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Feb 26, 2018

絵描きの視点

マーレヴィチ

Text by Fumio Kansaku

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マーレヴィチの本を読んでいると、とは言っても「無対象の世界」(バウハウス叢書11・中央公論美術出版)「零の形態」(スプレマチズム芸術論集・水声社)しか読んでいませんが、それも、この原稿を書くに当たって購入した2冊で、にわか勉強いうことになりますが、絵を熱心に描いているときに、マーレヴィチにはそれほど熱心ではなかったと言うことは確かでした。

マーレヴィチを読んでみると何故か、一年後輩の I 君を思い出します。彼はモンドリアン宜しく縦横の黒い線と、四角い色彩の絵を描いていました。それが彼の売りでもありましたし、個性でした。まるっきりモンドリアンかと言うと、四角は彼独自の工夫した色使いで、モンドリアンの使わない色使いで、 I 君の独自性と言うことになると思います。ですが、さすがに毎回同じにモンドリアン風だとつまらなくなります。

それに、モンドリアンがその線と四角の画面構成に至った行程は彼の絵画からは見えてきませんでした。モンドリアンは木のスケッチから彼独特のフォルムへ至るという過程が残されています。 I 君はモンドリアンの行き着いたフォルムから始まっていて、なんとなく、それ以上は行きそうもないなと予想していたら、案の定、それ以上は行かなくなり、絵を描くことをやめてしまいました。

実を言うと私が絵を一生懸命にやっていたころ、モンドリアンやカンディンスキーは何回も読みましたが、マレーヴィチに関しては注目しておりませんし、研究もしませんでした。というのは描いている私にとって、ピカソやマチスなどのようにどんどん変貌を遂げて行くというスタイルの画家に夢中でありましたが、マレーヴィチの絵画のように突き抜けてししまった、ほとんど目もくれなかったというのが実情でした。 I 君の絵画ファンだった友だちでさえも「つまんない絵だ」と本人の絵の前で堂々と公言していたくらいでしたから。

作品がエンターティメントでなければ面白くないなどと良く言われますが、大概の作家は、どこか、鑑賞者のためにという意識があるようです。そういうことは考えずに、自分のためにやっているんだと言いながら、どこか見ている人を意識してしまうというのが普通のようです。作家を目指す人はどちらにするか、一度は考えなければならないところでもあります。徹底してやってしまうと、観客や他人の事などおろそかになり突き抜けてしまいます。面白くなくなるのは当然で、作者の独りよがりと言われてもしかたがなくなります。

物事に無用と有用があるようように、音楽にもあるようです。それまでベートーヴェン、モーツアルト人々を楽しませたクラシック音楽などが一方にあるとすると、1866年生まれのエリック・サティが家具の音楽と称したあたりから音楽の様相が変わってきたと言ってもよく、ドビッシー、ラベルや印象主義の作曲達にも影響を与え受け継がれて行きました。これが無調整音楽とよばれる分野です。その後、シェーンベルグ、ウェーベルン、スクリャービンなどが登場してきます。それに対してベートーヴェン、モーツアルトなどが調性音楽とよばれるようになり、調性、無調整音楽の概念が誕生したということになります。

面白い曲とよばれるものは、中心となる音があってヤマがあります。無調整音楽というのはヤマがなく、挙げ句の果ては同じフレーズが何回も繰り返したりするようになったりします。音だけが延々と鳴り続けたりして、テリーライリーのミニマルミュージックであったり、環境音楽のブライアン・イーノであったりするわけですが、これらの作家達は私のレコード、CDコレクションの棚に並んでいます。

絵画で、面白くない地点に突き進んでしまったのがカジミール・マレーヴィチだったわけですが、無対象を主義とした「シュプレマティスム(絶対主義)」を提唱しました。要するにマレーヴィチが試みたのは、精神・空間の絶対的自由でした。ここにヨーロッパのモダニズムと未来派はシュプレマティスムという到達点に至ったというわけでした。

彼は前衛芸術運動「ロシア・アヴァンギャルド」の一翼を担い、純粋に抽象的な理念を追求し描くことに邁進することになりました。作品は『黒の正方形(カンバスに黒い正方形を書いただけの作品)』や『白の上の白(の正方形)』(白く塗った正方形のカンバスの上に、傾けた白い正方形を描いた作品)など、意味を徹底的に排した抽象的作品を追求しており、戦前における抽象絵画の1つの到達点であるとも評価されていました。また、その前衛的主張ゆえにロシア構成主義に大きな影響も与えたと言われています。

造形芸術における極めて純粋な感覚の絶対性のことである。感覚の絶対性だけを描くこと、それがシュプレマティズムの理念だったということでしたが、そういうシュプレマティズムからすると、自然の諸現象からさまざまな印象をうけとって、これをあれこれ表現することは、まったく無意味にすらなってくると言うことです。自然や世界がたんに無意味だというのではなく、そこに適当な意味を付与することが自然を掴まえたことにはならないと言うことなのですが、そこで「何も加えない、何も引かない」という方法をマレーヴィチは考えたわけでした。考えたどころではなく、激越な無念無想をやってのけたと言ったらよいのでしょうか。

こうして、マレーヴィチが芸術を対象的なもののバラストから解き放とうと、正方形に活路を求めようと決意したのは1913年のことでした。このとき白い地に黒い正方形だけを描いて出品した。マレーヴィチのシュプレマティズムの全貌が姿をあらわしたのは1927年の大ベルリン美術展で、なにしろそこには「白の中の白」「白の中の黒」「黒の中の黒」しか提示されていなかったからです。これはカンディンスキーの抽象をこえていたし、クレーの自由をはるかにあしらっていました。とにかく、震撼たるセンセーションだったのは間違いありません。

この時期にマレーヴィチがいたということ、すなわち構成主義や表現主義や未来派や、キュビズム、ピュリスム、シュルレアリスム、ダダが林立するなかでシュプレマティズムが登場していたことが、まず驚きでした。何事であれ、このくらい徹して思考したいものです。だいたいぼくはカンディンスキーもクレーも、ジャコメッティもフォンタナも、あのような「徹底」して突き破っていかなくてはと思っていました。しかしマレーヴィチの「徹底」はもはやこれ以上の進展がないという際限をめざしたもので、いわば究極というものだったと言っても良いでしょう。

こうしたプロセスのなかで、レーニンのロシア革命が劇的に進行して行きました。しかもマレーヴィチは「思考と作品の一致」という難題にさえ突入していきました。だから最初は、たとえば「私はフォルム・ゼロにおいて変貌を遂げ、アカデミックな芸術の掃き溜めから私自身を引き上げた」ということでしたが、おまけに「フォルムが無から出発する」とはどういうことなのか、どう説明したらよいのかわかりません。フォルムをなくすのではなく、フォルムを無によってつくる?「ミロのヴィーナスはその堕落を如実に示す一例である。この作品は現実の女性ではなく、パロディなのだ」と。

マレーヴィチは「もの」を描くことをやめた。つまり何かを再現するときに求められる「約束事」を放棄したのである。シュプレマティズム(あるいは『黒の正方形』)は厳密にいえば、ある「もの」を抽象しているのですらない。そのかわりに絵画の本質とみなされたものこそ「色彩」であり、彼はそれを単なる「対象」の彩りではなく色彩のエネルギーとして自立させようとしたのでした。

新しい絵画のリアリズムはまさしく絵画のものである。なぜならそこには山のリアリズムも、空のリアリズムも、水のリアリズムもないからです。これまで、物のリアリズムはあったけれども、絵画の、色彩の諸単位のリアリズムはありませんでした。そうした単位は形態にも、色彩にも、相互の位置関係にも左右されないように構成されているということなのですが、『黒の正方形』は白地のカンバスに描かれた作品であるが、これは対になるものではなくひとつの色、「無色」であるということになります。彼はこの「何色でもない色」によって色彩を約束事から解放したということになります。

それは、世界が約束事やシステムによって細分化され、様々なカテゴリーを通して屈折させられた「もの」として知覚されることの否定であり、本来的な、生成状態にある世界をとらえる「感覚」(オシュシチェニエ)を描くことであるということになります。

以上の説明をもう少しわかりやすくすると「絵画を絵画たらしめているものは、色彩とファクトゥーラであり、これこそが絵画の本質である。しかし、この本質はつねにテーマによって損なわれてきた」。テーマが絵画を壊している。そうか、なるほど、テーマは不要なのである。これがマレーヴィチの旧美術界に贈る決定的な袂別の言葉ということになります。

ちなみにフォクトゥーラはマレーヴィチらの当時の前衛美術家たちが好んでつかった用語で、もともとは画肌(テクスチュア)のことだが、絵そのものが発揮しているぎりぎりのメッセージのことをさしている。さて、本書『無対象の世界』は、これまでのあらゆる美術論・芸術論のなかで最もストイックなものだったろう。しかし、これほどに自分の美術観念や芸術論思考を洗浄し、浄化してくれた一冊も珍しい。ただしそのかわり、本書を安易に読んでしまうということは、もはや芸術表現の衝動などおこらなくなってもいいですねということにもなってしまう。そこを覚悟させる一冊でもあります。

マレーヴィチが「無」の哲学者であることはまちがいがありません。それもはなはだ東洋的でありますが、しかしながら、その「無」は動ききったのちに静まりかえっていく無対象の無というもので、無という存在ではなく、存在という無なのです。お解りになったでしょうか? わからない。それは私の文章が未熟ということでもありますので、あしからずお許し下さい。

(引用画像:『シュプレマティズムの基本要素〜正方形無対象の世界』カジミール・マレーヴィチ著、バウハウス叢書11/中央公論美術出版)

 

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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