Magazine
Jan 28, 2018

絵描きの視点

マン・レイ

Text by Fumio Kansaku

fumio_main

マン・レイ(Man Ray、本名:エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudnitsky、1890年8月27日~1976年11月18日)は、ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれました。 1897年に一家でニューヨーク・ブルックリン区に転居し、1904年には高校に入学して製図を学び、卒業後は出版社で図案を作ることで生活を立てながら、画廊に出入りするなどしてしだいに画家として活動するようになりました。

マン・レイの個性を育んだのは、1905年、アルフレッド・スティーグリッツとエドワード・スタイケンがニューヨーク5番街に、奥行わずか15フィートの小さな画廊、「291」を開いたことに始まったと言って良いでしょう。1911年、この画廊でセザンヌ展が開かれたとき以来、青年マン・レイはここに入りびたりになります。次のピカソ展を見たあとは興奮さめやらず、父親の裁断室の床や棚に散らかっていた布切れでタペストリーをつくったりしたそうです。おかげで父親は彼がいっぱしのアーティストになったつもりになっていたそうです。

結局、こういう“右顧左眄”(うこさべん〜あっちこっちに気持ちが動いて定まらない事)こそがマン・レイのその後のアートをつくりあげたと言っても良いでしょう。また、そういう“右顧左眄”に没頭したくなるような、そういう変な雰囲気が「291」の周辺には漂っていたのです。とりわけデュシャンが引きこもってレディメイドや大ガラス作品だけに手を染めているのが、かれらの“右顧左眄芸術”を正当化することになりました。そして、マン・レイはデュシャンとともに一種の“芸術NPO”ともいうべき活動を始めることとなり、この芸術NPOを「ソシエテ・アノニム」といいました。そんなころ、ヨーロッパで革命的な美術運動が勃発することになりました。チューリッヒのキャバレー・ヴォルテールにダダが生まれた頃でした。ダダはマン・レイをアナーキズムに近づけさせることとなり、トリスタン・ツァラと『アザーズ』のアレンズバーグが交流しはじめたのも刺激になったようです。

ダダは世界中に飛び火しました。すぐにニューヨーク・ダダも産声をあげました。けれどもダダの本場はなんといってもツァラのいるパリなので、マン・レイは決断して、パリに行きました。このころすでにデュシャンがパリに戻っていたのです。デュシャンは「ツァラが住んでいる小さなホテルに君の部屋をとっておいた」手紙に書いて、マン・レイの心をくすぐっていたようでした。

マン・レイはデュシャンのその生き方自体に惹かれていました。また、芸術の扱い方にも感心をしていました。このとき以来、二人の親交は死ぬまで続くことになります。「心が騒いだ」とマン・レイはそのときのことをのちに一言だけだが、書きしるしています。この時期、アートの時代を引っ張ったのはアルフレッド・クレイムボルグとウォルター・アレンズバーグが編集をした、雑誌『アザーズ』でした。マン・レイもその編集力に煽られて、1915年に初めての個展をひらくことになりました。風景画が中心ではあったのですが、このときにひとつの“発見”に出会っています。記録のために自分の絵をプロの写真家に撮ってもらっていましたが、これが気にいらず、自分で作品を戸外に出し、太陽のもとで撮影してみました。そしてそこに、絵でもない、写真でもない“もの”を発見していったわけです。

その経緯をもう少し詳しく述べますと、1921年7月、マン・レイはエコールドパリの時代のサン・ラザール駅に着きました。すでに長い船旅のあいだに、自分の過去をすっかり捨てることを決めていたようでした。パリでのマン・レイは、新たな仮面をかぶり、未知の服装をまとった“謎のアーティスト”を自作自演することにしたのでした。そこがマン・レイ畢生の自己演出だったようです。

そのように変身を覚悟したマン・レイを迎えたのは、ダダイストやシュルレアリストのたむろした「カフェ・セルタ」でした。そこには、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、フィリッポ・スーポーらの、いまはまだツァラの時代だが、やがてはそれを打倒することになるシュルレアリストの半熟卵たちが、毎夜ポートワインを飲んでいたのでした。マン・レイはその連中に、半ば早合点されて“ニューヨーク・ダダの王様”として歓迎されたわけです。その後のマン・レイは、よく売れる交遊録のような日々をおくるようになりました。

話は前後しますが、1915年にはフランスの詩人であるアドン・ラクロアと結婚し、この頃から本名のエマニュエル・ラドニツキーではなく(本名のEmmanuel Radnitzkyを縮めた)マン・レイと名乗るようになりました。

マン・レイはモンパルナスに住みながら本格的に写真に傾倒して勉強をするようになりました。既に申し上げましたが、その年6月にパリに戻っていた親友のマルセル・デュシャンの紹介によって、パリのダダイストたちと交友を始めたのがこの頃でした。その中にはフランシス・ピカビアもいました。また、パリに渡って数ヶ月後にはフランスの歌手・モデルであるキキに出会い恋に落ちたりもしました。そしてこの頃、自作の絵を写すため写真機を購入したり、この年「ニューヨーク・ダダ」誌を創刊したり、ヨーロッパのダダと同時並行的に進めたり(1921年、デュシャンとレイにより)いろいろと活躍をしました。それだけではなくて1921年10月には、絵画とドローイングによる最初の個展を開催したというわけでした。

マン・レイは最初の個展は絵画、ドローイングなどでしたが、ダダイスト、シュルレアリストなどの友だちの影響により画家、彫刻家、写真家など多数の技法を試みてその表現の幅を広げて行きました。とくに、マン・レイと言えば写真と言われるほどたくさんの作品を生み出して行きました。レイヨングラフ(印画紙の上にいろいろな立体を直接置いて感光させる〈rayographe〉)、ソラリゼーション(現像時に、露光をある程度過多にすることにより、モノクロの写真作品の白と黒が反転する現象。意図的に行われ、その結果、白黒が(部分的に)反転した作品のこと)もソラリゼーションと呼ばれました。一説によると、マン・レイが写真の現像中に、助手であり愛人だったリー・ミラーが現像をしていた部屋のドアを誤って開けてしまったが、その結果生じたものを、マン・レイは「失敗作」とは考えずひとつの効果として評価したというのがその始まりとする説もあります。

一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残しています。彼は職業的な写真家としても成功をおさめ、ファッション雑誌などに写真が掲載されるようになりました。さらには彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交友し、ブランクーシに写真の技術の手ほどきをしたりもしました。シュルレアリスム運動が起こると、シュリレアリスト達とも交わり、シュルレアリスム的作品も手がけることとなる。ソラリゼーションを表現技法として最初に利用したりしました。

1925年、第1回シュルレアリスム展にマックス・エルンスト、パウル・クレー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと共に参加しました。それと同時に、一緒に参加したアーチスト達の姿も写真に収めています。1929年にはキキと別れ、ヴォーグの人気モデルでのちの戦場ジャーナリストとなったリー・ミラーとカメラマン助手兼恋人として3年間ほど交際しました。その後戰火を避けてアメリカに移り、ロサンゼルスで暮らしハリウッドスターなどの写真を撮りましたが、パリほどの名声は得られませんでした。1946年頃にはマックス・エルンストとドロテア・タニングとマン・レイとジュリエット・ブラウナーと合同結婚式をあげました。とにかく他の芸術家同様、女性遍歴もお盛んであったようです。

1951年には再びフランスに渡ってパリでの活動を再開。1969年にはボックスアート(ボックスアートは商品の入った箱の表装に描かれたイラスト等の絵のことであるが、特にプラモデルのパッケージに描かれた絵のことを指す場合が多い。)の『ペシャージュ』を作成しました。現在は日本の長野県にあるセゾン現代美術館に所蔵されています。

1976年11月18日にパリで死去。墓はモンパルナス墓地にあり、ジュリエットと共に眠るマン・レイの墓碑には「Unconcerned, but not indifferent」と「Together Again」の文字が刻まれています。以上が大まかなマン・レイの画歴と言うことになります。それだけではなくてマン・レイはパリでの滞在期に、実験的なサイレント映画の制作も手がけています。

最初の作品、”Le Retour à la Raison”(1923年)は、ダダイスムの映画版ともいえるものである。「理性への回帰」というタイトルに反し、その中身は釘や画鋲、塩や胡椒などをカメラを使用せず直にフィルムに振りかけたりして焼き付けたイメージ群の、脈絡のないコラージュであり、最後にかろうじて具象的なイメージとして、女性の裸体が映されています。

しかし、”Emak-Bakia” (1926年、バスク語で「ひとりにしてくれ」の意)においては、より具象的なイメージが用いられ、路上を走る車、砂浜での波などの屋外の風景も映されています。ストップモーションを用いての簡単なアニメーションなども試されています。友人である詩人、ロバート・デスノスの詩に触発された”L’Étoile de Mer”(1928年、ひとで)では、男女の悲恋の物語という、抽象的であるものの核となるストーリーの確立が見られ、人物、感情の動きに焦点が当てられていて、その翌年には、ド・ノアイユ子爵夫妻の依頼を受け、”Les Mystéres du Château du Dé” (1929年、骰子城の秘密)を制作しました。なお、”Les Mystéres du Château du Dé” 以外の作品にはキキが出演しています。

もちろん西洋の影響は日本においても大きく、戦前では、中山岩太、福森白洋、瑛九、山口正城、音納捨三らが制作しています。なかでも、瑛九は、フォトデッサン(Photo-dessin)と名づけて、戦前の日本人としては最も多くのフォトグラム作品を残しています。

恒例となっていますが、マン・レイの言葉の幾つかをご紹介します。

◆もちろん、技術的なことにしか目を向けない人は常に存在していて、彼らは「どうやって」と尋ねる一方、より好奇心の強い人はこう訊くでしょう、「なぜ」と。個人的には、私はインフォメーションよりもインスピレーションを好んでいるからです。

◆(どんなタイプのカメラで撮影するのが好きですか?の質問に対して)ひとつもありませんと答えます。つまりどんなタイプであり修正を加えなければ使えたものではないからです。私のカメラはすべて自分で考えたものだからです。レンズを分解して組立て直し、違うカメラに取り付けるからです。私は写真で撮れないものは絵に描きます。例えば想像や夢から生じたもの、または無意識の中から駆り立てられたもの、逆に絵に描きたいと思わないものは写真に撮ります。それは既に存在しているものをです。

◆自分のキャリアを画家から始めたことは非常に幸運であった。最初にカメラと直面したとき、私は大変怖じ気づいた。そこでいろいろ研究しようと決心した。しかし、画家としてのアプローチを保ったままだったので、写真を絵画のように見せようと試していると非難を受けたほどだった。実際には試す必要はなかった。画家としてのバックグラウンドやこれまでの鍛錬のおかげで自然に出来てしまったのだ。何年か前、私は絵画を写真のように見せるというアイディアを思いつきました。これには正統な理由がありました。私は自分の手先の器用さから注意をそらし、根本的な考えだけが目立つようにしたかったからです。もちろん、解説文を拡大鏡で見て、「方法」を知ろうとする人間はいつの世にもいて、彼らは自分の脳を使って「なぜか」を理解しようとしないのだ。

◆自分のキャリアを画家から始めたことは非常に幸運であった。最初にカメラと直面したとき、私はたいへん怖じ気づいた。そこでいろいろと研究しようと決心した。しかし、画家としてのアプローチを保ったままだったので、写真を絵画のように見せようと試していると非難を受けたほどだ。実際には試す必要はなかった、画家としてのバックグラウンドやこれまでの鍛錬によって自然にそうなってしまったのである。何年か前、私は絵画を写真のように見せるというアイデアを思いついた! これには正当な理由があった。私は自分の手先の器用さから注意をそらし、根本的な考えだけが目立つようにしたかった。もちろん、解説文を拡大鏡で見て、「方法」を知ろうとする人間はいつの世にもいて、彼らは自分の脳を使って「なぜか」を理解しようとしないのだ。

 (引用画像:ギャラリー『ときの忘れもの』HPより)

 

The following two tabs change content below.
Fumio Kansaku

Fumio Kansaku

画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
Fumio Kansaku

最新記事 by Fumio Kansaku (全て見る)

Comment





Comment