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Aug 2, 2019

絵描きの視点

Text by Fumio Kansaku
村井正誠
yosedoHome Pageより 抜粋。 「鳥」

画家締めくくりに私の文化学院の先生であった村井正誠に行きたいと思います。

私は文化学院1971年4月から入学、そしてその年の文化学院は50周年を迎えて講堂で華やかにパーテーが行われました。芸能人が多く出席し、かれらと同じ学校と言うことで誇りにも思え、多分平成4年頃まで文化学院に通い続けたと思います。土曜日だけというのも丁度良かったのと、毎年いろいろいな人が入学してくるのが面白かったということもありました。とにかくやめるにやめられず毎年通ってしまったというのが真相でした。

午前中、村井先生の授業で油絵を描き、午後に大体5週ぐらいに彫刻、版画、金工、織物などの先生が交代でいらっしゃり一年間で卒業という仕組みでした。最初の5年間ほど夏休みに2週間にわたって織物教室に通ったということからアート&クラフトセンターの堀内紀子にも師事致しました。この先生は,箱根彫刻の森にある編み目の彫刻で有名な方です。アート&クラフトセンターはデザイン科の坂倉ユリさんの主宰でしたから。学院のロビーで展覧会をしたときに、たまたまロビーで友だちと駄弁っていた庄野真代さんに「これは何のグループ」と話しかけられたことがありました。

ここで村井正誠の簡単な経歴を述べておきたいと思います。

村井正誠は岐阜県に生まれ、村井昌澄と、とみゑの次男として誕生しました。眼科医のであった父の転勤によって、幼少期を和歌山県新宮町(現・新宮市)で過ごしました。新宮第一尋常小学校3年生の頃に土手でスケッチをしている西村伊作(後に入学する文化学院の創設者)にであいました。西村の作品を後ろから覗き見た経験が美術に対して興味を持つきっかけの一つになったということでした。

 大正11年(1922年)旧制新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)卒業後上京します。 大正13年(1924年)川端画学校に通いはじめ、ここで盟友となる山口薫、矢橋六郎と出逢うこととなりました。語学学校アテネフランセにも通い、アテネフランセと目と鼻の先にあった文化学院大学部美術科に一期生として入学しました。大正14年(1925年)のことです。そのとき教師であったのが石井柏亭、正宗得三郎、山下新太郎、有島生馬らであり、教えを受ける事となりました。それと同時に後に妻となる小川孝子と出逢うこととなりました。在学中、昭和2年(1927年)第14回二科展で《新宮風景》が入選となりました。

昭和3年(1928年)に同学院卒業と同時に、フランス船にて渡仏、留学した。在仏中の有島生馬の紹介で、藤田嗣治と、海老原喜之助に会う。藤田宅のある小説家や、絵描きのいる文化人横丁モンパルナスにアパートを借りて、作品制作をしながら、小型乗用車を乗り回しヨーロッパ各地を旅した。エトルスク美術(エトルリア美術)などの原始美術や、ビザティン美術など初期キリスト教美術を直に触れた事も以後の作品制作に影響を与えることとなりました。 そしてモンドリアンの幾何学抽象やアンリ・マティス、ピカソなど前衛美術に多大なる印象を受け、具象風景作品から抽象芸術に移行していった。 留学生仲間に添田知、津田(大津田)正豊、津田正周、長谷川三郎、矢橋六郎がいる。

昭和7年(1932年)帰国。生前、暮れに出発して正月が明けてから帰れば何年か得するよとしゃぁしゃぁと述べていました。

昭和8年(1933年)2月、文化学院の同期で女流画家協会の結成当初の会員であった小川孝子と結婚する。昭和9年(1934年)会員待遇にするからと独立美術協会の里見勝蔵に誘われて二科会を出品を辞め、第4回独立美術協会展に出品(その後、同年独立不出品同盟に名を連ねる。〈大津田正豊、長谷川三郎〉独立美術との絶縁と独自の美術運動を起こす旨を声明。)山口薫、矢橋六郎など学生のころからの友人や、大津田正豊、瑛恷、浜口陽三、長谷川三郎、シャルル・ユーグらと新時代洋画展を結成。

昭和13年(1938年)母校文化学院の講師となり以後平成9年(1997年)まで勤める。昭和14年(1939年)外山卯三郎らによって新設された美術工芸学院の教授になる。昭和18年(1943年)、西村伊作が反政府思想や天皇を批判、自由思想によって不敬罪で拘禁されたため、日本政府によって文化学院強制閉鎖。

戦後になり村井正誠は抽象画家として名をなすことになり、その活躍が名声を生むことになったと言って良いだろう。戦争中は世田谷の班長をしていたと述べていました。昭和20年(1945年)敗戦を自宅迎える。文化学院が再開され、復職することになった。 昭和21年(1946年)日本美術会の結成に参加。要するにアンダパンダ展のことである。村井正誠は戦後は最初は無審査の公募展から始まりました。

 昭和24年(1949年)東京教育大学教育学部芸術学科の非常勤講師になる。 昭和25年(1950年)には植村鷹千代と江川和彦、瀧口修造、阿部展也、古沢岩見、岡本太郎、北脇昇、福沢一郎らと日本アヴァンギャルド美術家クラブ創立に参加し、さらに昭和28年(1953年)には、山口薫、矢橋六郎、中村真、植木茂、小松義雄、吾妻治郎、荒井龍雄、小川孝子とともに、自由美術家協会とモダンアート協会を設立しました。自由美術協会は軒先を貸して母屋を取られる形で会員から追われ、モダンアート協会を設立したと聞いています。

長谷川三郎、西田信一、脇田和、川端実、山口薫、等と共にエスプリ会(1951年)。長谷川三郎、植木茂、恩地幸四郎、川口軌外、末松正樹、西田信一、山口長男、山口正城、吉原治良、瀧口修造、植村鷹千代らと共に日本アブストラクトアートクラブ、国際アートクラブ日本支部(1953年)などの創立に加わる。この頃が戦後の村井正誠の最盛期であったと言っても良いかもしれない。

昭和29年(1954年)、武蔵野美術大学教授に就任。昭和30年(1955年)、日本国際美術展で佳作賞昭和35年(1960年)イイノホール(飯野ビルディング)に石壁彫刻と寄木壁画の大作を作成。 昭和37年(1962年)現代日本美術展で「黒い線」が最優秀賞を受賞。村井正誠によると、頭が一時変になったと申しておりましたがそれはそれで良かったと思います。東京国際版画ビエンナーレ展で文部大臣賞を受賞。昭和41年(1966年)から昭和42年(1967年)まで日本美術家連盟理事長も務めた。 同年、(1966年)和歌山県新宮市民会館の玄関ホールの壁画「熊野」を制作。高さ3メートル、幅18メートルの大きさで、熊野三山、八咫烏、浜木綿などを描いている 。

昭和42年(1967年)村井正誠・小川孝子二人展を竹川画廊で開催。以降毎年開催して1998年まで続けました。昭和45年(1970年)新宮市名誉市民の称号を贈られる、和歌山県文化賞受賞。和歌山県民文化会館のステンドグラスをデザインした。 この年に、私が文化学院に入学致しました。昭和46年(1971年)和歌山県で開催された第26回国体の参加賞、記念賞をデザイン。 昭和50年(1975年)武蔵野美術大学造形学部油絵科教授を辞す、武蔵野美術大学より武蔵野美術大学名誉教授の称号を贈られる。

昭和54年(1979年)和歌山県立美術館にて個展開催。同年神奈川県民ホールギャラリー(神奈川県県立ホール)にて個展開催。 和歌山県市民大ホールの緞帳のデザインを担当。昭和59年(1984年)鎌倉画廊にて個展「水彩による表現”PART 2」開催以後定期的に同画廊にて個展を開催。昭和60年(1985年)埼玉県庄和町(現在の春日部市)文化学院芸術専門学校設立に西村久二(西村伊作の長男)や大山美信(文化学院の教え子)らとともに参加。開校当初から講師を勤める。同年 勲四等旭日小受章授与される。昭和61年(1986年)、和歌山県丹鶴場址に、文化学院の学長の与謝野鉄幹「与謝野寬の歌碑」を造形(石造)。短歌「高く立ち 秋の熊野の海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに」を刻んでいる。

昭和63年(1988年)文化学院芸術専門学校美術科科長就任。昭和64年/平成元年(1989年)9月9日、妻小川孝子逝去。享年81歳。昭和8年~昭和64年、56年の結婚生活であった。この頃から奥さんであった小川孝子をめぐって文化学院とも上手くいかなくなったようです。この頃から、新しい奥さん派と、古い奥さん派にはっきりと分かれていきました。

平成3年(1991年)「飛ぶ二人」大理石壁画、東京都議会議事堂。平成7年(1995年)1~7月、村井正誠展が神奈川県立近代美術館、大原美術館、岐阜県美術館、富山県立近代美術館、和歌山県立近代美術館を巡回する。長年にわたる美術界への貢献に対して、平成9年(1997年)には、 中日新聞社中日文化賞、世田谷区文化功労者を受賞。 母校和歌山県立新宮高等学校の玄関に壁画「新宮の山と海と空」を制作。平成10年(1998年)には、中村彝賞を受賞した。平成11年(1999年)2月5日。逝去享年93歳。平成17年(2005年)3月29日、村井の遺族が、生誕100歳を記念して建築家の隈研吾に依頼し、東京都世田谷区にある生前のアトリエ兼、自宅を改装し、村井正誠記念美術館を開館した。

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Fumio Kansaku

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画家 誰でも同じ数字で歳をとります。多少の違いはあるけれどだいたい100年できりとなります。私も後ろから数えたほうが良い歳となりました。あと何年生きら れるのでしょう。できるだけ長く生きたいという願望が強いです。100歳を超えて、150歳よ りもっとですがそれは無理でしょう。私は絵を書き始めてから40年は超えていますが、ようやく自分の絵を描ける入り口が見えてきたかなというところなの で、まだこれからという思いが強いのです。できるだけ健康には気をつけてやっていきたいと思っている今日この頃です。 The following two tabs change content below.
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