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Dec 29, 2017

絵描きの視点

マルセル・ディシャン

 Text by Fumio Kansaku

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マルセル・ディシャンは1887年7月28日に生まれ、1968年10月2日に81年の生涯を閉じています。81年間、彼はこの世で息をして生活していたと言うことです。絵も描いたしレデイ・メイド(後述)もしたし、チェスもしたりして生涯を終えました。彼はフランスノルマンディー生まれで、絵を描き始めた頃は印象派、フォビズム風の絵を描いていましたが、最初は彼の言う網膜的な絵画でありました。デュシャンが嫌いなのは“網膜的な評判”にとらわれて社会が律せられていることなので、絵画を捨てたのもそのせいだったといわれています。ずっと己の立場に疑問を持ち続けていたのでしょう。その油彩画は1910年前半に放棄しています。
彼は、ニューヨークダダの中心人物と言われています。何故そうなったのかと言いますと、きっかけはアーモリ・ショー美術展が開催されたことにさかのぼります。アーモリー・ショーとは、1913年にアメリカ美術・彫刻家連盟によって組織された国際近代美術展のことでした。この美術展が開催されたことによってヨーロッパ中心だった絵画のイニシアチブをアメリカが奪取するきっかけとなり、また、アメリカを活性化し、近代化する上で強力な起爆剤となった展覧会でもありました。この展覧会にディシャンは「階段をかけ降りる裸体№2」を出品。その表現をめぐって物議を醸し出しました。
この展覧会は、第一次世界大戦直前に開催された1913年2月17日から3月15日まで、ニューヨークの25番街から26番街のレキシントン通りにある69番連帯兵器庫で開催されました。その後、シカゴ美術館、ボストンにあるコプレー美術協会を巡回展示しましたが、スペース不足のためアメリカ人美術家らの作品は展示されなかったと言うことです。この展覧会の評判がディシャンの渡米のきっかけとなりました。それは、第一次大戦以前の1915年でしたが、アーモリーショーにおけるヨーロッパとアメリカでのディシャンの作品への反応の違いが、渡米を決意させたといわれています。
1913年、ニューヨークのアーモリー・ショーに出品された『階段を降りる裸体』が話題騒然となったとき、人々はデュシャンについては何もわからなかった。解らなかったけれどなにか心に引っかかって話題になったのだろうと思います。その後がレディメイドとして、1916年に便器をさかさまにして『泉』と名付け、R・ムットの署名をつけて出品したときも、だれもデュシャンを理解しませんでした。でも、アメリカの若い作家達には何だか解らないけれど気になる存在として崇められていたようです。
この展覧会にはドラクロア、クールベの古典派からマチス、ピカソ、カンディンスキーなどが出品しており、アメリカはどちらかというとそれまでは具象絵画が主流となっておりました。この展覧会に出品したディシャンがアメリカに与えたショックは計り知れないものがあったようで、特にアメリカの若い美術家を大いに刺激したようでした。この展覧会を持ってアメリカの美術元年となったとも言われています。
マルセル・ディシャン、マン・レイ、フランシス・ピカビア、モートン・シャンバーグなどは、芸術そのものを高貴な場所から引きずり下ろし、皮肉り、知的に冷笑するというその態度は既製の価値を否定する(ひいては自己否定までに向かう)ダダの典型でありました。よって彼らはシュルレアリズムに向かいませんでした。のちにデュシャンはインタビューに答えてダダイストだったことはなくて、友だちが多かったことからそう呼ばれたのではないかと答えています。
デュシャンは「創造」という言葉を嫌っていました。たとえば、アーチストが作品を創ったとして、それを後世まで伝えるのはその作品を見いだした鑑賞者によるものであって、アーチストではありません。いくらアーチストが創造という言葉を叫んだところで、その作品を評価するのは鑑賞者であり、問題は作品に内在する質である。それをもってその作品のもつ意味が後世に伝わることとなるということです。つまり、作者が意図した意味とは違う伝わり方もあるということです。
ディシャンが最も美しいものは「運動」だとみなしていました。運動で思い出すのはベルグソンで、ディシャンとほとんど同時代の人ですが、その関わりについてはよくわからず後の宿題とすることにします。とはいうものの何らかの影響を受けたのは間違いないと思われます。そしてディシャンが青年期に心を奪われたのは、ガス燈の光とジュール・ラフォルグの詩を愛しましたた。ということはラフォルグはホイットマンを信奉し、文学者ショーペン・ハウアーそしてドイツの哲学者エドゥアルト・フォン・ファルトマンを愛していたので、その流れを汲む人と解釈しても良いかもしれません。そしてアンリ・マティスと「四次元」でした。
それは、デュシャンの最も劇的な特徴は、知識を勘でしか解釈しないというところにあるということでした。偉大な一知半解といったほうがいいかもしれません。これは実のところはけっこう多くのすぐれたアーティストに共通していることなのですが、ただしデュシャンはその勘が格別に冴えていたようです。とくに四次元に対するデュシャンの勘は、ほとんど科学の目でいえばでたらめに近いものではあったにもかかわらず、しかしめっぽう冴えていたようです。なぜ、こんな程度のことがデュシャンを支えられたかといえば、デュシャンは人間の生き方を見分ける目、とくにニセモノを見分ける目をもっていたからです。
また、デュシャンは「大衆との交流」をバカにしていたし、それ以上に「芸術家との交流」をバカにしていました。芸術家同士のなれ合いなお付き合いはまったく駄目でありました。デュシャンが好きなのは、細縞薔薇色のシャツとハバナの葉巻とチェスであり、外出も嫌いだし、むろん美術館や展覧会にはほとんど出かけませんでした。デュシャンが重視していたのは、おそらくは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということでした。レディメイドについてさえ、デュシャンは外見の印象を拒否するもののみを選んでいました。また、他人の評判から逃れる方法を知っていました。意外に、こういうことが人生を救うものなのである。
ディシャンの作品はタブロー作品ではなくて意味のないレディ・メイドが有名ですが、レディ・メイドという考え方は、作品の使用目的をはぎ取って、ただ置くということで、作者が行いのは選択するということで、ダダイズムがよく使う反芸術ではなくて無芸術であるという考え方でした。でもやはりそうなっても作品となるという不思議な意味を持ってきます。ディシャンの作品点数こそ少なかったものの、レディ・メイド、匿名芸術、観念の芸術、ダダイスム、複製芸術、インスタレーション、科学の導入、死後の芸術など、個々の作品が後の現代美術へ与えた影響は計り知れないものがありました。
なお、オリジナルの大ガラスにはひびが入っているが、このひび割れは意図的に入れたものではなく、1926年に輸送中の取り扱い不備により偶然生じたものだったということです。デュシャンは意図しない「偶然」によって、作品に新たな要素が付け加えられたことを喜んだということです。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだということになるでしょうか。
ディシャンはピカソなどの絵に賭けた生涯を否定する立場で有名になった芸術家でもありました。もちろんそれはあると思います。というもののディシャン本人は否定する気はなくて、かといって認めもしないそれだけの理由であったと言っています。いつもデュシャンは「私は何もしていない」と言いつづけました。デュシャンはその存在そのものが深い断片にすぎなかったのでした。「私はひとつのプロトタイプである。どんな世代にもひとつはそういうものがある」。とディシャンはインタビューの中で述べています。
(画像は「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称、大ガラス)」(下)
 http://blog.livedoor.jp/kokinora/http:/ より引用させていただきました)
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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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