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Feb 28, 2017

ユーラシア大陸車輪紀行

アクタウ

Photo & Text by Taichi

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それが日本語だろうとロシア語だろうと、どんな言葉でも決して表せられない感情だった。暗く深い、広ささえも分からない水たまりに投げ込まれたような。もしかすると温泉の湯船ほどかもしれないし、地平線しか見えないような大海かもしれない。自分の理解をはるかに凌ぐスピードで映像や言語が飛び交い、頭では理解できない感情が、その頭の中を占拠している事だけが理解できた。漠然とした恐怖や緊張が、混ぜられかけのカフェオレのコーヒーとミルクのように訳も分からず窮屈そうに身を寄せ合っていた。

私たちは満身創痍でカスピ海の真横に位置するアクタウに着いた。

途中で見た安生のラクダや、砂漠の真ん中で見た何千個もの流れ星、荒廃した街で困り果てたぼくたちを助けてくれた温かい小さな手のひら。そのどれもがぼくたちを癒し、ハンドルを握りしめるのに十分な力を与えてくれた。

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大きなショッピングセンターの前にバイクを停め、期待と不安の混じった感情を抱えながら、前の街で教えてもらった番号にダイヤルした。しばらくしてやってきたのは、大きなハーレーに跨がり、整った顔に小ぶりのサングラスを引っ掛けた青年だった。

『キリル・ガンディー』。彼はそう言うと大きな右手を差し出した。

27才で貿易会社に勤めている。モスクワの大学に通っていたこともあり、英語も大丈夫だから安心してくれ、とあっさりした自己紹介をされた。ぼくたちもそれに合わせ簡潔に自己紹介した。

キリルが付いて来い、と大きなバイクに跨がり、エンジンを大きく吹かせた。彼のハーレーについて行く事15分、重そうな鉄の扉に密閉された、コンテナのようなガレージに到着した。

『ここにバイクを停めるといい』。キリルは大きな南京錠をカチャカチャ鳴らしながらこちらに微笑んだ。キリルはハーレー以外にも、あまり日本では有名では無いがオフロードの分野で突出しているKTMも持っていた。そのKTMは修理中で、もう少しすると修理が完了するらしかった。

彼の家は一人暮らしとは思えない程の広さと設備を備えていた。20畳程のリビングリビングに同じくらいのダイニングキッチン、10畳程度の玄関ホールが私たちの目に飛び込んできた。話を聞くと、中学生の妹をモスクワの学校に通わせるために両親共にあちらに住んでおり、普段は一緒に住んでいるようだった。

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それから、キリルの友人の寡黙で暗闇でも真っ黒のサングラスを外さないセルゲイ、お父さんの家具輸出入会社を手伝っているお調子者のスタッツを紹介してもらい、聞いたこともない心地のいい音楽が響くパブに出かけた。

ロシアとカザフスタンの道のりや、カザフスタンとロシアの文化の違い、日本での流行りやカザフスタンとの共通点。ゆっくりと流れる時間に身を任せ、気泡が底からプツプツと登る黄金の液体を体に流し込んだ。このまま永遠に気泡同士がぶつかり合いながらくねくねと上に向かって登っていく様子を眺められるような気がしていた。

1週間ほど三人が交代でぼくたちのお守りをしながらあまり大きくないアクタウの街を楽しんだ。英語の通じない港の職員と格闘しながらアゼルバイジャンへの船を予約したり、ロシア語の訳のわからない映画に連れて行ってもらったり、とぼくたちは興奮と静寂が重なり合った彼らの日常を楽しんだ。

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カスピ海のどこかへ沈んでいく夕日を眺めながら、何もせず、何も話さず1時間以上座り込んでも飽きることは一切なかった。そこには昼間とは全く違う景色があった。恐ろしい程に近く、大きい、今にもドロドロと音を立てて溶けそうな火照った硝子玉が口を開けていた。その硝子玉は海も空もぼくたちの顔さえも朱と金に焦がし、もうすぐ現れる其処ら中に潜んだ闇を必死に探そうとしているようだった。ざわざわと胸の内側を何かに撫でられ、不安にも似た感動を覚えた。

アゼルバイジャンへ出発する日、すでにバイクを港に止めていたぼくたちはキリルに車で港まで送ってもらい、固く握手を交わし、別れを告げた。

船に乗り込むまでは3つのスタンプをゲットしなければならなかった。1つ目はメガネをかけた初老の男性にバイクの登録証のコピーを渡すと簡単に手に入った。2つ目は黄色のヘルメットをかぶった作業員にバイクに積んだ荷物を一つずつ見せ、説明することで手に入った。3つ目はどこで手に入るのか聞くと、一番大きな建物を指差し、パスポートを見せるだけだと告げられた。

荷物を積み直し、薄暗くなり始めた広すぎる港の中をバイクを押しながら移動した。建物は近づいてみるとそこまで大きくなく、ぼくはなんとなく安心したが、代わりに備え付けられた門の両端にライフルを抱え、軍服に身を包んだ兵隊がぼくたちをジロリと睨みせっかくの安堵感はどこかに吹き飛んだ。

兵隊の一人がぼくたちに近づき、『なんだ』とだけつぶやいた。パスポートを見せバイクと海を指差した。彼が無線で何かを伝え、しばらくすると真っ黒に塗りあげられた鉄の門がゆっくりと開いた。早く入らないとすぐに閉まりそうな気がしてぼくは急いで敷地内に滑り込んだ。

入り口のすぐ目の前にバイクを停めるとぼくたちはガラス張りの扉をゆっくりと開け、右にある扉をノックした。2、3秒おいて、ぼくたちはゆっくりとそのドアノブをまわした。

扉を開けると黒革の高級そうなイスに、ふんぞりかえるように座った小肥りの男がタバコをふかしていた。そして目線でぼくたちに座るように合図した。

その部屋には似つかわない、安そうなスチールのベンチに腰かけたぼくたちは、特に何も言われなかったが鞄からパスポートを出し、恐る恐るその男にカザフスタンのビザが貼り付けられたページを開き、見せた。男はゆっくり1枚1枚ページをめくると、「アゼルバイジャンのビザはどこだ」と、つぶやいた。ぼくたちはただただ顔を見合わせて、目を見開くことしか出来なかった。インターネットの情報ではアゼルバイジャンに渡るにはビザは必要なかった。

男にそれを伝えると、一昨年から法律が改正されたとぼくたちに伝えた。ぼくたちは何も言わず黙って男を見つめるしか出来なかった。

一時間後、ぼくたちは、この一週間で見慣れた番号にダイヤルする以外の方法が見当たらず、携帯のリダイヤルボタンをプッシュした。小さなおもちゃのような画面には『キリル』の文字が黄色い蛍光色に光っていた。

キリルは港に着くなり、笑いながら「おかえり」と、ぼくたちの肩を叩いた。

その日は浮かない気分で、眠りについた。もう一度この広いキリルの家で、柔らかいソファで眠るとは思わなかった。目を瞑るとキリルの笑顔が浮かんだ。

帰り道、彼は「ビザの期限切れで強制送還になるのではないか」、と落ち込むぼくたちに『大丈夫』と声をかけ続けてくれた。彼の知り合いがアゼルバイジャン大使館にいるらしく、その場で電話し、明日会う約束を取り付けてくれた。

安堵と同時に恥じらいのような申し訳なさが込み上げてきた。

ぼくたちはキリルに何をしてあげられるだろう。彼はこの一週間ぼくたちを気にかけ、仕事も半分以下のスピードでしか出来ていないだろう。バイクも修理が完了しているのになかなか取りに行けていない。

そのことを彼に伝え、謝ろうとすると、「アゼルバイジャンに行きそびれたおかげで俺のかっこいいバイクを見ることができるな」と笑った。

目を瞑り続けても、なかなか寝付けず、頭の中で霞みがかった何かが宙を舞うゴーストのようにフワフワと浮かんでは消えた。羊の代わりにそのゴーストを数えても良かったが、そんなことを考えている自分が馬鹿らしくなって起き上がり、水を汲みに台所に向かった。

鴻志のいびきは聞こえなかった。疲れて熟睡しているのか、ぼくのように寝付けずにいるのかもしれない。ふと壁にかかったキリルの家族写真に目をやった。そこにはとびきり笑顔の若いキリルと妹が少し不機嫌そうな顔をして、こっちを見つめていた。

翌朝目覚めるとキリルはすでにいなかった。ぼくたちは重い頭を振りながら朝ごはんを胃に詰め込み、気持ちとは裏腹な晴天の中アゼルバイジャン大使館に向かった。紹介してもらったキリルの知り合いに連絡し、少し話し、何枚か渡された申請用紙に情報を記入した。礼を言い、彼と別れたぼくたちは特に何もすることなく、カスピ海の砂浜に座り夕暮れまで過ごした。

ぼくたちは途中のスーパーで晩御飯を買い、キリルの家に戻った。特に何も話すことなくぼうっとパソコンの画面を眺めていた。そして重い空気の中、寝不足からか、いつの間にかうとうとし始めていた。とても不思議な恐ろしい夢を見た。

何かに追われ、足を掴まれ、大きく転倒するするぼくを誰かが上から見下ろしていた。必死になって上を見上げると、悲しそうな自分が転がるぼくを見下ろしていた。『だから言ったのに』。そう言うとスッと姿を消し、ぼくは跳ね上がるように目覚めた。

時計を見るとすでに12時を回っていた。キリルは帰ってきたのだろうか。いつもならただいまを言いにぼくたちのところに来るはずだった。夢を引きずっているのか、嫌な気持ちが晴れないままなんとなく玄関の方に目をやった。

その瞬間だった。

扉が勢い良く開くとスタッツが駆け込んできた。彼は恐ろしい形相で言葉を選ぶように口を半開きにしたままこちらを見つめていた。胸には白地に大小バラバラの赤の水玉が鮮やかにプリントされた、しわくちゃのテーブルクロスのようなものを抱えていた。息を切らしながら、何も言わないスタッツを僕たちはじっと見つめた。彼が言葉を発するまでの30秒が1時間ほどに感じた。

そして彼が口を開いた瞬間、彼が胸に抱えているテーブルクロスが頭のなかでゆっくりと広げられ、シワが伸ばされていくのがわかった。彼が抱えていたのはいつかキリルが仕事場に着て行った白いワイシャツだった。

ポツポツと心臓の乾いた部分に冷たい雫が垂れ落ちる。同時にドクドクとまるで全身が一本の太い血管になったかのようにも感じた。

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旅人、かく人。文章を書き、未来を描き、己の信念に人生を賭けながら、たまにはゆっくりとあぐらも掛く。旅や出会いの中で頭にこびりついた言葉・風景・感覚を丁寧に剥がし、自分なりに再成形し、表現し、生きている。 今回はユーラシア大陸を半年以上かけ、バイクで横断した24歳青年の話を私小説として連載する。
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