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Nov 1, 2017

絵描きの視点

ピカソ

Photo & Text by Fumio Kansaku

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今回はピカソを取り上げます。

ピカソは1881年10月25日~1973年4月8日スペインのマラガで生まれました。フルネームはとても長かったようです。Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad (パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダット)だったらしくて、自分でも覚えられず、最終的にパブロ・ピカソと名乗ったということです。

両親は純粋なアンダルシア人ということです。母親のマリア・ピカソ・ロペスは漆黒の髪で、父親は赤毛の装飾職人だったようです。父親の職能のおかげで、絵の具は少年ピカソのまわりにいつもあり、父親の装飾モチーフはたいてい鳥の羽と木の葉と鳩だったために、ピカソはこの鳩に魅せられ一生涯描き続けました。そればかりではなく、実際にアトリエで鳩を飼っていたこともあり、さらに愛娘にパロマと名付けたりしました。

ピカソは主にフランスで制作活動をしました。生涯に1万3000点の油絵と素描、10万点の版画、3万4千点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作した多作な作家でありました。その歩みは決して停滞することがなく、ひとつの絵画の方法を自分の物にするとさっさと次へ移るという 、 動物的な行動力を持つ絵描きさんでもありました。とはいうものの、時にはスランプもあったと思われますがそれを感じさせない歩みでした。

ピカソは「肖(あやか)る」に徹した画家なのでした。ただ、その「肖り」は時代と相手によってそのつど好き勝手に変質してゆき、それがピカソの人生そのものでもあったともいえます。つまり、ピカソは具象を描いてもとても上手でありました。それは技術的に大きな強みでもありました。つまり具象は現存する形から学べということです。それができたからこそ時代時代でそのとき流行した絵画の方法を習得して自分独自のものに作り上げてゆく事が出来たと言うことです。簡単に言えばそれだけ実力があったと言うことなのですが。それがピカソの人生を彩ることになります。

少々私の意見も述べておきます。この世の活動はどれも真似をすることから始まると見て結構です。なぜなら真似することから始まって、そしてその人独自のものに発展させていくからです。それが世阿弥言うところの「まねぶ」→「学ぶ」でもあるからです。先人の真似をしてそして独自のものに発展させていくというのがこの世の勉強(学習)の常でもあるからです。簡単に言うと、学ぶことによっていくらでも学ぶことはあっても、それを極めたとしても結局神様にはなれないと言うことが解って、学べば学ぶほど自分は何も解っていないと言うことが解ってくるということです。誕生してから死ぬまで時間がほとんど無いということも解ってきます。だから本当は一時も惜しまず学びに専念すべきでもあるということも解ってきます。

ピカソの時代は具象画が上手に描けると言うことが条件になっていました。もしかしたらそれは今でもその条件のひとつであるかもしれません。さらに時代は変わっていることもあって、それにプラスアルファが必要になっているのではないかと思います。それが何であるのかは私の世代では何とも答えようがありませんが。価値観が多様化しているのは確かではあります。

またピカソは〈変貌の画家〉とも言われ、作風がことごとく変化した作家で、○○の時代と呼ばれることが多い作家でした。それと同時に関係した女性も次々と変わっていきました。どんなことであったのか少々辿って見たいと思います。

まず青の時代(1901年~1904年)ですが、親友カサジェマスの自殺を契機に、ピカソは青色を基調とした暗い画面で悲哀に満ちた作品を描きだしたということになっています。友人の死はピカソに大きなショックを与えたようです。「死せるカサジェマス」このときは多少色がありました。そして青の時代の開始を告げたのがエル・グレコの作品にならった構図の「聖マウリテレスの殉教」でした。地上における死と昇天の上下の二層的表現になっています。またこの時代にはロートレックからの影響も大きかったようで「浴室(青い部屋)」では自身のアトリエにはロートレックのポスターが描かれたりしています。次に「自画像」は青の時代を代表する作品です。具象画ですが、20歳の若者らしさは無く、どこか年老いた感じがします。早くして味わった人生の厳しさ、深い悲しみや苦悩を抱えたピカソの心理が、静かな目線となって表れています。その姿は、量感と輪郭線の単純化によって強く表現され、暗いものを包み込むかのように大きく描かれています。繊細に茶色で描かれた髭が、青い画面の中でアクセントとなって美しいものとなっています。

なぜ青の時代であったかというと、エル・グレコの影響があったのはもちろんですが、若い時特有のお金がなかったということも影響していると思います。青色の絵の具が安かったからということもあったと思います。そして悲哀、苦悩、不安、絶望、貧困、社会から見放されて最底辺で生きる人々など、人生の悲劇的で憂鬱な側面を描き出しました。それはそういう絵が喜ばれていたということもあったと思います。これから絵を売って生きていくピカソの、作品購入者の心理や時代状況を読んだ、ある“ねらい”があったということもあると思います。青は本来、西洋では「神の色」であり「高貴な色」として使われてきました。抽象絵画を創始したカンディンスキーは、「天上の色」とまで表現しています。

次はバラ色の時代と呼ばれたときです。(1904年~1907年)1904年、ピカソはパリのバトー・ラヴォワール(洗濯船)と呼ばれる建物にアトリエを構え、フェルナンド・オリヴィエという名前の女性と同棲を始めました。最初の女性です。彼女はピカソにフランス語を教えたり、精神的な安定を与えてひたすら絵を描くようにピカソを仕向けました。ピカソは彼女の美しい裸像や身近な人々の肖像画、彼女の仲間たち、俳優、サーカスの芸人たちを、バラ色を基調とした暖かい色で描くようになりました。

彼女と暮らすようになってから「青の時代」の表現は影を潜め、「バラ色の時代」の始まりです。1906年、画商ヴォラールが大量に作品を購入してくれたおかげで、作風の転機となったスペインのゴソルへの旅行が可能になりました。オリヴィエは、次の新しい恋人エヴァが現れるまでの7年間をピカソの伴侶として過ごしました。とにかくピカソの周りは女性で溢れていました。女性を変える度にピカソの画風が変化していったと言っても過言ではありません。

アフリカ彫刻の時代(1907年~1908年)とよばれる時代がありました。アフリカ彫刻への興味はもう少し前から表れていますが、おそらく、このときに絵画の省略法や、彼の抽象画における独特の個性を学び取ったのではないかと思います。アビニョンの娘達にも現れていますが顔がアフリカ彫刻のように描かれています。このことはヨーロッパの絵画へのラディカルな革命行動を起こしたと言えると思います。それは20世紀美術最大のインパクトでした。

次はまとめてキュビズム時代です。細かく分けるとセザンヌ的キュビズムの時代(1909年) 分析的キュビズムの時代(1909年~1912年) 総合的キュビズムの時代(1912年~1918年)に分けられると思います。立体派ブラックと多くの接点を持った時代でもありました。具象画が一つの視点に対して色々な角度から見たものを一つの画面に納めるという技法ですが、画面に描かれたものが丁度四角の立方体のようであったのでそう呼ばれました。ルネッサンス以来の「単一焦点による遠近法」の放棄(すなわち、複数の視点による対象の把握と画面上の再構成)と形態上の極端な解体・単純化・抽象化を目指していました。

新古典主義の時代(1918年~1925年) 1917年の事ですが、かねてより依頼されていたロシア・バレエ団の舞台装置や衣装の製作ためにイタリアのローマに滞在したときに、バレエ団の踊り子オルガ・コクローヴァ(27歳)と知り合い、1918年に彼女と結婚しました。オルガは旧ロシアの将軍の令嬢で、気品があり古典的な美しさを持つ女性でした。オルガとの結婚が、後に「新古典主義の時代」と呼ばれる写実的な具象絵画を描く時代にピカソを向かわせることとなったのです。「安楽椅子のオルガ」「大きな浴女」「女の顔」「母と子」「海辺を走る二人の女」「泉のそばの三人の女」などの作品があります。そして「三人の音楽師」ではキュビズムで培った画面構成の作品を描き上げました。この作品は全てが幾何学的な形に単純化され平面的に描かれています。人物同士、あるいは、人物と物との明確な前後関係が無く、作品からは遠近法的な奥行き感を感じ取ることはできませんが、形の重なりや色自体が持つ前後感によって、浅くはあるが少し複雑な空間が作り出されています。それが作品を平面的に終わらせることなく、作品の新しい“深み”となって立ち現われ、この作品を名作にしています。

次はシュルレアリスムの時代(1925年~1936年)となります。1927年、ピカソ(46歳)は17歳のマリー・テレーズを見染めます。ピカソがギリシャ彫刻のなかに見出していた理想の女の顔をマリー・テレーズに見たのです。美しいブロンドの髪と青い目を持ち、女性らしいふくよかな体つきがピカソの表現欲を刺激しました。「顔」という1 9 2 9年の作品に良く現れています。彼女をモデルとした作品には 《鏡の前の少女》があります。1932年の作品です。マリー・テレーズを暗示する黄色い髪の女性が、鏡に映る自分の姿を見ています。太く黒い輪郭線の強さと色彩の鮮やかさの一体化が画面を強固にし、鑑賞者への訴求力を高めています。具象ではなくてピカソらしい画面構成の作品です。次は1932年作の「夢」です。肘掛椅子に腰かけ眠っているマリー=テレーズです。頭部から始まる曲線が、連続的な繋がりを見せて下方に下っています。横顔と正面から見た顔の結合、二つの背景、ネックレス、身体、両腕、服、シワ、ソファーの各色が二分されているように、この作品は対立する二つの要素で構成されています。それによって、画面全体の極度の平面化が回避され、画面に凹凸感がついて椅子に座る女性の存在感が作り出されています。赤や黄色の原色と、白や桃色などの中間色の組み合わせが美しい作品で、背景の菱形模様が画面にアクセントをつけています。いわゆる人間の二面性を表し、ピカソは女性の中にその二面性をよく見ていたようです。そして「三人のダンサー」《頭部モニュメントのための習作》1929年の作です。シュルレアリスムの時代の作品らしく、現実には存在しない不思議な形をした物体が、モニュメンタル(記念碑的)に描かれています。ピカソの想像力によって作り出されたオリジナルな物体として、形のユーモラスさ、不思議さ、柔らかな陰影の美しさ、彫刻的な物の存在感や空間を楽しむのが良いと思われます。この時代は彫像も多く作られました。この時代に、見る者と見られる者の「画家とモデル」のテーマは、ピカソの生涯にわたる大きなテーマとなりました。

ゲルニカの時代 (1937年) になりますとドラ・マールという女性がピカソの前に現れます。この女性は「ゲルニカ」の制作過程を撮影した女性写真家です。1936年、ピカソ(55歳)は、女流写真家のドラ・マール(30歳)と知り合います。芸術に関心を示さなかったマリー・テレーズとは対照的に、自らも芸術活動を行い、教養も高くピカソの良き理解者でもありました。彼女は「ゲルニカ」の後に描かれた「泣く女」として作品に登場します。愛憎の繰り返しが彼女を不安定にし、精神の病が彼女を苦しめました。愛人のドラ・マールがよく泣く女性であったこともあり、ピカソは「ゲルニカ」の作品の中から泣く女を独立させ、彼女をモデルとして「泣く女」をシリーズ化していきました。ハンカチを口にくわえ、歯を剥きだして号泣する女性の顔が、多視点によって構成されています。見たままを描いた写実的な作品より、この画面からは数倍、女性の悲しみや泣き声が大きく伝わってきます。

「ゲルニカ」が描かれた1937年頃のスペインは、左派(社会主義)と右派(保守勢力)の対立が激化していた時代でした。左派はソ連が支持し、右派はドイツが支援する形で激化したスペイン内戦は、ピカソ「ゲルニカ」が誕生する大きな歴史的背景となりました(ピカソは左派)。スペインは第一次世界大戦後の混乱で民衆の不満が高まり、王制打倒を目指す共和派(左派)が選挙で躍進すると、国王アルフォンソ13世は退位を余儀なくされ、1931年に無血革命の形で共和制へ移行しました(スペイン第二共和政)。共和政下のスペインでは1936年、共産主義政党の国際組織コミンテルンの暗躍により社会主義政党「スペイン人民戦線」が政権を握りましたが、政治的混乱や治安の悪化が収まらず、また急激な政教分離により、カトリック信者が大半を占める民衆の支持を失っていきました。なお、ゲルニカ空爆以前にも無差別爆撃は双方により行われており、バルセロナなどではより多数の死傷者が発生しました。ピカソの絵画「ゲルニカ」は、左派(社会主義政府)の立場からフランコ軍側を非難する意図で描かれた可能性が高い作品であり、当時どちらかの陣営を一方的な悪として印象付ける恐れがある作品であったことには留意する必要があると思います。実際、ゲルニカ空爆の約3か月前の1937年1月、ピカソは対立するフランコ側を貶める内容のカリカチュア(風刺画)「フランコの夢と嘘」という政治的な内容の銅版画でフランコを名指しで中傷しており、ゲルニカ以前にもピカソによる反フランコという政治的な態度は既に明白になっていました。絵画「ゲルニカ」の意味するものとは?パリでゲルニカ空爆(1937年4月26日)の一報を受けたピカソは、パリ万国博覧会のスペイン館で展示される予定の壁画を製作していましたが、急きょテーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ、油彩よりも乾きが速い工業用ペンキを用いて、縦3.5m、横7.8mの大作「ゲルニカ」を6月4日には完成させることとなったのです。

晩年の時代(1968年~1973年)というのは自由の時代と言っても良いかもしれません。好きなように描いたとでもいいましょうか。それまで培ってきた色々な技術を駆使した作品を次々に発表した次期だったと思います。死ぬ一年前に描いた自画像は人によってはなんと苦しい自画像だという評価をする人もいますが、私はピカソの集大成ではなかろうかと見ています。ピカソらしい人間の二面性が、女性に見いだしていたものが自分に現れている。「自画像」はまさにピカソの集大成であったと思います。シンプルな中にピカソが人生で得たものがみんな入っているという感じです。

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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