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Sep 30, 2018

絵描きの視点

エドヴァルド・ムンク

Photo & Text by Fumio Kansaku

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エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch1863年12月12日 – 1944年1月23日)は、19世紀 – 20世紀に活躍したノルウェー出身の画家です。ムンクはご存じ『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家とよばれています。愛、絶望、嫉妬、孤独など人間の内面を強烈なまでに描き出した絵は、表現主義の先駆けとなったと言っても良いでしょう。人間性や死に対して多大な関心を持っていたと言われています。

彼の性格は一言で語れませんが、アナーキスト作家ハンス・イエーガーとのつきあいがあったこともひとつの要因かもしれません。イエ―ガ―は、自由な愛を説き、一夫一婦制や女性の支配、家族というものに反対し、社会主義や無政府主義への傾斜をはらんでいました。また、ボヘミアン・カルチャー影響も受けていたようです。とにかく彼は体も弱かったことも相まって大変な読書家でもありました。文学、哲学、音楽、科学、医学、そして当時新興の分野であった心理学の本をむさぼるように読んでいました。

ここで、ムンクのプロフィールを紹介しておきます。ムンクはスウェーデン=ノルウェー連合王国時代のロッテンにあるアダルバスクの村の農家で、牧師の息子であった父クリスチャン・ムンクと母ローラ・キャサリン・ビョルスタのあいだに生まれた。父は医師でした。間もなく父の仕事の関係で、首都クリスチャニア(現オスロ)に移りました。彼を生んで、5年後1868年に母が病気で亡くなり、1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われました。この出来事は、彼にとってトラウマとなったようで、後の絵画作品に影響を与えているとも言われています。彼の女性観を育てたと言ってよいかもしれません。とにかく暗い幼年時代であったのは間違いありません。

そう言う環境に育ったわけではないでしょうが、彼は生まれたときから体が弱く、幼少時に気管支炎、関節炎にかかり、十三歳の時には結核のため、吐血したりしています。更に彼の言葉によると「物心がついてから、生の不安が僕から離れたことはない。僕の芸術は自己告白だった・・・。生の不安も病もなければ、僕はまるで舵のない船だったろう」と述べています。彼がポーの怪奇小説を少年時代に読んでいたことも彼の芸術の大きな手助けになったと思われます。とにかく何かに終始おびえていたと言ってもよいでしょう。

ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かいました。ムンクの『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しています。ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえますが、実際、1890年代の『叫び』や『思春期』といった一連の作品では、死と隣り合わせの生命、愛とその裏切り、男と女、生命の神秘など、生命の本質の問題が扱われており、その全てに、説明し難い不安が通底しています。ムンクはこう言っています。「自然とは、眼に見えるものばかりではない。瞳の奥に映し出されるイメージ、・・・魂の内なるイメージでもあるのだ」と。

ムンクの「叫び」ですが、現在、版画の他、テンペラ、油彩画など4点ほど現存しています。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているのですが、特に「叫び」はその遠近法を強調した構図、血のような空の色、フィヨルドの不気味な形、極度にデフォルメされた人物などが印象的な作品で、ムンクの作品の中でも最もよく知られております。ムンクの代名詞となっていますが、絵葉書に始まり、様々な商品に意匠として採用されており、世界中で『モナ・リザ』と並び美術愛好家以外にも抜群の知名度を誇る作品でもあります。

ムンクが「叫び」についてこのように述べています。

”僕は、2人の友人と散歩していた。日が沈んだ。突然空が血のように赤く染まり、僕は憂鬱な気配に襲われた。立ち止まり、欄干に寄りかかった。青黒いフイヨルドと市街の上空に、血のような、炎を吐く舌のような空が広がっていた。僕は一人不安に震えながら立ちすくんでいた。自然を貫く、ひどく大きな、終わりのない叫びを、僕はその時感じたのだ”

つまりそれはムンクが叫んでいるのではなく、世界のほうが叫んでいるということなのです。ムンクはそれを突如として感知し、自らも思わず耳を塞ぎ、大きく口を開けてしまっている。つまり、これは聞こえてしまった人の絵画=幻聴絵画という説明をしています。

更に「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と述べています。ムンクは、『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品を、「生命のフリーズ」と称し、共通するテーマは「愛」、「死」、そして愛と死がもたらす「不安」でというのがテーマとなっていますが、後に「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」をして、生きる喜びを描きたいと宣言しています。メモによると 「室内画、読書する人物、編み物をする女、そんな絵はもういらない。 呼吸し、感じ、苦悩し、愛する、生身の人間を描かねばならない」と。

1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めました。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまいました。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となったわけです。ムンクは若い頃スケッチブックに次のように書いています。

”私の唇に重なった、燃えるような、上下の唇。天国も地獄も無い。二つの黒い目は、私をじっと見ている”

ムンクは1908年、精神が不安定になり、デンマークで療養生活に入り、1909年にノルウェーに戻り、以後の後半生を過ごすことになります。その前はパリやベルリンなどに活動の場を広げていましたが、ノルウェーに戻ってからは晩年まで創作意欲は衰えることなく、病弱と言われながらも膨大な数の作品を残し80年の生涯を閉じました。

ムンクは若いころ端正な顔立ちで、長身な外見で、町を行けば女性が振り返るほどの美青年だったということでした。そんなムンクなのに、なぜか不倫の恋ばかりして、嫉妬と不安に苦しむ道を選びました。 未婚女性と交際することもあったのですが、結婚を迫れると逃亡したりしたようです。挙げ句の果て生涯独身を貫きました。結婚を望む恋人にピストルで撃たれたこともあったということです。とにかくもてていたのは間違いないようです。

ムンクはこう考えていました。「朽ちゆく私の体から、花が育つだろう。そして、私は花の中に。それが永遠である」と。「 ”海”とは、浅瀬だけではない。深海もまた、同じ”海”なのだ。 ”海”のことを語りたければ、そのことをよく考えてからにするといいだろう」

ちなみに、ゴッホはこう言いました。「常に悲しみを要求する人生に対して、僕らに出来る最上のことは、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみを笑い飛ばすことだ」実業人が実業人として完成するためには、三つの段階を通らぬとダメだ。第一は長い闘病生活。第二は長い浪人生活。第三は長い投獄生活である。このうちの一つくらいは通らないと、実業家の端くれにもならない」マルク・シャガールは 「愛だけが私の興味をひくものだから、愛を取り巻くものしか私は関わりを持たない」と言い、ルノワールは「人生には不愉快な事柄が多い。だからこれ以上、不愉快なものを作る必要は無い」と言い、ピカソはこう言っています。「芸術は悲しみと苦しみから生まれる」

偉大なる芸術家たちは皆、悲しみを背負っていました。芸術は自然の対立物であり、芸術作品は、人間の内部からのみ生まれるものであって、それは取りも直さず、人間の神経、心臓、頭脳、眼を通して現れてきた形象にほかならない。芸術とは、結晶への人間の衝動なのであったのです。ムンク『私は病気を遠ざけたくはない。私の芸術が病気に負うところは、実は大きいのだ。』「自然を貫く、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」

 

 

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Fumio Kansaku

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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