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Aug 31, 2016

ユーラシア大陸車輪紀行

バイカル湖の悲劇

Photograph & Text by Taichi

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自分たち以外には誰もいない沈黙が包み込んだ街の中心で鴻志は一度大きく吠えると、うつむいたまま動かなくなった。

−−−−どうして俺のバイクだけが、どうして……

彼の放った咆哮には、その勢いに反し、憂いの響きだけが色濃く映し出されていた。

ウランウデでの鴻志のバイクのハプニングのおかげで出会ったボヴァ、その妹スヴェータに別れを告げぼくたちはバイカル湖で有名なイルクーツクにバイクを走らせた。

「やっぱり俺たちは色々な人たちに合わないとダメなんだよ!そう思わない?」イルクーツクまでの道のりのちょうど間ぐらいで休憩を取りながら、鴻志は顔を火照らせながらぼくに問いかけた。

「そうだね。それぞれの街での主人公を探さないとダメみたいだね」本当にそうだと思った。ぼくたちの旅を作っているのは、もしかすると、ぼくたち自身ではなく、ぼくたちが出会う人々なのかもしれない。

ウランウデからイルクーツクまでは約500kmほどだった。ぼくたちの予想に反し、200kmを過ぎた頃、唐突に、到底向こう岸など見えそうにない大きな水溜りが現れた。琵琶湖の46倍、世界最大級の湖であるバイカル湖が、ぼくたちの右側を、深い青を抱きかかえながら視界から吹き飛んでいくことなく併走し続けた。

残り300kmを一気に走り抜け、イルクーツクに到着したのは、やはり日が沈み沈黙が街を覆い始める頃だった。

一番にぎやかそうな場所にバイクを止めると、やはり他の街でもそうであったように、今までどこかに隠れていたのかと思わせられるほど、たくさんの人たちが僕たちに近づき、同じような質問を繰り返した。

ぼくはぼくたちを取り囲む彼らを鴻志に任せ、「スバル」にぼくたちを止めてくれた二人組み、サシャとアレックに電話をかけた。

「とにかく大通りの人が集まっている場所に来てくれ。その中心に俺たちがいるから」かなり的確な指示だったのだろう。サシャとアレックは5分と経たずにぼくたちを見つけ出した。

特に到着する日を彼らに伝えていたわけでもなかったが、二人は快く僕たちを迎えてくれ、大量のビールと豪華な食事、それにもちろんウォッカをふるまってくれた。その日は彼らのオフィスを寝床として使い、疲れとアルコールでぼくたちは魔法にかかったように眠りこけた。

翌朝、サシャがぼくたちを起こしにくると、何かこの街で旅のために準備しておきたいものはないか、と尋ねてくれた。

「バイクのチェーンを交換したい」鴻志が間髪を入れずに答えた。

彼はお安い御用だ、と言わんばかりにぼくたちのバイクの型番をインターネットで調べ始めた。そしてものの5分ほどで目の前にあったメモ用紙を手に取り、数字とアルファベットの羅列を書きなぐった。

「今からチェーンとタイヤを買ってきてやる。お前たちのタイヤは随分擦り減っている。それじゃあカザフスタンの砂漠は越えられないぞ。お前たちは俺たちの作業場を見学でもしておいてくれ」そう言うと、ぼくたちを置き去りにし、車に乗り込むと一人で走り去っていった。

「今砂漠って言ったよね?」鴻志がサシャの車から目線を外さずに言った。

「言ったね。砂漠、って。砂漠ってバイクで走れるの?」ぼくは聞きながら、砂漠をぼくたちがバイクで走る想像を浮かべようと努力したが、どうもはっきりとした映像は浮かんでくることはなかった。

「走れるタイヤを買ってきてくれるんじゃないかな、たぶん」同じように鴻志も必死に想像を広げているようだった。

残されたぼくたちは、言われるがまま隣接された作業場に足を踏み入れた。

運良く彼らは、畑さえ違ったが、車の修理屋と部品の輸入業を経営しており、バイクの修理にはもってこいの道具や場所、情報網を備え持っていた。

しばらくするとアレックが現れた。そして彼に今までの道程を説明していると、サシャが浮かない顔で帰ってきた。

そして車から降りてくる彼の手にはチェーンが2箱とタイヤが2輪抱えられているのが見えた。

「すまないタイヤを1組しか手に入れられなかった」彼は本当に申し訳なさそうに話した。

「俺のバイクは大丈夫だから、鴻志のだけでも変えてやってくれるかい?」

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ぼくは続けて、前の街で鴻志のチェーンが切れてしまったことを説明した。

「それは災難だったな。念のためチェーンは2台とも交換しておこう。タイヤは鴻志のだけ交換して太一の分は次の街で交換すると良い」サシャは作業場の奥から大きな足場を2つ引きずってくると、鴻志にバイクをそこに乗せるように指示した。

バイクの修理は初めてだったのか、少々手こずりながらも、半日かけ彼らはぼくたちと共にチェーンとタイヤの交換を行ってくれた。

もちろんタイヤやチェーンの交換はぼくたちにとっても初めてのことで、何が何やらわからないままにバイクはバラバラになり、いつの間にか元に戻っていた。

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ほとんど一日作業だったこともあり、ぼくたちはもう一晩オフィスに泊まらせてもらうことになった。

「どうせならバイカル湖を観光してみない?」二人に礼とおやすみを告げ、オフィスに戻りながら鴻志が呟くように聞いた。それは本当に独り言のようにも聞こえたし、躊躇しながらぼくに話しかけているようにも聞こえた。

「観光か。いいね。なんだかその言葉自体が新鮮だね」これだけいろいろな街を訪ねたが、観光自体は初めてのように思えた。思えばウスリスクやハバロフスクでは街の名所を訪ねたものの、その街の紹介をしてもらうという方が適切な表現だったように感じた。世界的に有名なスポットに能動的に出かけること自体が、至極久しぶりに思えた。

「行こうよ、バイカル湖」ぼくはもう一度鴻志に答えるように言った。

翌朝早くにぼくたちは、雨が屋根を叩く音で目覚めた。

サシャたちが送りに来てくれ、簡単な別れの挨拶をし、バイカル湖を見に行ってからクラスノヤルスクへ向かうことを告げた。

すでにバイカル湖に行く気が満々だったぼくたちはサシャとアレックの苦笑いを見ないふりをし、バイカル湖へと続く道を走り始めた。

不運なことに、走れば走るほど雨脚はその強さを増していくようだった。しかし足乗りはいつもとは違い、バイカル湖を眺めたいという気持ちがぼくたちの背中を力強く押していた。

20分ほどガタガタの山道を走ると急に景色が開け、巨大な水たまりが姿を現した。

一時的な雨に負けることもなく威風堂堂とぼくらを迎えてくれた。

その姿は一目見るだけで人間が誕生する遥か昔からその場で地球の一部として存在してきたことを、理解させるのに十分だった。

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雨のバイカル湖、響きこそはロマンチックだ。しかし悲劇は帰り道で起こった。

クラスノヤルスクへ向かう道に差し掛かった頃、前を走る鴻志の背中が大きく揺れた。まるでウランウデのデジャブを見たようだった。山道に開いた大きなくぼみを避けきれず、水たまりにバイクごと侵入したようだった。これまでも仕方なしに水たまりを走ることはあったが、今回は運悪く水たまりの底に、大きな岩が地面から突き出していた。

そしてその水たまりを脱出してきたバイクの様子は一変していた。

「ポポポポポ……」耳に入ってきたのは聞いたこともない奇妙な排気音だった。それが排気音だということも、はじめは気づかなかった。鴻志のバイクから聞こえてくるはずの低く唸るような音の代わりに、その奇妙な音が聞こえてきたので消去法的にそれが鴻志のバイクの排気音だと判断したほどだった。

マフラーの中に大量の水が入った音だろうか。それにしてもキテレツでへんてこりんな、なんとも形容しがたい音だった。

ぼくはその音が発生しているはずの場所に目線を移した。

その光景を目にし、感覚から全ての音が一度遮断され、周りの世界は微動だにせず一時停止されたようだった。しばらくすると雨が空気と地面を叩く音、次に改めて奇妙な排気音が耳に飛び込んできた。相変わらず世界は一時停止したままだった。

細かいことはわからなかった。鴻志のバイクのマフラーは、ギチギチに繋がれているはずのエンジンからすっぽりと抜け落ち、足元のステップにあるボルト一本だけでつながりぶら下がっていた。

鴻志もぼくも一体全体何が起きたのかわからなかった。ぼくはただただ目の前にある光景を無理矢理に納得するしかなかった。そうしなければ、永遠に時間は止まったままだっただろう。

ただただ奇妙な排気音と雨音が 鼓膜振動させ、さらにトクトクと耳の奥で流れる血液を際立たせた。

「怪我はない!?」ぼくは急いでバイクを止め鴻志の元へと歩み寄った。

鴻志からは返事が返ってくることはなかった。

ただただ下を向き今にも燃え上がりそうな、苛立ちを降りしきる雨とともに鎮静させているように見えた。

ぼくは急いで先ほど別れを告げたはずのサシャにダイヤルをした。

「とにかく近くのガソリンスタンドまで行き、もう一度電話してこい」

いまだにふざけた声で鳴き続ける鉄馬を先頭にきた道を戻り、一番最初に目に入ったスタンドに駆け込みもう一度住所をサシャに連絡した。

彼は家族が事故にあったかのような勢いで駆けつけてくれると、バイクと鴻志を車に乗せもう一度オフィスに戻ろうと提案してくれた。

彼に従い、いまだ弱まることなく降りしきる雨の中をオフィスまで走った。

そこからは昨日と同じく慌ただしく時間が過ぎていった。彼らは嫌な顔一つすることなく自分たちの仕事もそっちのけでバイクの修理を手伝ってくれ、ぼくたちはもう一晩彼らのオフィスに宿泊することになった。

翌朝、昨日の雨が嘘のように晴天に恵まれ、ぼくたちは改めてクラスノヤルスクへ出発することができた。

「この4日間、思ったより大変だったが、楽しかった。俺たちが日本に旅行に行った時はきっちりと案内してもらうからな」サシャは笑いながらぼくたちの背中を何度もバシバシと叩いた。

鴻志は、やはり、いつもの笑顔を取り戻してた。

ぼくたちが街に着くのは決まって日が暮れた後だった。

クラスノヤルスクは今までの街のどれより大きく、地図を見ても現在地を探すのに一苦労した。

この街ではどんな出会いがあるのだろう。そんなことを話しながらぼくたちは夜光虫のように街の中心部に引き寄せられていった。

やっともう1kmほど走れば、中心部がありそうな場所に差し掛かった頃だった。辺りには人はおらず静けさだけが幅を利かせていた。

目の前からカシャンという小さな乾いた音が響いたかと思うと、鴻志がゆっくりとバイクを路肩に寄せ停車させた。

特に止まるようなタイミングではなかったし、何度も見たように鴻志の背中が大きく揺れたわけでもなかった。

トイレにでも行きたくなったのかな、ぼくの頭の中にはそんな程度の予想が残像も残さずに踊るような軽いステップで通り過ぎた。

「どうしたの?トイレならもう少し走ればありそうだから我慢すれば?」

鴻志が何かつぶやいた気がしたが、その声周りにはびこる静寂に圧倒されるかのように、路地の間に吹く冷たい風に流されていった。

そして鴻志はうな垂れるように、自らの足元にゆっくりと視線を落とした。

ぼくはそのゆっくりとした速度に従い、同じように目線を彼の足元に向けた。

ぼんやりとした暗闇の中で鴻志の足元で何かがぶらぶらと揺れているのがわかった。しかし遠くの方にポツンと佇む街灯の光の線は、彼の足元がはっきりと見えるほどはこちらに届いてはいなかった。ぼくは握っていたハンドルを操作し、ヘッドライトを鴻志の方へ向けてみた。はじめに飛び込んできたのは、ぼんやりと暗闇に浮かび上がる鴻志の横顔だった。

急に強い光を当てられて眩しかったのだろう、彼は一度目を閉じたが、すぐに視線はそのままに、もう一度自分自身の足元をにらんだ。ぼくは再度彼に従い、今度はしっかりとライトで照らしだされた足元に目線を移動させた。

そこにはだらりと弛んだチェーンが、彼の足元にぶら下がっていた。まさにウランウデで目にした光景が飛び込んできた。

耳の奥の方で、獣が威嚇するような低いうなり声が聞こえたような気がした。目の前に映し出された光景が一度ぐらりと傾いた。頭を人間の何倍もある大きさの手で鷲掴みにされ、左右にグワングワンと振り回されているような気がした。

いまだに強い光で照らしだされている鴻志が、バイクから降りようとしているのが見えた。それに合わせぼくはバイクのスタンドを片足で器用に出し、自分のバイクから離れると鴻志に駆け寄っていた。そして鴻志はぼくの存在を確認したか、しなかったかはわからないがスタンドも立てずに、そのままバイクから飛び降りると、膝に手をつき中腰の体制で停止した。

バイクがゆっくりと、しかしずっしりとした重みでぼくの腰あたりに倒れこんできた。

そして再び先ほど耳の奥で聞こえていた、獣のうなり声が勢いを取り戻した。

「オォォ、ウオオォォ……アアアアアァァ!!!」

それは俯いた鴻志の口から発せられた嘆きと悔しさを目一杯に抱え込んだ、行く当てのない叫喚だった。

−−−−どうして俺のバイクだけが、どうして……

彼の放った咆哮には、その勢いに反し、憂いの響きだけが色濃く映し出されていた。

ぼくは自分のバイクに照らしだされた自分自身の足元を見つめながら、彼の咆哮が収まるのをじっと待ち続けた。

−−−−ぼくたちは今どこにいるのだろう。次はぼくのバイクが故障すればいのに。

訳のわからない思考がぐるぐると頭の中を駆け巡る間、誰一人としてぼくたちの周りを通ることはなかった。

 

 

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旅人、かく人。文章を書き、未来を描き、己の信念に人生を賭けながら、たまにはゆっくりとあぐらも掛く。旅や出会いの中で頭にこびりついた言葉・風景・感覚を丁寧に剥がし、自分なりに再成形し、表現し、生きている。 今回はユーラシア大陸を半年以上かけ、バイクで横断した24歳青年の話を私小説として連載する。
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