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Sep 30, 2017

イン・マイ・ライフ

生涯の恩師ベト山野にまつわる不思議なエピソードの数々

Photo & text by Sammy Takahashi

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 べト山野と出会ったのは、私が英語学校の大阪支社に勤務していた頃でした。タイムライフ社(現タイムワーナー社)の大阪支社長だった彼が、嘱託としてわが社に招かれてやってきて、エアライン科の学生を前に講演するというので、それをのぞき見たのが最初でした。

会社の上司となったべトは私のことを気に入ってくれて、その後、TOEICの創始者である故北岡氏に紹介してくたのもべトでした。

リタイア後、こよなく愛するハワイを住処(すみか)としていたべトは、私がカナダに行った年に、ハワイのイオラニ宮殿のドーセントと呼ばれる公式ガイドとなりました。日本人で最初のバイリンガル・ドーセントです。ガイドの仕事には、14分と言われたら14分ぴったりにまとめてガイドを行うこと、またこの角を曲がるときにはこの話を終えてというきまりがあるとか。半年は勉強しないと受からない、ボランティアながらに難しい資格だそうです。ガイドのときの彼の弁舌は見事なもので、べトは日英通訳のボランティアコースを自分で始めて、門下生が何十人もできました。

ハワイにいたべトのもとへ、あるとき何のあてもなく訪れたことが、私にとって思いがけない展開をもたらすことになりました

それはもうかれこれ20年ほど前、日本の銀行が次々とつぶれていった頃のことです。北海道拓殖銀行の経営破綻が私の会社経営に大打撃を与えました。拓銀は私がカナダで支社を立ち上げた英語学校の親会社の取引先銀行の筆頭株主でした。当時ブリティッシュ・コロンビア州では、消費者保護のために預託金といわれる敷金のようなものを、州政府に預けなければ英語学校が経営できない仕組みになっていました。うちの学校の規模でいうと100万ドル(大まかに言えば1億円)相当を拠出しなければ、せっかく立ち上げたカナダの学校が存続できない状況となってしまったのです。しかも、無担保で借入していたお金でもあったので、50万ドル(約5000万円)を急に用意しなくてはいけなくなりました。

親会社に相談してもいい返事は返ってこない。東京のいくつかの銀行に話を持っていったけれど埒(らち)があかない。私はすっかり途方に暮れてしまいました。

本来だったら、成田からまっすぐバンクーバーに帰るべきところでした。でもすっかり気力の萎えていた私は、べトがハワイにいるなと思って、倒れこみそうな自分をかろうじて支えながらハワイ行きの飛行機に乗り込みました。

ハワイに着いて、ホテルの外のラウンジでワイキキの海を見ながらグラスを傾けました。べトと私のお決まりの過ごし方です。

「おー元気か?」

「元気です」

「事業の方はどうだい?」

「学校はうまくいっているんですが」

「でもどうなんだい?」

「学校の方は問題なく進んでいるのですが、至急50万ドル用意しないと学校経営が続けられないんですよ……」

べトはハワイでキロハナ賞という知事賞をもらうほどの偉い人ですが、酒癖がすこぶる悪いのです。そういう二面性のある人でしたし、年金暮らしをしていたので正直、お金のことはまったく期待していませんでした。ところがそのべトからこんな言葉が飛び出しました。

「オレの中学時代の同級生、海外にいくつも支店のある有名銀行の副頭取なんだよ。今からオレが電話してきてやる」

「そんなのいいですよ。ご迷惑をおかけしたくありませんから」

「50万ドルいるんだろ?待ってろ」

べトはホテルのロビーへ行き、しばらくして戻ってきました。そして電話番号をメモした紙切れ1枚を私に差し出しました。

「これアイツの直通電話の番号、今、電話入れといたから電話しろ」

「電話して何て言ったらいいんですか?」

「バカヤロー!50万ドルいるんだろ? 無担保で貸してくれって言えばいいじゃないか!」

そんなことを見知らぬ人に言うなんて、とても無理だと思いながらも、だめもとでかけてみることにしました。すると、

「吉田です。べトからあなたのことは聞いています。いかがいたしましょう?」

というのです。私の手と声は震えていました。

「大変恐縮ですが、50万ドル無担保でお貸しいただけますか?」

それからバンクーバーへ戻り、早速、その銀行のバンクーバー支店長を訪ねました。

「副頭取といかがな関係でいらっしゃいますか?」

と尋ねたその方の怪訝そうな表情が、今も鮮明に焼き付いています。ともかく、思ってもいなかったその助け舟でなんとか救われ、英語学校を続けることができました。ふらふらとべトに会いにいった時にはまったく考えられなかった展開になったのでした。

大恩人であるべトですが、この人のやんちゃぶりにつき合わされ、振り回された思い出も数え切れません。ひとりでハワイで暮らしていた彼は、酒好きで、時には酒に飲まれてしまうこともありました。ある時、

「足を滑らせて怪我をしちゃったよ」

と電話がかかってきました。

「気をつけてくださいよ!」

と電話を切りましたが、どうにも心配です。すると、現地に住む知り合いの話の様子から自殺未遂であったことがわかったのです。

「もう生きていく希望を無くしてしまった。だから俺は死ぬからごきげんよう!」

というメッセージが留守番電話に残っていました。電話をして、すぐ翌日、バンクーバーからハワイのべトのもとに駆けつけました。ところが……。べトの部屋に入ると、テーブルには料理がずらりとフルコース。

「ようこそ待ってたよ!さあシャワーを浴びなさい。まあ召し上がれ!」

「べトさん、もう悪い冗談はやめてくださいよ!」

まったく何事もなかったかのようです。電話をしたら私が来るに決まっていると思っている。こっちは散々ハラハラさせられているのに……。これには本当に参りました。

「アロハ」の精神が息づくハワイを好んで暮らしていたべトですが、グリーンカードは持っていなかったので、6カ月に1度はビザの更新で帰国していました。帰国といっても成田で入国して、また折り返し帰るというパターンで、本人曰く「成田空港のトイレを借りてくる」ものだったのですが、あの9.11でビザの更新が認められず、ハワイには戻れなくなってしまいました。そのうちに体を壊してガンを患い、身内とは疎遠になっていたため、日雇い労働者が寝泊まりする宿泊施設で暮らしていました。

最後は神戸の鈴蘭台の緩和病棟というホスピスで余生を過ごし、「死んだらハワイに行って散骨してくれ」という遺言を残して2003年、あの世に旅立っていきました。

べトの遺言に基づき、私は遺骨を持ってハワイへ向かいました。太平洋が見渡せるワイキイのカヌークラブでメモリアル(追悼式)を行い、故人を偲ぶ友人たちがおよそ40人集いました。一人ひとりが別れを告げ、全員がアロハオエを歌うなか、遺骨を乗せたカヌーがエメラルド色の海へと旅立っていきました。べトらしい演出だなと思ったものでした。

それから2年経った夏の日に、私は自宅の裏庭にビールの空き缶がひとつ転がっているのを見つけました。「誰だこんなところに」と拾おうとすると、空き缶の隣には写真が1枚裏返しになって落ちていました。写真を表にしてまたびっくり。それはベトと私たち家族が一緒に写った写真でした。何だか気持ちが悪いなと思いながら女房に話すと「あなた今日はお盆よ」と言うじゃないですか。私はベトが呼んでいるんだなと思いました。まるで天国から「サミー、俺のことを忘れるなよ!」と声が聞こえてくるようでした。

ベトが夢に出てきたこともあります。夢の中で私は、べトの運転する車に乗って砂漠を突っ走っていました。べトは、「楽しいだろー?」と言いながら私を脅かすように猛スピードで走っています。

「危ない!」と思って目覚めた翌朝、ダウンタウンの楽器屋に楽譜を買いにいく用事があり、その店でウクレレを買ってきてしまいました。すでに自宅にウクレレを持っていたので、「どうしたの?」と妻からあきれられました。なんとなくべトが「おい、忘れるなよ、オレのことを」と声をかけられている気がして、自分の意志でないところで買うようにさせられた感じがしました。

そんな感覚は、大勢の学生の前で話しているときにも感じます。弁舌のうまかったべトが自分に入り込んで語ってくれている。そんな不思議が感覚を覚えるのです。29歳で、ある企業の支社長まで上りつめ、まっとうな社会人生活を送りながらも、風変わりな人柄と奔放さを持っていたべト。とにかく憎めない、そんな人でした。

それから10年ほどハワイからは足が遠ざかっていたのですが、友人夫婦がオアフに移り住んだというので彼らを訪ねていったのは2012年でした。ベトが紹介してくれて以前から利用していたホテルに宿を取り、近くのレストランで友人夫婦と食事をする予定だったのですが、迎えにきてくれた奥さんの方がなぜか買い物かごにいっぱいに食材を入れた自転車を押してやってきました。

「カピオラニ公園の先にある知り合いの家で食事を作りますから、そこに行きましょう」

カピオラニ公園……、ベトの散骨をしたのはそのあたりだったよな……と思いながらも、友人には何も言わずにいました。そして私たちは広がる青空の下、風もないハワイらしい穏やかな陽気のなかをしばらく一緒に歩いていきました。

「知り合いの家は、その先のコンドミニアムです」

と紹介された、まさにその二軒先が散骨式をしたカヌークラブでした。そう友人に言うと、

「それなら海辺の方へ行ってみましょうよ」

と言って海岸へ抜ける道を進み始めました。そして私たちがビルの間を通って海岸へ出ようとした時、いきなり突風が吹いてきました。その瞬間、ベトが近くにいるような感じがしました。

「サミー、お前何で今まで来てくれなかったんだよ!」

と怒った声に続いて、

「まあまあよく来た。よく来た。来てくれてありがとう」

とやさしく語るベトの声が聞こえてきたような気がしました。その時にはすっかり風は収まり、いつものハワイの青空が広がっていました。

ベトの他界後、あまりに強烈だった彼の存在を遠ざけたかったわけではないけれど、手放しに駆け寄ることもできなかった私に、ベトは素のまま会いにきてくれたのでした。私は感無量の思いでしばらく海を見つめていました。

友人の案内で訪れた知り合いのAさん宅は、高級コンドミニアムの7階。一面ガラス張りの窓からエメラルドグリーンの海が広がっていました。まさにその目の前の辺りがカヌーで漕ぎ出してベトの散骨を行った場所なのです。ここへと導いた天の計らいを思わざるを得ませんでした。

ある時、我が家を訪れた霊能力を持ったヒーラーの方が、私の後ろにポマードで髪をテカテカにした銀縁メガネの人がにこにこしながらいるとおっしゃっていましたが、まさしくそれがベト山野だったのです。ベトは、人が死んでもその人の魂は存在し続けることを教えてくれました。

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Sammy Takahashi

Sammy Takahashi

26年前にカナダのバンクーバーに移住。 約30年前に金星から来たという友人に出会うことがきっかけでスピリチュアルな人生をまっしぐらに生きてきました。今回のインマイライフ パート2は一昨年に連載されたインマイライフの続編です。人生は小説より奇なりと言われます。今回は7編をご用意しています。
Sammy Takahashi

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コメント5件

アバター 樋口健夫 | 2017.10.04 23:45

素晴らしい人生の話ですね。映画のようです。

NoBU NoBU | 2017.10.05 15:11

電話一本で50万ドルとは、天の采配としか思えませんね。

アバター Marie | 2017.10.06 6:56

素敵な話ですね。そんな人と知り合えてつながれるサミーさんは素晴らしい。私も不思議と思いだすカナダで出会った故人がいます。その人にとっては何処まで私が特別な存在だったかは解りません。。。でも私にはとても特別な出会いと別れでした。私は亡くなった後も何かが続くと思っています。だから私達も精一杯良い人生、自分の為だけではなく周りの誰か、何かの為に生きれる人生を送りたいと思っています。

素敵な話をありがとうございました。

アバター すだっち | 2017.10.06 9:36

読ませて頂きました。
ありがとうございます。
人との出会いは必然、どの縁も意味があるということをあらためて感じました。
思いもよらない出来事は、まるでサイン、ギフト。
自分の持つ全てのリソースは、どんな窮地でも救いの手になりますね。
それに気づき、選択するのは自分。
如何なる時も、疑いなく自分を信じること、そして、同じように人を信じた人を信じる心の大切さを、Sammyさんの人生の中で感じました。

世の中は学びの世界、無駄はひとつもありませんね。
人は、学門じゃなく人から学ぶものなんだな、と。
Sammyさん、いつもありがとうございます。

Sammy Takahashi Sammy Takahashi | 2017.10.09 12:21

感想を書いていただき、ありがとうございました。本当に人生には無駄がありませんね。ご縁に感謝です。

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