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Dec 1, 2017

絵描きの視点

アンリ・マティス

 Text by Fumio Kansaku

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アンリ・マティスの簡単な経歴を紹介します。(Henri Matisse, 1869年12月31日 – 1954年11月3日)フランスのノール県 Le Cateau-Cambresisで生まれました。豊かな穀物商人の長男として生まれ、育ったのはボアン=アン=ヴェルマンドワで、1881年に法律の勉強をするためにフランスに渡りましたが、虫垂炎になったことから病床に伏すようになり、暇つぶしに母親から絵を描くことを薦められて始めたのがそもそものきっかけとなりました。それが1889年のことで彼が21歳の時です。後にその時のことを彼は、「天国のようなものを発見した」と述べています。

マティスは22歳にしてようやくパリで本格的に画家を目指すこととなり、1891年にジュリアン・アカデミーに入学をしました。そしてパリのエコール・デ・ボザールを目指しますが入学することは出来ませんでした。でも、その熱意にほだされたギュスターヴ・モローの個人指導を受けることが出来るようになりました。そしてその時ボザールの生徒だったジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶこととなりました。

1898年にはアメリー・パレイルと結婚をしました。「緑のすじのあるマティス婦人」の有名な絵画のモデルです。その前にマチスは若かりし頃1894年にモデルのキャロライン・ジョブラウとの間に非嫡出子の娘マルグリットをもうけています。結局、彼の絵のモデルをしてくれた女性に、ピカソ同様、女性に次々と手をつけていました。実際はどちらもどろどろしていたのでしようが、ピカソはカラット明るいイメージなのに対して、マティスはむっつりスケベというイメージがつきまといます。

ピカソとマティスの2人の作品の大きな違いとしては、マティスは緑豊かな自然を描くのに対して、ピカソが自然を描くことはなく、もっぱら想像の世界を探求していました。しかし、共通して描いた主題は女性で、描かれた女性は妻(または愛人)だったということです。お互いに画家とモデルというテーマを一生持ち続けたというのも因縁であったようです。女性を通して思考していたのはどちらも同じで、ピカソは女性を替える度にその女性の二面性を意識したのに対して、マティスはピカソのように派手さが無くて一歩引いて観察していたイメージが大です。

マティスは若いロシアの移民女性リディア・デレクターズカヤに関心を抱くようなりました。そのことに気づいたアメリー夫人との仲は急速に悪化し、1939年に41年の2人の結婚生活は破局を迎えました。財産は均等に分割され、結局離婚することとなりました。このマティス夫婦の離婚事件に罪悪感を感じたデレクターズカヤは、自ら銃で胸を撃って自殺を試みましたが、重度の後遺症が残る状態で生き残ることとなりました。その後、彼女はマティスの元へ戻り、残りの人生をマティスとともに過ごすことになります。デレクターズカヤは年老いたマティスの家族の1人だけでなく、作品の支払い、マティスの連絡口、手紙のやり取り、アトリエでのアシスタント、モデル、その他マティスのビジネスに関するあらゆる事務作業を行なうマネージャーとなり活躍したと言われています。

また同年、看護学生で病院でマティスの介護をしていたモニーク・ブルジョアとプラトニックな交際関係を築き、彼女に遠近法などの美術を教えることとなりました。1944年にモニーク・ブルジョアが修道院に入るために病院を去ってからも、マティスはときどき彼女と連絡をとっていたということです。ピカソとは違いますが、マティスもまた女性関係は旺盛なところがあったようです。

さらに彼は解剖学を学ぶつもりで彫像を手で触るようにしたと言うことです。「触ることによってのみ得られる量感の概念」を実感したかったのだと、のちに友人のルイ・アラゴンに語っています。ここでセザンヌの人体肉体的手法を学び取っていたようです。つまり彫塑といい解剖学といい、マティスはたんなる色面作家だけではなかったと言うことです。色々作品はありますが、ダンス、ヴォリュームある身体と背景の調和、ブルーヌードなど有名な作品が目白押しです。さらに印象派のジョン・ピーター・ラッセルのすすめでヴァン・ゴッホを紹介されその影響からフォービズム的色彩へとすすんで行ったようです。そうしてこれからがようやく色彩派としてのマティスとなります。

そして1905年のサロン・ドートンヌに出品された作品群が強烈な色彩で、それを表したルイ・ボークセルがまるで野獣の檻にいるようだと言ったところから野獣派(フォービズム)と呼ばれるようになりました。この野獣派の作品群はキュビズムのように理知的ではなく、感覚を重視し、色彩はデッサンや構図に従属するものではなく、芸術家の主観的な感覚を表現するための道具として、自由に使われるべきであるとする考え方のもとに成り立っています。彼の絵は自ら認めるように装飾的で癒やし的であり、色彩もタブローの中では調和的であり、決して激情的ではなくて、補色を含む色彩バランスの上に成り立っていました。このとき一緒に出品していたのはマティスの他にルオー、ドラン、ヴラマンク、デュフィ、ヴァン・ドンゲンフォーヴィスムなどがおりました。象徴主義者であったギュスターヴ・モローがフォービズムの作家達の指導者であったと言うことです。まず、彼がフォービズムへ一歩を踏み出したのは印象派的手法であったということですが、その時のタイトルは(ボードレールの詩句の世界を絵画に 豪奢・静寂・逸楽)でしたが、印象派の手法をまねすることによってモダンアートの世界へと進出することとなりました。

今日では、パブロ・ピカソ、マルセル・ディシャンと並んで20世紀初頭の視覚芸術の発展を促した一人として評価されています。この時代の画家達は研究、研鑽は目一杯やりました。それと関連した話ではピカソもマティスもアフリカ彫刻からの影響を受けています。ピカソはアフリカ彫刻の影響を受けて「アビニョンの娘たち」を制作しました。この裏話としてまずマティスがアルジェリア旅行でアフリカ美術へ興味を持ち、スタイン家でピカソに会う時に小さなアフリカ彫刻を持参したそうです。するとピカソは、その彫刻が気に入って手放さなかった。もう一説は、マティスがアフリカ彫刻のことをドランに話し、ドランが熱をあげてピカソを民族博物館へ連れて行って、ピカソも夢中になった。という話があります。どっちにしろ二人の間のお話しで、今となっては真相は闇の中ですが。

キュビズムの出発点というべき「アビニョンの娘たち」を制作した時にピカソは一部の友人達に見せたらしいのですが、マティスは怒ったという話です。ブラックすら「三度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われたようものだ」と言いはなったと言うことです。アンリ・マティスの怒りは自分がわずか数年前に提示し、世間を騒がせた絵を古典扱いされたことにあるのではないだろうかという意見もあります。

友だちの中では一度は怒ったものの、この絵に唯一理解を示した男がいました。ジョルジュ・ブラックでした。既存の絵画に不満を抱いていた彼はこの絵を見たときにピカソにこう言いました。「君は私の体に油を注いで火をつけた。」それこそ彼は燃える炎となって絵の中で視点を飛びまわる絵、いわゆるキュビズムに挑みました。そして彼は「レスタック風景」を描きあげると、すぐさま発表しました。くしくも1907年のことで、これをもってジョルジュ・ブラック、轟轟たる非難の嵐の中へと突入したわけでした。一方、アンリ・マティスもピカソの「アヴィニヨンの娘たち」が提示されたときには当初は激怒したものの、後、それに対し深い理解を示しピカソのよき理解者となったという話が伝えられています。

1941年にマティスは十二指腸ガンを宣告され、以後、車椅子の生活になりました。ヴァンスのロザリオ礼拝堂の壮大な壁画を完成させたのは、そんな状態のときでした。1920年代以降は古典絵画に回帰して、油彩画の作品が多くなります。第二次世界大戦時のヴィシー政権下のフランスでも絵画活動を行い、並行して教会の内装デザインやグラフィックデザインでも活躍するようになった。晩年は色紙を切り貼りした切り絵(カットアウト)で壁画レベルの巨大な作品を制作して、評価を高めました。以上がマチスの簡単な画業となります。

明治維新によって日本は西欧から色々なことを学びました。逆に西欧の方もいろいろと学んでいます。特に印象派のクロード・モネなどは、葛飾北斎からが大いに影響を受けいてます。とくに外光派であった印象派は北斎から学ぶことが大だったのです。その印象派を学んでフォービズムを作り上げたマチスにとって、日本の北斎は先生の先生であった訳です。特に日本の白樺派は印象派、フォービズムから大いに影響を受けているので日本から影響を受けている印象派、フォービズムは取り入れやすかったのは確かな様でした。その後の西洋絵画の様々な画法、手法は日本の芸術発展にも取り入れられ日本の芸術発展にも大いに貢献しています。

ご存じのようにこの頃の西欧の絵画運動は日本に直接流行しており、啓蒙運動として白樺派にも多大な影響がありました。ここで主な作家を吾げておきます。梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、熊谷守一、小出楢重、小絲源太郎、児島善三郎、佐伯祐三、里見勝蔵、中川一政、中川紀元、中村彝、野口弥太郎、長谷川利行、前田寛治、三岸好太郎、村山塊多、柳瀬正夢、萬鉄五郎等々。明治から大正にかけて活躍した画家達ばかりです。

私はマティスの素描が大好きです。黒一色の素描です。それは何とも言えず味があります。それは何でなのだろうかとよく考えますが、1つ言えるのはマティスは「方法」に生きてきたからではないだろうかと言うことです。南仏ヴァンスのドミニコ派の礼拝堂の内装や上祭服のデザインや、植物だらけのアトリエづくりや、ときには鳥を300羽も飼ったけれど、それはいずれもマティスが好きな「方法」から生まれたものだったからです。体力がなくなって「切り絵」に向かっていったのも、それがマティスの「方法数寄」に適っていたからだろうし、ホテルをアトリエにしてしまったのも、このせいだと思います。

最後に少しだけ語録を挙げておきますが、マティスは「方法」についてこうも言っています。「真の画家にとって最もむずかしいのは、一本の薔薇を描くことです。なぜなら、まず初めに、これまでに描かれた薔薇の絵をいっさい忘れなければならないからです」。「絵画制作において興味深いのは、自分の脳のなかの感覚を整理することなんです」。「私にとって表現とは、人間の表情のなかに浮かび上がったり、激しい動きによって生み出されるような情熱のなかにあるのではありません。表情は、私の作品のあらゆる位置関係のなかにあるのです」。「私たちは私たちの時代に属していて、この時代の意見、この時代の感情、この時代の過ちを共有しているのです」。「作品はゆっくりと練り上げられていきます。最初のポーズでは、新鮮で表面的な印象を記録します。何年か前には、この段階で満足のいくものができあがることがよくありました。もっと遠くをめざしている現在、満足のいくことがあるとしたら、作品に空白が残るはずです。すなわち自分にしか捉えられない瞬間、翌日にはまったく見失ってしまうであろう瞬間のはかない感覚を、記録していると思います」。「私はダンサーや曲芸師のようなものです」。「私は線の太い細いを使い分け、それにもまして白い紙のなかに平面を区切ることによって、その面には何も描き込みませんが、隣り合う面を位置させることによって、色調を変化させていきます」。「線と色彩を調和させることがいちばん難しい」。「私が試みていることは、レンブラントやターナーのデッサンによくあらわれています」。「私は、満足して死を迎えるために自分の絵をやりなおそうとしている酔狂な老人なのです」。

〈引用画像出典先:『もっと知りたいマティス』生涯と作品 / 天野知香著〉

 

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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