイムではなく、年に一つ作るだけだったが、たった一つでも、幾つも上がる花火の中から、私はおじいちゃんの花火を見分けることが出来た。おじいちゃんの花火は私がもっとも敬愛している画家、マルク・シャガールの描く世界と同じだったからだ。暖かな光を大空に描いていたからだ。でも、どうしてだろう? と思う。あんなにたくさんの悲しいことを経験した後で、どうして、あれほど暖かい光を描くことができるのだろう?

おじいちゃんと2人で美術館にマルクの絵を観に行ったことがあった。私が美大に受かったことへの、おじいちゃんからのお祝いだった。あの日、おじいちゃんはマルクの碧い絵の前で戦争の話をしてくれた。戦争とは第二次世界大戦のことだ。淡々と静かに話すおじいちゃんの中に、泣くのをじっと我慢している島峰誠がいた。 おじいちゃんという着ぐるみの中で、泣くのをじっと我慢している島峰誠という少年がいるのを感じた。今、目の前で受話器を握りしめているおじいちゃんはあの日と同じ顔をしていた。島峰誠の顔をしていた。

 

果たして、電話は長岡からだった。終戦70周年の今年、長岡の花火師の手でハワイに花火を上げようという企画が進められており、そのイベントにおじいちゃんを招待したいということらしい。私は耳を疑った。ハワイといえば、日本が真珠湾攻撃をやったところだ。私でも、それくらいは知っている。正確には、おじいちゃんに話を聴いてから、ネットで戦争についてちょこちょこと調べるようになって知った。山本五十六が指揮した攻撃だ。これがきっかけになってアメリカが参戦し、第二次世界大戦が始まった。そして、広島、長崎、沖縄、東京という有名どころだけでなく、日本中が、おじいちゃんの故郷の長岡も含めた日本の津々浦々が、ぼっこぼこにされることになるのだ。「日本をぼっこぼこにしてもいいですか?」という問いに、世界が満場一致でゴーサインを出すようなエクスキューズを日本はアメリカに与えた。中国はもとより、世界中どこへ行っても日本のエクスキューズが転がっていない国などないと言ってもいいくらいだ。そして、真珠湾攻撃は、てんこ盛りのエクスキューズの山を噴火させる最後のどでかいエクスキューズだった。そんなところに出向いて行って花火など上げさせて貰えるのだろうか? 五十六の故郷が長岡であるということは、もちろん伏せておいたほうがいいだろう、などと私は思った。

しかし、興奮しているのは私だけで、おじいちゃんは、島峰誠から穏やかなおじいちゃんに戻っていた。いつもの様子で、静かに、自分は是非、ハワイに行きたいと言った。戦闘機が埋め尽くした空に花火の花が咲くのが見てみたいと言った。「モナに話したことがあったかな? 火薬を発明したのは中国の人らしいけれど、中国の人は鉄砲を作るより花火を作るのに夢中になったそうですよ」おじいちゃんは傍に来た猫を抱き上げて膝の上に寝かせた。猫はそのままおじいちゃんの膝の上で昼寝の続きを始めた。おじいちゃんがノドの辺りを撫でると、ゴロゴロと音を鳴らした。おじいちゃんは続けた。「このことは話しましたね。爆弾を落とされるというのは実に嫌なものです。花火の光や音は焼夷弾が落ちてくる様子に似ています。それで、怖がって花火を観たくない人がたくさんいます」おじいちゃんは猫のノドをずっと撫でていた。続けて言った。「モナのおばあちゃんみたいにね」それを聴いて私は言った。「でも、最後の最後におばあちゃんは観ることが出来た」おじいちゃんはにっこりすると「ハワイの人が、日本軍か?  とびっくりして空を見やった時に、戦闘機ではなく花火が上がっていたらいいと思います。日本はこの70年間、爆弾ではなく花火を作っていたのですから」と言った。

私はおじいちゃんの話すのを聴いていて、だんだんと気持ちの落ち着いて来るのを感じた。ここ半年で詰め込んだ知識のために頭でっかちになっていて、激した感情が先行してしまった。時は流れているのだ。そうだ、70年がたったのだ。おじいちゃんが一生かけて島峰誠を慰めて見守ってきたように、ハワイの人々にも辛く長い日々があったはずだ。私はそのことに耳を傾けなくてはいけない。 美術館で、マルクの碧い絵の前でおじいちゃんの話を聴いた時のように。 それが70年を80年にし、100年にしていくことになるはずだ。そういうことを私はすぐに忘れてしまう。おじいちゃんが言った。「一人で行くのは不安です。モナが一緒にハワイに来てくれると嬉しいのだけれどね」

 

私もおじいちゃんも海外旅行は初めてだったので、パパもママも少し心配したみたいだ。けれど、今回の花火イベントを運営している人の一人が東京に住んでいて、成田からハワイまで私たちと同行してくれるということで、お許しが出た。イベントは終戦記念日に合わせて8月14日と15日に行われるということだ。私がちょうど夏休み中だということも幸いした。

同行してくれるのはかな子さんという女性だった。東京で貿易会社を経営している。ハワイからウクレレやアロハシャツなどを輸入しているのだそうだ。彼女の親戚のおじさんがハワイに住んでいて、買い付けを担当している。そのおじさんは終戦直後から米軍の人たちと交流があるということで、イベントの取っ掛りを作るのに一役買ったらしい。花火は真珠湾に浮かぶフォード島で行われる予定で、米軍の協力が必要だったのだ。私はパスポートのこととか何やらで、かな子さんとは事前に何度か会った。どちらかというと物静かな感じの人で、貿易会社を経営しているような人には見えない。貫禄というよりは優しい印象が強い。50歳だということだけれど、その雰囲気からかずっと若くかわいらしく見える。けれど、よくよく聴くと、学生の頃に靖国神社で巫女をやっていたとか、中国残留孤児サポートのボランティアをずっと続けているとかで、かな子さんとハワイに住んでいるというおじさんがどういう経緯で花火イベントに関わるようになったのかは分からないが、話を持ちかけられたら取りあえず断らないだろうと思わせるものがあった。この人も着ぐるみを着ているのかな? と思った。 何回か会ううちに、私はすっかりかな子さんを好きになっていた。

 

お盆の時期だからか、成田空港はかなり混み合っていた。けれど、かな子さんが丁寧に描いてメールしてくれた空港の見取り図があったお陰で、待ち合わせ場所にはわりとたやすく到着することが出来た。かな子さんはすでに来ていた。私を見ると、にっこり笑って手を振り、見送りに来たパパとママに向けて頭を下げ、それから横にいた女性2人に声をかけた。私とおじいちゃんの他にも花火イベントに行く人がいるみたいだ。しかし、その2人はかなり高齢のように見えた。おじいちゃんよりは少し若いみたいだけれど、80はいってそうだ。あまりの平均年齢の高さに、私たちはこれからハワイに行くという一行にはとても見えないだろう。そんなことを思ったとき、おじいちゃんが「あ!」と、珍しく大きな声を上げた。すると、おばあさんのうちの一人も「あ!」と言った。「タケさん?」「島峰さん?」と2人が同時に言った。

タケさんは、長岡で少し暮らしたことがあり、その時におじいちゃんと知り合いになったらしい(ママも若いころにタケさんに会ったことがあり、懐かしそうに挨拶をしていた)。タケさんのお姉さんがおじいちゃんと同じ花火工場で働いていたのだ。タケさんは中国残留孤児だそうだ。かな子さんとのつながりはそこ。もう一人のおばあさんは中国人でヤンヤンさんという。タケさんを育ててくれた家の子だそうだ。2人は姉妹のようにして育った。タケさんは中国と日本の国交が回復してまもなくして日本へやってきた。タケさんの家族のうち、生きていたのはお姉さんだけだった。タケさんはお姉さんを頼って長岡に行き、そして、花火師としてバリバリに働いていたおじいちゃんに会ったと、そういうことらしい。

ホノルルまでの7時間以上のフライトも、タケさんたちの思い出話を聴いていたお陰で、あっという間だった。おじいちゃんもタケさんもヤンヤンさんも話し疲れたのか、電灯の消された静かな機内で寝息を立て始めた。かな子さんと私は、フライトアテンダントの人に暖かいお茶を入れて貰い、声を小さくして話をした。ハワイへは何度も行ったことがあるとはいえ、爺ちゃん婆ちゃん3人に、海外旅行は初めてだという大学生を引率するはめになったかな子さんは、本当は少し心配だったそうだ。長岡の花火師がハワイで花火を上げることになったという話を何気なくしたところ、タケさんがいたく食いついてきた 。タケさんとヤンヤンさんとは長い付き合いだし、彼らも高齢だし、2人がとても行きたそうにしている様子を見て一緒に行こうと誘った矢先、ハワイのおじさんから連絡があった。長岡の工場(こうば)がリタイアした花火師を招待するのだけれど、その人は今は東京に住んでいるから連れて来てくれと頼まれてしまい焦ったと言って笑った。「でも、島峰さんとタケさんが知り合いだったとはね」と、かな子さんは紙コップに入った鮮やかな若葉色のお茶をすすった。「私が残留孤児サポートのボランティアを始めた頃には、タケさんもヤンヤンさんも日本に来て随分たっていたから、どういう風にして永住を決めたのか、どういう風にしてヤンヤンさんを呼び寄せたのかも知らなかったの。ただ、そう言われると、たまに、長岡に花火を観に行きたいと言っていた。今回のイベントの話をしたのも、そのことが頭のどこかにあったからだと思う」かな子さんは席を立って、斜め後ろに座っているタケさんの肩から少しずれた毛布を直した。それから、私に向きなおって聴いた。「モナちゃんのおじいさまの花火ってどんなだったの?」私は言った。「マルク・シャガールの描く絵みたいです。大空に暖かい光を描くんです」それを聴いてかな子さんが笑って言った。「モナちゃん、美大だもんね」それから、真顔になって言った。「きっと、いろいろな人がおじいさまの花火に励まされてきたのね」私たちは、飲み終わったお茶の紙コップをちょうど通りかかったフライトアテンダントに預け、到着まで少し眠っておくことにした。

けれど、私はなかなか眠れなかった。薄い毛布にくるまりながら、おじいちゃんやおばあちゃんやタケさんのことを考えていた。皆、戦争で家族のほとんどを失っていることに気がついていた。パパやママやお兄ちゃんが死んでいなくなった世界を想像してみた。サトコちゃんたちや、マサヒコおじさんたちのいない世界。私はそれを上手く想像することが出来なかった。そして、上手く想像出来なくてよかったと思った。なぜなら、それは想像であって、現実ではないからだ。私に想像など出来るはずがないのだ。家族がいっぺんにいなくなった人がハワイにもたくさんいるのだろうか? 花火を観て泣き出す人がいるのだろうか? ハワイに行くのが少し怖くなった。でも、もう飛行機に乗ってしまっている。私は隣の席で眠っているおじいちゃんの腕に自分の腕を絡ませた。暖かいおじいちゃんの体温が伝わってきた。胸がゆっくりと上下に動いているのが、薄い毛布の上からでも分かった。おじいちゃんが生きていてくれてよかったと思った。おじいちゃんが悲しいのに頑張って生きていてくれたから、私はおじいちゃんに会えたのだと思った。いつの間にか眠っていた。

 

ハワイで私たちを出迎えてくれたのもまた老人だった。 飛行機を降りて、パスポートをチェックされたり、スーツケースをピックアップした後で、もわんとした空気の朝の中に出ると、白い麻のスーツにパナマ帽、スーツの中は水色と黄色の細かい柄のアロハシャツ、裸足の足に履き込まれた白いスリッポンという、ハワイアンな雰囲気の老人が出迎えてくれた。トオルさんだ。かな子さんと一緒に貿易会社を経営しているというおじさん。それにしても私は初の海外旅行で老人ばかりに囲まれている。しかし、どの老人もとても元気だ。トオルさんは、私たち全員にアロハシャツをプレゼントしてくれた。タケさんとヤンヤンさんだけでなく、おじいちゃんまでもが大喜びをして、到着ロビーで早速羽織ってみていた。色鮮やかなシャツは老人たちにとてもよく似合った。昨夜、飛行機の中で聴いたタケさんの話を思い出した。長い日々が老人たちを静かな淡い色合いにしてきたのだろうと思った。だから、こんなにアロハシャツが似合うのだろう。

ふと見ると、そのカラフルなアロハシャツのカーテンの端で、こちらを見ている女の子がいるのに気がついた。私と同じくらいの年齢のアジア系の女の子だった。老人たちとコントラストを描くかのように、白いシンプルなワンピースを着ていた。よく日焼けしたすらりと伸びた手足の長身に白が似合っていた。私と目が合うと少し微笑んだ。そして、ワンピースの裾をふわりとさせ、どこかへ駆けて行った。裸足の足についていた砂が床に散らばった。それが朝の太陽にキラキラと光った。とてもきれいに光っているので寄って行ってみると、それは砂粒ではなく、桜の花びらだった。

 

ホテルまではトオルさんが車で送ってくれた。80も後半なのに車の運転? と思ったが、ハワイではそう珍しくもないということだった。おじいちゃんが助手席に座り、小柄な女たち4人は後ろの座席にぎゅうぎゅうと押しこまれた。かな子さんの肩越しに窓の外を見ていると、目に入る何もかもがすぐに碧くなった。空が碧い。海が碧い。絵本の中の色鉛筆の碧で塗ったみたいな碧だった。絵本の空は本物だったのだと思った。空も海も本当は碧いのだ、と思った。マルクもどこかで、こんなハワイの空みたいな碧を見たのだろうか? と思った。

ホテルに着くと、夕飯の時にまた会うことにしてトオルさんは一旦帰って行った。花火イベントはあさってからなので、最終的な打ち合わせやら何やらで忙しそうだ。私たちは花火打ち上げに先立ってあさっての昼間に行われる追悼式から出席することになっている。それまでのんびりとホノルルを散策することができるというわけだ。私は早速、外を歩いてみたかったが、老人たちは少し部屋で眠りたいと言った。かな子さんはその間に幾つか仕事を済ませたいと言った。「モナちゃん、一人で大丈夫? 昼過ぎには区切りをつけて、皆でご飯を食べに行こうと思うけど」私は、飛行機の中でタケさんたちから聴いた話がまだわさわさと頭を揺らしていたので、一人で散歩をしたいと思っていた。それで、「大丈夫。あまり、遠くには行かないようにするから」と言った。

私はビーチサンダルとショートパンツに履き替え、トオルさんから貰ったアロハシャツを着た。焦げ茶の地に黄色いパイナップルとピンクの花(プルメリアという花だそうだ)が散っている。それらの葉っぱの緑とで、4色の原色が混ざっているわけだが、おじいちゃんたちのアロハに比べると、ずっと地味なように思った。私自身の色がまだどぎついから、これくらいがちょうどいいのだろう。小銭入れに少しのアメリカドルとホテルの住所の書かれたカードをしまい、携帯といっしょにショートパンツのポケットに押し込んだ。かな子さんに言われて持ってきたサングラスをかけ、部屋に置いてあった無料の水のボトルを持って外に出た。おじいちゃんはアロハシャツのまま、ベッドの中ですでに寝息を立てていた。

 

まっすぐ南に行けば海だと言われたのでそうしてみると、果たしてそこは確かに海だった。西側をみると、道路の先に背の高いビルがたくさん見えた。東側をみると、空が広々としていた。それで東側へ向かって歩いた。右側に海を見ながら歩いた。時折、枝がぶらぶらとブランコの鎖のように垂れ下がった大きな木があった。地面まで垂れた枝は、そのまま幹になっていた。何本もの木が生えているように見える不思議な木だった。後でかな子さんに聴くと、菩提樹の一種だということだった。英語だとバンヤンという。誰もいないバンヤンの木の横を通ったときに、私は林みたいになった幹と幹の隙間に入ったり、まだ地面に届かない枝にぶら下がってターザンみたいに揺れたりしてみた。すると、頭上の葉っぱがさわさわと鳴り、何枚かがひらひらと落ちてきた。手の平をかざすと、それは葉っぱではなく、桜の花びらだった。先ほど空港で見たのと同じだった。私は一枚をショートパンツのポケットにしまった。

辺りを見渡してみると、想像通りに、海のほうに歩いていく白いワンピースが見えた。私は後を追った。波打ち際まで来ると、ワンピースの子が急に振り返った。私が後をつけてくることが分かっていたように、ゆっくりと微笑み、口を開いた。「もうすぐ、キアヌが帰ってくるよ」日本語だった。それから、「私はアーちゃん」と言った。私も自己紹介しようとしたときに、海のほうからばっしゃーんという大きな音がした。海面高く飛び上がった大きなクジラがまさに着水したところだった。その振動で波が浜に押しよせてきた。波は青年を一人連れてきた。全身ずぶ濡れのその子がこちらに向かって歩いてきた。私やアーちゃんと同い年くらいに見えた。この子がたぶん、キアヌなのだろう。 日本人ではないみたいだ。肌の色が少し濃い。ハワイの現地の人かもしれない。 俳優のキアヌ・リーブスの名前はハワイのものだと聴いたことがある。なぜか、彼は軍隊のユニフォームを着ていた。私を見ると、ハーイと言って右手を軽く上げた。私がアーちゃんのほうを見ると、そう、この子がキアヌよ、とでも言うように頷いた。2人が黙っているので、私はさっきし損なった自己紹介をしてみた。「モナです。日本から来ました。あさってとしあさって、真珠湾のフォード島で日本の花火が上がります。それにおじいちゃんが招待されたので、一緒に来ました。おじいちゃんは去年まで花火師をしていました」我ながら、教科書みたいな喋りだと思った。アーちゃんが通訳する素振りはなく、2人はやはり黙ったままだ。フォードという言葉を聴きとり、軍隊の子だから、日本人による真珠湾攻撃を思い出して不快に思ったのかもしれない。不安になり始めた頃にキアヌが口を開いた。アクセントはあるが、かなり流暢な日本語だった。「明日またクジラに乗るから、モナもよかったら来て」そして手を差し出し、板チョコをくれた。私は「ありがとう」と言ったものの、なぜ板チョコ? と手渡されたチョコを見ていた。東京の高級スーパーマーケットで売っているような、いかにも外国のものという感じのパッケージだった。顔を上げると、2人の姿はなかった。静かな海があるきりだった。

 

夕飯はトオルさんが家に招待してくれた。長年連れ添ったモアナさんというハワイ人のガールフレンドがいて、たくさんのご馳走を作ってくれていた。その家はモアナさんが育った家だということだった。私が昼間歩いた辺りよりさらに東にずっと行ったところにあった。平屋のこじんまりとした家々の建ち並ぶのんびりとした地域だった。空が海と同じくらいに広い。白人さんはあまり見かけず、ハワイ人の小さな子供たちが道路に出て遊んでいた。車やバスで少し行けば、ホノルルの中心街の観光客でごった返した辺りに行けるということだが、それはとても遠い世界のように思われた。日本の下町の感じがした。トオルさんは上野で生まれ育ったとのことなので、それで、モアナさんの家に住もうと思ったのかもしれない。

夕飯は楽しかった。トオルさんとかな子さんが適当に通訳を入れてくれ、皆でわいわいとおしゃべりをしながら食べた。誰も戦争の話はしなかった。トオルさんとモアナさんのなれそめとか、タケさんとヤンヤンさんが東京でやっている美容室の話とか、花火の作り方とか、私の大学のこととか。私は皆の話を聴きながら、トオルさんやモアナさんにもきっと、着ぐるみを着なければやっていけなかったような体験があるのだろうと思った。麻のジャケットを脱いでアロハシャツ姿になったトオルさんにも、ムームーみたいなのを着たモアナさんにも、その派手な色合いがとてもよく似合っていたからだ。

夕飯の後で、モアナさんがフラを踊ってくれた。モアナさんは、フラの先生だそうだ。フラの先生のことをハワイ語でクムというのだと教えて貰った。モアナさんはたぷんたぷんに太ったお腹を気持ち良さそうに優雅に振って踊った。花火を上げる前の追悼式で、モアナさんはフラを踊ることになっているとトオルさんが言った。私は、モアナさんにとっては、フラがおじいちゃんの花火みたいなものなのだろうと思った。

良い気持ちでモアナさんのフラを眺めていて、ふと、その後ろの壁にかかっている写真に目が留まった。どこかの写真館で何かの記念に撮ったようなもので、軍隊のユニフォームを着た青年が少し斜めを向いてかしこまって写っている。その姿をどこかで見たような気がし、数秒して、昼間に浜辺で会ったキアヌにそっくりであることに気がついた。アーちゃんの登場の仕方や、ユニフォーム姿でクジラに乗ってきたキアヌを見たことから、何か妙なことになってきていると思っていた。だから、私は落ち着いていた。そして、モアナさんがフラを一休みしたときに、壁のほうに行ってみた。よくよく見ても、それはやはりキアヌだと思われた。壁の前には50年代風の低い戸棚が置いてあり、その上にも家族のであろうと思われる額に入ったスナップ写真やら置物やらがきれいに並べられていた。写真を一つ一つ見ていくと、その中に何枚か、子供のころのモアナさんが男の子と2人で写っているものがあった。ふと、背中に人の気配がし、「兄のキアヌと私よ」とモアナさんが言った。「キアヌは真珠湾攻撃の後で日本へ行って空襲に参加したのよ」英語だったが、ゆっくりと区切りをつけて話してくれるモアナさんの低めの声にエルダーブラザーとか、キアヌとか、パールハーバーとか、ジャパンとか、アタックとかの単語を聴き取ることが出来た。それで、そんなことを言っているのだろうと思った。たぶん、お兄さんは、キアヌは、ハワイに帰って来なかったのだろう。年老いたご両親と中年のモアナさんだと思われる写真は何枚かあるのに、キアヌの写真だけが若いままだったからだ。私はふと、キアヌは東京を空襲したのではないかと思った。アーちゃんはその時の空襲で亡くなった人なのかもしれない。トオルさんのお姉さんか妹さんなのかもしれない。空港でアーちゃんを見たとき、トオルさんにはお孫さんがいるのかと思ったのだ。ひょろっと長身なところ、すらっと伸びた長い手足、少し垂れた感じの目元が、トオルさんに似ていたからだ。

その時、裏庭に面した開け放した窓から、かすかに潮の香りのする風が入ってきた。気持ちの良い風だった。「あら、まただわ」と言って、モアナさんが私の髪に触れた。そして「これ、桜の花びらでしょう?」と、指でそうっとつまんだ淡いピンク色の楕円形のものを見せてくれた。私は、アーちゃんとキアヌが来ているのだろうと思った。ショートパンツのポケットにしまった桜の花びらが熱を帯びたような気がした。「たまにね、花びらが舞ってくるのよ」モアナさんは特に驚いた風でもなく、淡々と言った。「チョコレートの香りがすることもあるの」

窓のほうを見てみると、やはり、アーちゃんとキアヌが立って、こちらを見ていた。私は自分の想像を確信に変えた。裏庭に立っている青年は、モアナさんのお兄さんだ。アーちゃんはトオルさんの姉妹だ。私は、アーちゃんとキアヌが庭に来ていることをモアナさんに言おうかどうか迷った。どうやら、モアナさんには2人が見えていないようなのだ。それで、あまりジロジロと庭のほうばかりを見ているのもおかしいと思い、部屋の中へ視線を移すと、窓の外を見ているかな子さんが目に入った。景色を眺めているとか、あら、いい風などと思っている感じではない。怯えているというのでもないが、戸惑っているような困っているような表情に思えた。アーちゃんとキアヌを見ているのだろうと思った。かな子さんには見えるのだ。私はそう思った。かな子さんなら、アーちゃんのことをトオルさんから聴いているかもしれない。モアナさんには今日のところは言わないでおくことにした。かな子さんと話してからでも遅くはない。私はモアナさんから桜の花びらを受け取り、匂いを嗅いだ。「ノーチョコレートスメル」と言ってみた。「トゥーバッド」と言ってモアナさんが笑った。

 

私はその夜、おじいちゃんの健康的な眠りの横でホテルの天井を長いこと見ていた。冷房はつけずに窓を開けていた。遠くの方から時折、観光客が騒いでいるのが聴こえた。私がアーちゃんとキアヌの話をしたとして、モアナさんにしろ、トオルさんにしろ、おじいちゃんにしろ、いや、タケさんもヤンヤンさんも、たぶん、話を聴いてくれるだろうと思った。彼らに共通しているのは、元気な老人ということだけではない。生きている人と死んでいる人との間にあまり境目を持っていないという点でも似ている。色鮮やかなアロハシャツが似合う彼らの持つ静かな淡い色合いは、死に近い感じがする。それは彼らが老いているからというだけではないように思う。あまりにたくさんの人を突然失ったり、大事な人を意味もなく傷つけられたりしたことが、彼らの色を淡くしていったのだと、私には思えた。あの色はそういうことを表現している。私が今日、アーちゃんとキアヌのことをあの場で言わなかったのは、だから、信じて貰えないからとか、訳の分からないことを言っていると怒られるからとか、そういうことではない。皆が忘れようとして淡い色になっている上にぐちゃぐちゃに色を塗りたくってしまうことになるかもしれないと思ったのだ。少し前に、サトコちゃんがフェイスブックに友達の詩人の詩を紹介していた。「エンペラア・ハズ・ダイド」という題名だった。そこに書いてあったことが頭に残っていた。

 

忘れるわけにはいかないが
忘れなければ生きられなかった
と いつか聞いた
ことがある

 

その時に思った。マルクの絵の前でおじいちゃんが話してくれたことは、忘れるわけにはいかないけれど、忘れなければ生きられなかったことなのではないかと。おじいちゃんは、おじいちゃんの代わりに私に覚えておいて欲しかったのではないかと。おじいちゃんは、いい加減もう忘れたいのだろうと思った。アーちゃんもキアヌも、トオルさんやモアナさんの代わりに私に覚えておいてくれないか? と頼んでいるのかもしれない。明日、かな子さんと話そう。その後、あの浜に行こう。そう決めたら、あっという間に眠りに落ちた。

 

「トオルさんの妹だと思う」と、かな子さんは言った。「トオルさんの妹は当時まだ小学生だったから、年齢がちょっと違うのだけれどね」私たちは、ホテルのロビーでアイスコーヒーを飲みながら話をしていた。老人たちは元気に見えてもそこは老人なのか、午前中は精力的に観光していたものの、昼食の後は休みたいと言ったので、私たちはホテルに戻ってきていた。老人たちはそれぞれの部屋で静かにしていた。今ならアーちゃんやキアヌのことを話せると思い、私はかな子さんを散歩に誘った。老人たちを彼らだけで残したくないとかな子さんが言い、私たちはロビーでお茶を飲むことにした。

かな子さんの話はこうだ。トオルさんには戦争当時、小さな妹がいた。彼女は東京大空襲の日に行方不明になった。消息は分からず、遺体も見つからなかった。妹はアーちゃんと呼ばれていた。トオルさんの生まれ育った上野は、なぜかそこだけぽっかりと空襲を免れた地域で、アーちゃん以外の家族は全員無事だった。上野の山の西郷さんの銅像には爆弾は落ちないという噂がたち(結局、それは本当だった結果になったわけだが)、大空襲の日には、多くの人が西郷さんの周りに集まっていた。その中でアーちゃんはいなくなってしまった。かな子さんは親戚の誰かからそういう風に聴いたと言った。「そこだけ記憶がぼんやりしていて、はっきり覚えてないのだけれど、たぶん、トオルさんのお姉さんにあたる、私の祖母からだったと思う」と言った。「面倒臭いのでおじさんって言っているけど、正確にはトオルさんは大叔父なの」と、かな子さんは説明した後で本題に戻った。兄弟姉妹がたくさんいた中で、末っ子のアーちゃんを面倒みていたのがトオルさんだった。きちんと手をつないでいなかった自分のせいで、アーちゃんがいなくなってしまったと悔いているのではないかと、かな子さんは思っていた。

「ところで、かな子さんは死んだ人が見えるの?」と私は聴いてみた。「学生のころに靖国神社で巫女のアルバイトをしていた話はしたわよね?」かな子さんが言った。「大学を卒業する時に巫女はやめたのだけれど、その数年後の終戦記念日の日に、すごい数の幽霊を見たことがあった」テーブルの上に置いたアイスコーヒーのコップの周りに、水たまりが出来ていた。水着の上にTシャツを着ただけの家族連れが、がやがやと目の前を通り過ぎていった。「東京駅で靖国神社までの行きかたを聴いてきた老人をなぜか案内することになってね。神社まで行ったら、囲いの外側にも内側にも山のような幽霊がいるの。びっくりしたわ」かな子さんは目の前のコップを持ち上げて、水がぽたぽたと落ちるのをしばらく眺めていた。「靖国神社は基本的に軍人ばかりが祀られているのよね。空襲だとかで亡くなった一般市民の霊は境内に入れないのだと思う。神社の囲いの外には、全身焼けただれた人とかがうようよいた。中国人とか韓国の人もいた。中に入れてくれと囲いを登ろうとしたりしていた」かな子さんは続けた。「その時にね、トオルさんのことを見たの。まだ15かそこいらの男の子が境内の桜の木のところにいて、ぼんやりしていた。私は最初、その子も幽霊だと思ったのだけれど、東京駅から一緒に来た老人が、あの人は生きてますよって。一番幽霊っぽかったからぎょっとしていたら、その子が私に気がついて、なんだ、かな子じゃないか、なんて言うから、本当にびっくりしたわ」私は思わず聴いてしまった。「それは、あの、トオルさんは実際にそこにいたってことですか? それとも、なんというか、所謂、生霊ですか?」かな子さんはそれには答えず「トオルさんの中にはまだ、アーちゃんを見失った日のトオルくんが生きているのだと思う」と言った。

 

「一緒に行こうか? トオルさんに連絡しておけば、少しくらいホテルを離れても大丈夫だと思う」とかな子さんは言ってくれたが、私はお礼だけ言って一人で浜辺にやってきた。昨日遊んだバンヤンの木には、今日も誰もいなかった。私は太い幹のところに腰を下ろし、アーちゃんとキアヌを待った。待ちながら考えていた。おじいちゃんも生霊になったことがあったのかな? と。私の前に生霊として現れないのは、既に話をしたからだろうか? と。トオルさんはまだ誰にもアーちゃんのことを話せていないのだろうか? と。モアナさんはどうなのだろう? と。ぐるぐる考えていると、ふわりと風が吹いて目の前がまっ白になった。アーちゃんが白いワンピース姿で立っていた。アーちゃんはくるりと海のほうを向くと、そのまま歩いて行った。私は腰を上げてアーちゃんについて行った。今日はチョコレートの匂いがした。

アーちゃんはワンピースが濡れるのも構わず、どんどん海の中に入っていった。私はポケットに入れてある携帯のことが気になったが、仕方なく後に続いた。海はすぐに足がつかない深さになった。私はアーちゃんを見失わないように、顔を上げたまま平泳ぎでついて行った。しばらく泳ぐと、アーちゃんが海の中に潜った。私も慌てて潜った。水は碧く透明で、たくさんのカラフルな魚が泳いでいるのが見えた。魚は私のお腹の下を通ったり、背中を超えて行ったりした。どの魚も、私のそばを通る時に、横目でちらっとこちらを見た。私は魚について行ったり、ついて来られたりしながら、碧い海の中を泳いでいた。マルクの碧と同じ、どこまでも碧い海の中をいつまでも泳いだ。

ふと、自分が呼吸をしていないことに気がついた。パニックになりそうになった時、下のほうに巨大な何かの気配を感じた。次の瞬間、私は地上に出ていた。碧い空と碧い海が何ものにも遮られずに広がっていた。私の肩越しにキアヌがにゅっと顔を出した。「ハロー、モナ!」後ろを見ると、私のすぐ後ろにキアヌ、そのまた後ろにアーちゃんがいた。もしかしてと思い状況を確認してみると、私はクジラの背中の上に乗っていた。身体中にボコボコと何かがついている大きなクジラだった。母親クジラなのか、すぐ脇に小さなクジラがいた。大きなクジラは私が状況を理解したことを合図にしたかのように動き出した。私たち3人を背中に乗せたまま、潜水艦のように海に沈んでいった。小さなクジラも大きなクジラについて潜ってきた。

 

ポケットの中の携帯が震えて、私は目を覚ました。バンヤンの幹のところに座っていた。全身に白いザラザラとしたものがついていた。髪の毛が濡れていた。携帯を取り出してみると、かな子さんからだった。画面の右上の数字が現在の時刻が6時過ぎであることをつげていた。 太陽は繁華街のほうに傾いていた。慌てて電話に出てみたが、何も聴こえない。大声で「かな子さ~ん、聴こえますか~」と叫んだその瞬間、携帯が死んだ。私は大急ぎでホテルに戻った。小走りしながら、私は本当にクジラと海に潜ったのだろうか? と思った。そこで見た光景は全て本当にあったことなのだろうか? 私は、海の底で、アーちゃんとキアヌが死んだ日のことを見たのだった。

 

イベントは8月14日と15日の2日間に渡って行われた。一日目の昼間には、パンチボールというニックネームのついた国立太平洋記念墓地で関係者だけでの追悼式があった。米軍の人やホノルルと長岡の両市長が挨拶をした。長岡からは、平和交流の何かでホノルルに来ているという中学生たちや少年少女合唱団の子供たちも参加していた。彼らは、明日の一般公開される花火大会で平和宣言をしたり合唱を披露したりするということだった。おじいちゃんや工場(こうば)の人たちは後ろのほうに少し緊張した顔で立っていた。

パンチボールはホノルルの住宅街の真ん中にドカンとある山の噴火口に作られている。その平たいパンチボールみたいな形に縁取られた大きな敷地にずらっとお墓が並んでいる。4万5千人以上の兵士(と何人かの宇宙飛行士など)が埋葬されている。活火山だったのははるか昔、7万5千から10万年前ということで(というようなことが隣接している博物館に説明されていた)、空から撮った写真を見ると山は青々とした緑に覆われていて、古墳に見えなくもない。国を王様に例えるならば、王様の死とともに彼に命を捧げることになった人が眠っているという点も似ている。ただ、国というものは、王様と違って何がなんでも生き続けると思うが。ふと、明日、フォード島で花火を上げた途端に、死火山であるこの山が突然、噴火するような気がした。日本が世界各地にばら撒いたエクスキューズが再びハワイで爆発するかもしれない。私は慌てて頭を振り、そのいじけた考えを振り払った。

キアヌのお墓もパンチボールにある。マッシュルーム型にお揃いに葉っぱをヘアカットされたバンヤンの木が何本も植えられた敷地の、ちょうどそのうちの一本の根元にそれはあった。モアナさんはそこにお手製のドーナツを置いた。すぐ横のお墓にもドーナツを置いた。キアヌとモアナさんのおじいさんのお墓だ。おじいさんは兵士ではなかったが、真珠湾が攻撃された日、キアヌを探しに基地へ来たことで全身大火傷をし、間もなく亡くなった。そばにいた見知らぬ兵士に覆いかぶさって火から守ったそうだ。その勇気をたたえられ、おじいさんのお墓もパンチボールにある。私は辺りを見渡してみたが、アーちゃんもキアヌも今日は来ていないようだった。

モアナさんは、追悼式の最後に、フラの古典的な踊りであるカヒコを一人で踊った。おとついの夕飯の時の踊りとは全く違って、もっと力強い感じの踊りだった。その力強い感じに呼応するかのようにバンヤンの葉っぱが一斉にそよいだ。けれど、桜は舞わなかった。チョコレートの匂いもしなかった。私はそれが、アーちゃんもキアヌももう、全てのことを忘れたという合図であることを願った。

 

2日目の15日はいよいよ、一般のハワイの人々に公開される花火の打ち上げの日だ。真珠湾に浮かぶフォード島には3万人に近い数の人々が集まったと後で聴いた。花火の前に式典があり、昨日の追悼式に参加していた学生や、他にも長岡から来ているバンドが舞台に立っていた。人々は広々とした芝生の上に足を伸ばし、のんびりとした様子で座っていた。地元の人はもとより、観光でホノルルに来ていた人も観に来たのではないかと思う。なにせ、約2千発の花火が20分間に渡って次々に上がるのだ。

私は思い出していた。去年の今頃は、おばあちゃんもまだ生きていて、うちの家族とマサヒコおじさん夫婦は東京から皆で長岡に出掛けたし、サトコちゃんは香港から旦那さんの宇(ウー)おじさんとやって来たのだ。いつものように。ずっと、怖くて花火を観に来られなかったおばあちゃんが、わざわざ香港から来たのに家で一緒に留守番をしてくれていた宇おじさんに頼んで、こっそり観に来た記念すべき年でもあった。そして、それは、おばあちゃんにとって最初で最後のおじいちゃんの花火となった。花火が上がる様子は空襲に似ているから、おばあちゃんは怖かったのだ。ずっとずっと、怖いということを誰にも言えなかったのだ。だから、おじいちゃんは花火を作り続けた。「これは焼夷弾ではありません。花火です。日本は戦後ずっと爆弾ではなく花火を作ってきました。だからもう、焼夷弾を落とさないし、落ちてもきません」そう願って花火を作り続けた。それがおばあちゃんにやっと伝わったのだ。

などと考えていたら、一発目が上がった。シンプルで大きな白菊だ。観客から歓声が上がる。見渡してみたが、怖がって逃げる人はいないようだ。ほっとした。横でタケさんがヤンヤンさんの耳元に叫んでいるのが聴こえた。「ああ、この花火よ。この大きくて白いやつ。これを長岡で観たときに、アカシア美容室をあなたとやろうと思ったの」

次々に花火が上がった。赤と青と白の3色の花火、 その次には、新潟県で起きた大震災の復興を願うフェニックスが上がり、観客たちは花火が生きているみたいに光り踊ることに口をあんぐりと開けていた。星条旗をイメージしたという花火や最後には天地人花火というきらびやかなのが上がった。おじいちゃんを見ると、島峰誠になっていた。泣くのを我慢している島峰誠ではなく、花火にただ感動している誠くんという顔だった。と、その顔が驚きの顔になった。私のほうを見て、大空に手をやった。見ると、おじいちゃんが高島屋の紙袋の裏に描いていた碧い花火が上がっていた。それに続いて古典的な昔懐かしい感じの花火が どんどんと上がってきた。私とおじいちゃんの後ろに立っていたトオルさんが言った。「モナちゃんのお母さんが君のおじいちゃんが描く図案を長岡に送り続けていたらしい。おじいちゃんがどれだけ花火が好きかよく分かっておられたのだろうね」おばあちゃんが亡くなった後、ママは半ば無理矢理、おじいちゃんを東京の家に呼んだのだ。おじいちゃんから花火を奪ってしまったと思っているのかもしれない。おじいちゃんはママの美談を聴いているのかいないのか、食い入るように空を眺めていた。

そのおじいちゃんの横顔の上から何かが登っていった。気がつけば、いろいろな色の細長いものが次々に空に登っていく。まるで色鉛筆のロケットみたいだ。しかし、よく見ると、それは人間だった。老若男女を問わず、たくさんの人が空に登っていく。タケさんとヤンヤンさんを挟んで、その先にいるかな子さんを見ると、かな子さんにもやはり見えるのか、呆然として、花火ではないものを空に見ていた。私はすっと、かな子さんのところへ行き、「これは昇天ということですか?」と耳元で聴いた。かな子さんは呆けた顔を私に向けて、「分からないけど、靖国神社で幽霊を見た日の光景と同じ。東京駅で会った老人が、おにぎりとか、中国や韓国やいろいろな国でおにぎりにあたるような食べ物を広告の裏紙なんかに描いて来ていて、それを幽霊に配ると、幽霊は次々に空に上がったの。中国のお葬式の習わしを真似たのだそうよ」

私は、長岡の人の気持ちと、それを受け入れてくれたハワイの人の気持ちが紙のおにぎりの役割を果たしているのだと思った。おじいちゃんの花火を空に上げたいママの気持ちや、花火を作り続けることで日本を再び戦争に乗っ取られないようにしていたおじいちゃんの気持ちが、これらの人々を昇天させているのだろうと思った。おじいちゃん宛てに電話があった6月のあの日、私は、日本人がハワイで花火を上げるなんて無理だと思った。人々の怒りが日本人に向けられるのではないかと怖くなった。たぶん、私は国と国のことばかり考えていたのだ。人と人のことを考えると、怖いことは少なくなるはずだった。タケさんやヤンヤンさんやモアナさんと友達になることは、ずっと効力があって長持ちのする反戦なのだろうと思った。

と、その時に、アーちゃんとキアヌが昇っていくのが見えた。私が思わず「キアヌ!」と叫び、かな子さんは「アーちゃん!」と叫んでいた。はっとして、トオルさんとモアナさんを見ると、2人が、いや、おじいちゃんもタケさんもヤンヤンさんもこちらを見ていた。そして、トオルさんが言った。「アーちゃんはどこにいるの?」かな子さんはアーちゃんがゆっくりと昇っている夜空を指した。私はモアナさんに顔を向けて、キアヌが昇っている辺りを指した。タケさんが聴いた。「右腕のない中国人の男性はいる?」私は夜空を見渡した。花火は終わっており、イベント終了のアナウンスが流れていた。ゾロゾロと帰っていく人々の周りを一周してから昇天していくのがあった。タケさんとヤンヤンさんのすぐ上の空を見ると、右腕のない人が昇っていくところだった。軍隊のユニフォーム姿の胸に赤いシミをつけた男性や、その人に寄り添うようにしている美しい着物姿の女性が、やはり、昇っていくところだった。飛行機の中で聴いたタケさんの話に登場した人々だった。「タケさんのご両親もヤンヤンさんのお父さまも昇っています」と私は言った。今まで一緒に花火を観ていた3万人近い人々のどの頭上にも誰かがいた。そして、しばらく留まると昇天していった。私たちは花火の上がった後の夜空をずっと眺めていた。

 

ハワイから帰ってしばらくして、おじいちゃんが唐突に明治維新の時の長岡の話をした。「長岡が空襲にあって焼け野原になったのは、焼き討ちから77年後でした。モナ、ちゃんと見張っておいてくださいね」「どうやって?」と私が聴くと「絵を描き続けなさい」と言った。 今年は2022年。終戦から77年がたった。日本は不戦記録を更新中だ。私は26歳になった。絵は描き続けている。画家一本というわけにはいかないが、描き続けている。

 

今朝来られたクライアントはアフガニスタンから帰って来たアメリカ兵だった。男性だ。彼は、部屋に入るやいなや、すぐに絵を描き始めた。彼の描く絵はどんどんとどす黒くなっていく。病室には大きな窓があった。クライアントがいきなり飛び降りる可能性を考えて、残念ながら自由に開けられないタイプのものだったが、病院の裏庭とその先には海が見えた。海はどこまでも碧く、ずっと先まで広がっており、いつの間にか空とつながっていた。裏庭に植えられた樹木の葉っぱが気持ち良さそうに揺れており、海風が優しく吹いていることが分かった。兵士の絵にはその碧い空と海を否定するかのように、灰色のものが幾つも浮かんでいた。私はそれを良い兆候と判断した。彼の中の黒いものが絞り出されていると判断した。最初は彼の絵は明るい色をしていた。兵士は好んで窓の外に見える風景を描き、その中の空も海も青く塗った。けれどもそれは、マルクの碧やおじいちゃんの碧とは違った。空も海も青いはずだから、単に青く塗ったのがあからさまだった。彼の何ものも表現されていなかった。

私が勤める病院は軍の施設でもなんでもないが、クライアントの多くはアメリカ兵だ。特に中東から帰った兵士が多い。私はここで、絵によるセラピーを行っている。ドイツの医療法を取り入れた病院で、精神科には他に音楽療法などをする病室もあり、本職の音楽家や芸術家がセラピストに転向しているケースも多い。

 

ハワイで長岡の花火を観た後、老人たちの何人かが次々に亡くなった。最初はタケさんだった。ぎりぎりまでアカシア美容室を開いていたが、膵臓にガンがあることが分かり、入院して2、3日で亡くなった。苦しんだ様子はなく、病院のベッドの上で眠るようにして死んでいるのをお見舞いに行ったヤンヤンさんが見つけた。ヤンヤンさんは中国で亡くなった。一人になったヤンヤンさんを中国にいるアージャンという名の弟さんが呼び戻した。かな子さんが一緒について行ったが、かな子さんの滞在中に眠ったまま亡くなってしまった。なかなか起きて来ないので、アージャンさんが様子を見に行くと、布団の中で眠るようにして死んでいた。それからおじいちゃんが亡くなった。一人で留守番をしていた。ハワイから帰ってからは花火の絵を描くことはなく、居間でマルクの画集を眺めたり、猫のノドを日がな一日撫でていたりした。ママがパートから帰るとソファーに座ったまま死んでいた。猫がおじいちゃんの手をしきりに舐めていた。私に絵を描き続けるように言った次の日のことだった。

すっかり落ち込んでいる私を、たぶん、私以上に落ち込んでいたであろうかな子さんが誘ってくれて、私たちはまたハワイに行った。長岡の花火を観に来てからちょうど一年がたっていた。パパもママも今度はあっさりと許してくれた。かな子さんも私もモアナさんの家に泊まった。ある日の夕飯の時にトオルさんが貿易の仕事はもう辞めると言った。これからはモアナさんとゆっくり静かに暮らすと言った。しかし、その次の日、モアナさんが転んだ。モアナさんの小さい足はモアナさんとともに年を取り、重たい身体を支えきれなくなっていた。フラを踊るには、モアナさんのたぷんたぷんに太ったお腹は素敵だが、あまりに重すぎたのだ。両足首を同時に骨折してしまい、しばらく入院することになった。

かな子さんは仕事があるので、滞在日程を変更することなく東京へ帰った。私は夏休み中だったので滞在を伸ばすことにした。家に電話をすると、既にかな子さんが連絡を入れてくれていたようで、ママはまたあっさりと許可してくれた。おじいちゃんが一人で死んでいったことが心残りだったのか、モアナさんのそばについていてあげなさいと静かに言った。

私はトオルさんと一緒に毎日、病院へお見舞いに行った。けれど、病院ではそれほどすることもないので、東京から持参していたスケッチブックにデッサンをして過ごした。モアナさんを描いたり、トオルさんを描いたりした。他の入院患者や先生や看護師さんを描いたりした。そのうちに、モアナさんが自分も何か描いてみたいと言い出し、私はスケッチブックを彼女に渡した。モアナさんは飛行機の絵を描いた。その下に街を描き、人を描いた。飛行機から雨みたいなものを降らせた。モアナさんは、その絵をトオルさんに見せると、「ごめんね」と言った。トオルさんはモアナさんのたぷんたぷんのお腹をぽんぽんと叩いて、「僕らこそ、ごめんね」と言った。私は急な展開にびっくりしたが、取りあえずそっとしておきたくて、廊下に出た。私のすぐ後に続いてアジア系の男性が出てきて私を呼び止めた。少しアクセントがあるが流暢な日本語で「あなたは絵を勉強しているの?」と聴いた。彼はモアナさんが入院している病院の精神科に勤めている日系アメリカ人の医師だった。ドイツの医療法を取り入れたセラピーを行っていると言った。「あなたは絵によってセラピーをするのに適したものを持っているかもしれない」と言って名刺をくれた。「興味があったら連絡して。セラピストになるための学校など紹介してあげられると思う」

私はその後、バイトでお金をためては学期の合間にハワイに来るようになった。来てはモアナさんとトオルさんの家に泊まった。そして、精神科にその医師を訪ねた。私はただ、ハワイに来る口実が欲しかっただけかもしれない。モアナさんとトオルさんに一緒にいたいだけだったのかもしれない。けれど、その医師に病院の廊下で言われたことが頭から離れなかった。「あなたは絵によってセラピーをするのに適したものを持っているかもしれない」私はとうとう、ハワイに住むことにした。大学の単位をトランスファーしてハワイの大学に編入した。ハワイの大学を卒業すると、セラピストになるための勉強をした。その間に、モアナさんとトオルさんはどんどん年を取り、私は2人に代わって家のことをするようになっていた。東京の家に電話をすると、ママは決まって「必要な時にはママがいつでも応援に行くから、お2人に気持ち良く過ごして貰えるように頑張って」と言った。やがて、モアナさんもトオルさんも、静かに、やはり眠るように亡くなっていった。モアナさんが遺書を残していて、そこには、かな子さんだけでなく、私も、好きなだけ、モアナさんの家に暮らしてよいと書いてあった。私はハワイに住み続けた。モアナさんの家に住み続けた。そこで絵を描き続けた。

 

どす黒い絵を描いた兵士の後に病室に入って来たのは、年老いた白人の男性だった。モアナさんの病室の外で名刺をくれた日系の医師が車椅子を押して来た。初めてのクライアントだった。医師は私の耳元に顔を近づけて小声で言った。「いつでも相談して。でも、君なら出来ると僕は思う」そして、部屋を出て行った。意味深ではあったが、老人たちが皆いなくなって私はとても寂しく、おじいさんのクライアントを密かに歓迎した。けれど、おじいさんは私を見て「お前も日本人か?」と憎々しげに言った。  カルテを確認すると、おじいさんは数々のセラピストを巡って私のところへ来たようだった。なるほど、それで、いつでも相談してなのか。おじいさんは一層憎々しげに言った。「私は我が国がおまえの国に原爆を落としたことを後悔などしておらん」私はカルテをもう一度確認した。クライアントは戦後生まれだった。父親か年の離れた兄弟が戦争に行っているのかもしれない。私がそのように考えていると、おじいさんは机の上に置いてあるスケッチブックを取り、枠いっぱいいっぱいを四角く黒い線で囲った。それから真ん中に赤い丸を描いた。それを私に見せると、車椅子の足元に叩きつけ、唾を吐いた。

どうやら、それは日本の国旗らしかった。しかし、中央に赤く塗られた丸が小さすぎ、太陽ではなく梅干しに見えた。結果、それは、国旗というよりは日の丸弁当のようになっていた。絵心はあまりないようだ。私は床に転がった日の丸弁当をしばらく眺めていた。そして、しみじみと、戦争とは何代にも渡ってしつこく人を蝕むものだと思った。そして、いつものようにただ聴くだけだと思った。おじいちゃんの話をマルクの碧い絵の前で聴いたように。タケさんとヤンヤンさんの話を飛行機の中で聴いたように。アーちゃんとキアヌとクジラとともに碧い海の中に潜ったように。私は病室の大きな窓の外を見た。何もかもが碧かった。空が碧い。海が碧い。絵本の中の色鉛筆の碧で塗ったみたいな碧だった。私はその碧に見惚れた。やがて、太陽が西に傾き始め、碧に赤が混じった。私は「星条旗の色みたいですね」と言った。椅子から立ってスケッチブックを拾い上げると、唾が乾いてしわしわになった日の丸弁当をめくり、新しいページを出した。私は星条旗を描いてみようと思った。おじいさんは唾を吐いてすっきりしたのか、窓の外を見ていた。

「星は今は幾つですか?」私は聴いた。おじいさんはその声で私の方を向いた。私が彼の国の国旗を描いていることに怒りを覚えるかもしれないと覚悟していたが、彼は黙って私が途中まで描いた絵を見ていた。「続きを描いてみますか?」と聴くと、「いや、あんたが描いてくれ。星の数は」と言うと私の目を見てから「今は」と言い、わずかの間のあとに言った。「50。赤い横線は13本」それから、小さな声で付け加えた。「これ以上、星の数が増えないといいが」そうか、この人の国では、この77年の間もずっと戦争を絶え間なくやっているのだ。

横線が一本足りなかったので、無理矢理描き加え、それから丁寧に50個の星を描いた。最後の一つを黄色く塗った。ハワイだ。確か、ハワイが50番目の州のはずだ。薄暗くなった病室で、机の上のライトだけをつけていた。ノックの音がして、名刺の医師がドアを開けた。私たちの様子を見ると、「迎えを呼んで欲しいときに僕にテキストして」と言って、部屋の電気をつけるとまたドアを閉めた。セラピーの時間を延長してもオッケーという意味だろう。私は描き終えた星条旗をおじいさんに渡した。彼はじっと見ていた。それから、スケッチブックをめくり、真新しいページを出すと何かを描き始めた。私は黙ってその絵を眺めた。おじいさんの物語が聴こえはじめた。

 

詩引用:

「エンペラア・ハズ・ダイド」

三上 その子

From 「TOY BOX 2015」2015 編集/発行 芦田みのり

 

 

 

 

 

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HosakaHiroko

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小説書き、朗読者、指圧師見習い 短編小説を地道に執筆。詩や絵本、小説の朗読を行う。マラソンなど延々とする感じのことを好む。最近、家の猫が2匹になり、猫のことばかり考える日々を過ごす。 田之上尚子 / 挿画家 ペンと水彩で、物語の世界を描く。絵本・エッセイ挿絵・ポスターイラスト等手がけたり、年に2、3回画廊やギャラリー、病院内で個展を開催。 音楽も好きで、長野県松本発バンド『有機幻燈』に所属し、パンデイロなどの、鳴物も勉強中。
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