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Aug 12, 2016

ユーラシア大陸車輪紀行

切れたチェーン

Photograph & Text by Taichi

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指名手配犯にタバコをもらいなんでもない会話をする。

これが自分にとってどれほどの経験値になるのだろうか。普通は一生することもない経験をしたぼくたちは、背筋に奇妙な寒気を感じながら、次の街チタを目指した。

それまでと同じようにキャンプを2回繰り返し、チタに到着した。これまでのどの街よりも砂埃がすごく、時折急に現れるトラックのお尻にぶつからないように気をつけながら、ぼくたちは街の中心部を目指した。

砂埃に包まれて走りながら、ぼくの頭の中には“発展途上”という言葉が浮かび続けていた。土がむき出しの道が続いたかと思うと、前触れなく現れる50メートルほどのアスファルトの道路。歩道と車道の境界がはっきりとしておらず、絶えずクラクションが鳴り響く交差点。やせ細った野良犬が店の軒先で数匹、互いに威嚇しあい、時折道路上に現れるそれらの死骸。大きなリヤカーに大量の空き缶やボロボロの衣服を乗せ、下だけを見ながら歩き続ける老人。それが砂埃のせいなのか、整備されていない道路状況からなのかはわからないが、頻繁に見かける衝突事故。

日本や今では十分に発展を遂げた国々も幾らか昔はこんな様子の街並みだったのだろうか。それとも大きすぎるロシアで、政治的な観点から地方まで目が行き届いていないのだろうか。このころ『後進国』と呼ばれる国の内状を見たことのなかったぼくには、両脇に緑が延々と延びる道ならまだしも、数メートル先に集中しなければならない状況では、うまく頭の中で結論を出すことができなかった。

そうして、おそらくここが中心地だろうという場所までたどり着いたぼくたちは、ハバロフスクで手に入れていた『ディミトリー』の電話番号にダイヤルをした。そして目の前にあった看板や店の名前を読み上げ、自分たちがどこにいるのかを彼に伝えた。

しばらくタバコを吹かしながら待っているとハッチバックタイプの車が僕たちの前に停車した。

その車には運転席の扉からハッチバックになっている部分にかけて、電話番号と美味しそうなピザの写真がでかでかとプリントされていた。

どうやら彼はピザ屋のデリバリー車で僕たちを迎えに来たようだった。

ぼくたちは彼の知り合いが経営するホテルに宿泊させてもらうことになり、ピザ屋の車に先導され、バイクを安全なホテルの駐車場に停車させた。

その後腹が空いたかと聞かれ、即答で「イエス」と答えたぼくたちを、ディミトリー自身が経営するピザ屋に連れて行ってくれた。彼が選んだ大きなホールのピザを2枚とサラダ、そして久しぶりに黄金に輝くビールをご馳走になった。

久しぶりに食べるボルシチ以外の料理に舌鼓を打ちながら、ぼんやりとメニューを眺めた。メニューに載っているどのピザを食べているのかはわからなかったが、どのピザもボルシチの10倍ほどの値段だったことに驚いた。

チタからウランウデの距離はそう遠くはなかった。

ただただ久しぶりに眠るベッドの心地よさにやられ、次の日ぼくたちが目覚めたのは、十分に昼を通り過ぎた頃だった。

ウランウデに着いたのは又しても日付を大きく跨いだあとだった。

ぼくたちはあらかじめチタのガスティーニツァで、インターネットを使い、この街のガスティーニツァに泊まるために下調べをしていた。

色々な人に会うのはとても楽しかったし、それぞれの人たちの性格ももちろん違い、その分の彼らの生活における視点を吸収できている気がしてとても意味があるように思えた。

しかし、どうしても人に会えば会うほど進むのが遅くなるのは間違いなかった。

次に入る予定のカザフスタンのビザ取得にもどれほどかかるかわからないぼくたちは、自分たちのスピードに少しずつ焦りを感じ始めていた。

バイクをガスティーニツァの駐車場に止めスムーズにチェックインを済ませ、疲れていたこともあり、ぼくたちはすぐに眠りについた。

次の日、曇天の空の下ぼくたちはイルクーツクに向かってバイクを出発させた。

整備状況の悪いロシアの道路に鴻志の背中がガタガタと揺れていた。

街を出るために入り組んだウランウデの道路を10分ほど走った頃だった。

前を走る鴻志のバイクから聞いたこともない音が鳴り響いた。

それは金属的な冷たさと火薬が炸裂するような爆発的な熱を同時に帯びたような音だった。冷たかろうが熱かろうが、ぼくは何が起きたのかは理解できなかった。しかしどちらにしてもぼくたちにとって不吉な音であることを本能的に感じていた。

そしてその音と同時に10分前のそれとは比べ物にならないほど鴻志の背中が一際大きく揺れたかと思うと、彼のバイクはゆっくりとスピードを落とし、ついには1車線の道路の真ん中で停止した。ぼくも鴻志に合わせゆっくりとバイクを停止させた。

それに合わせ背後からは、突き刺さるような敵意をむき出しにした車のクラクションが鳴り響いた。

ぼくも鴻志も、走っていた時に保っていた距離のまま時間が止まったようだった。

おそらく止まっていたのは一瞬だっただろう。しかし随分長い間、クラクションはぼくたちの背中に突き刺ささり続けていたような気がした。

「大丈夫?!バイク動く?!とりあえず向こうの路肩に動かそう」

鴻志よりほんのすこし早く動き出したぼくは、鴻志の返事を待つことなく自分のバイクのエンジンを掛け直した。そして鴻志の横をすり抜け、30メートルほど進んだ路肩に自分のバイクを停止させた。

鴻志の横をすり抜ける時に、バイクが止まっても振り向くことのなかった鴻志の顔を垣間見た。

彼の顔には一切の表情が浮かんでいなかった。温度を持たないプラスチックの能面のように、ぼくが隣を通り過ぎても視線すら動くことはなかった。

それはぼくのように何が起きているのか理解できずに、思考が停止している類の顔ではなかった。ぼくには自分の状況を理解した上で、動けないように見えた。その上で次の一手を考えるのに時間がかかっているのか、起こってしまったことに対して、考えることを放棄しているのかまでは汲み取ることはできなかった。

ぼくは自分のバイクを安全なところにとりあえず止めると鴻志のもとに駆け戻った。彼はゆっくりではあったが、バイクをこちらにむかって押して来ようとしていた。

「大丈夫?とりあえず押せば動く?何があったの?」

「チェーンが切れた」

今度はぼくの問いかけに対し返事をしたが、こちらを向くことなく声は弱々しかった。

そして彼の横で黙り込む鉄馬からは、腸が腹を突き破りだらりと垂れ下がるように、無機質なチェーンがぶら下がっていた。

「チェーンが切れた?バイクのチェーンって切れるものなの?」

自転車のそれの何倍も頑丈で太い、バイクのチェーンが切れるなんてことは、今まで一度も聞いたことがなかった。

とりあえずぼくはバイクを挟んで彼の反対側に立ち、ガソリンタンクを両手でしっかりと掴み前にむかって思い切り押した。

「…どうしよう」

鴻志はジャラジャラと足元で引きずられるチェーンを見つめながら、ぼそりと呟いた。いつもの鴻志なら、「こんなこともあるんだね。まぁ、なんとかなるでしょ」とぼくの不安を小気味いい雑さで蹴散らすように言うはずだった。

彼はただじわじわとぼくたちの体を濡らし続ける雨を睨んでいた。

やっとの思いでぼくのバイクがある場所までたどり着くと、鴻志は近くの歩道に腰をおろした。そして動くことなくもう一度、えぐれるように引きちぎれたチェーンを睨み始めた。

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「怪我はない?大丈夫?」

ぼくはフニャフニャに湿ったタバコのパッケージをポケットから取り出し、中身を確認した。どうやらタバコ自体は濡れることなく無事なようだった。

答えない鴻志を見ながらタバコに火をつけ、もう一つのポケットからロシアの携帯電話を取り出した。

 そして携帯の中の電話帳を探り、駄目元で『ウランウデ』とロシア語で書かれただけの、誰かの電話番号にダイヤルをしてみることにした。

 「プルルル、プルルル……」

コール音が右耳の鼓膜を虚しく振動させた。

「プルルル、プルルル……」

その乾いたコール音はぼくを、底の見えない深い井戸に釣り針を垂らし続けるような気分にさせた。

諦めて電話を耳から離そうとした瞬間だった。

「もしもし」

ぼくの指はすでに終話ボタンの上にあった。

「もしもし!!」

急いでもう一度携帯を耳に押し付けた。

そして早口で自分の正体を電話の向こうの誰かに伝えた。

「……ちょっと待って」

少しの沈黙が続いた後、簡単なロシア語が返ってきた。

そうしてさらに1分ほど沈黙が続いた。

鴻志は先ほどと同じ場所に腰を下ろしていた。ただ違ったのはこちらを見つめる瞳は、電話先の誰かがぼくたちを助けてくれることに対する期待をはっきりと孕んでいた。

「こんにちは、この電話は誰?」

突然耳元で若い女の子の声が響き、ぼくは驚き電話を耳から離した。それは今までのロシア人が話すそれとは違う、きれいな英語だった。

ぼくのおかしな行動に鴻志の目線が一瞬奇妙に揺れたが、ぼくがもう一度電話を耳に戻すと、再び瞳に期待を浮かべた。

「こんにちは、ぼくは……」

可能な限り自分たちの紹介と、置かれている状況を説明した。話しながら歩き回るぼくを、鴻志は祈るように見つめた。

「わかった、少しそこで待ってて」

電話先の彼女は、ぼくが全て話し終わる前にそう言うと、一方的に電話を切った。

「たぶん、迎えに来てくれるよ」

ぼくはあまり期待させすぎないように鴻志に向かって声をかけた。鴻志は一度だけ頷くと瀕死状態のバイクの荷台から水を取り、一気に飲み干した。

さっきの説明で自分たちがどこにいるのか伝わったのだろうか。

彼らはそんな心配を忘却の彼方へ弾き飛ばすようにぼくたちの真ん前に急ブレーキをかけ現れた。

ぼくたちを助けに車から降りてきたのは一組の男女だった。

男の方は自己紹介をすることもなく、手際よく鴻志のバイクを、古そうなハッチバックタイプの赤い車の荷台に寝かせ、押し込んだ。

そして車の助手席と鴻志を交互に指差すと、ぼくについて来いと合図した。

どうやら女性の方は先ほど電話で話した人のようだった。彼女はぼくと鴻志の中間くらいの身長で、スラッとした足には似つかわしくない鴻志の半分くらいの顔がその上の方に備わっていた。

「来てくれてありがとう。とにかくついて行けばいいのかな」

とにかく礼を言おうと声をかけた。

「そうみたいね、お兄ちゃんあまり英語を話せないの?」

彼女は幼そうな笑顔で答え、2人掛けの助手席に窮屈そうに乗り込んだ。ぼくは彼女に対し、びしょ濡れの鴻志の隣に座ってもらうことを申し訳なく思った。

彼女が乗り込むとすぐに車が発進し、ぼくはその後を追いかけた。

彼らはぼくたちが停車していた場所からものの5分のところに住んでいた。

助手席が開き降りてきた鴻志は先ほどの表情とは打って変わって、にこやかないつものそれに戻っていた。

そして、開口一番二人の紹介をぼくに始めた。

電話口に最初に出たボヴァとその妹のスヴェータ。妹のスヴェータはアメリカで女優になるために英語を勉強していたので、流暢に英語を話すことができたのだった。ボヴァは数年前に事故に遭い、しばらくはバイクに乗ることができないようだった。鴻志がそのことを話しているのに気付いたのか、彼は自分のズボンを捲り、ぼくに傷を見せた。その傷からは凄惨な事故の状況が容易に想像することができた。

そしてぼくに手を伸ばし、「ボヴァだ、よろしく」とロシア語でゆっくりと話した。

彼らの家はとても居心地が良かった。汚らしい格好をしたぼくたちを彼らの母親は快く迎えてくれたし、カフェ以外で食べるボルシチもやはり格別に美味しかった。

ボヴァは彼の部屋にあるベッドとソファを僕たちに提供してくれ、彼自身は友達の家に泊まりに行き、朝になると迎えに来てくれた。

そして、朝食をとると彼の友達のガレージへとぼくたちを連れて行ってくれた。

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 「昨日の夜、お前たちのバイクに合うチェーンを買っておいた。安物だから次の街できちんと交換するんだ」

インターネットの翻訳機能を使いながらそう説明し、手際よく鴻志のバイクのチェーンを付け替えはじめた。

このウランウデという街では誰にも出会おうとせず、次の街に向かおうとしていた。ただただ先を急ぎ、ただただ進むことを考えていた。実は初めのウスリスクを出た時点でぼくたちの旅のスタイルは決まっていたのかもしれない。人に会うことがぼくたちの旅のキーポイントなのだろう。

旅に出た理由は、いろいろな経験を積むことだったはずだ。

もしかするとどこかからぼくたちを眺めている、絶対的な誰かが鴻志のバイクに、ぼくたちにハプニングを与えたのではないだろうか。そんなことまで考えながら鴻志のバイクがどんどんと直っていく様子を黙って見つめていた。

 

 

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旅人、かく人。文章を書き、未来を描き、己の信念に人生を賭けながら、たまにはゆっくりとあぐらも掛く。旅や出会いの中で頭にこびりついた言葉・風景・感覚を丁寧に剥がし、自分なりに再成形し、表現し、生きている。 今回はユーラシア大陸を半年以上かけ、バイクで横断した24歳青年の話を私小説として連載する。
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